『とことん女運の悪い男とストーカー女』…第4章・真実
「え…?私…」
目を覚ました時、咲美は冷たいコンクリートの床に横たわっていた。頭が重く、首筋に鋭い痛みを感じた。薄暗い部屋には椅子とテーブルだけがあり、壁には窓が無い。
「何で、どうして、こんな……あっ!」
混乱していた咲美は自分の記憶を辿り、思い出した。
自分は街で見つけた明日香を追跡し、彼女に害を成そうとした…
しかし…
――――――――――
咲美は息を潜め、スーパーを出て帰路につく明日香を見つめていた。
「許さない…あんな女の存在なんて…」
嫉妬の炎を燃やし、ポケットの中でナイフを握りしめ、彼女は追跡を開始した。距離が縮まるにつれ、咲美の胸は高鳴り、狂気に満ちた笑みが抑えきれなくなった。
そして、人気が無い場所に来た時…
突然、明日香が振り返った。
「え…!?」
咲美は一瞬、目を疑った。明日香の顔に浮かんでいたのは、いつもの穏やかな微笑みでは無い。冷たく、鋭利な刃のような表情で、まるで獲物を逃さない猛禽類のようだ。
「…ずっと後をつけたりして、私には同性愛の趣味は無いわよ、咲美さん」
その声は低く、抑揚を抑えた冷たい響きだった。普段の優しげな口調はなく、まるで別人のような威圧感があった。咲美は言葉を失い、ナイフを握る手が震えだす。
「き、気付いていたの?…あなた…一体…」
咲美は困惑した。明日香は義彦を支える優しい看護師のはずだ…しかし、今の彼女から放たれる空気は異様だった。明日香は一歩踏み出し、咲美との距離を詰めた。その動きは流れるように滑らかで、まるで訓練された者のそれのようだ。
「前から思っていたけど、ずいぶん大胆ね。こうして黙って後をつけたのは…もしかして…私を消したいのかしら?」
突然別人の様に豹変した明日香に咲美は恐怖を覚え、後ずさりながらも必死に言葉を紡いだ。
「あなた…あなたが義彦を奪ったからじゃない!私が…私が彼の妻としてそばにいるべきなのに…!」
咲美の喉から悲痛な言葉が漏れた。だが、明日香の表情は微塵も揺るがない。彼女は冷ややかに咲美を見下ろし、静かに言った。
「ふん、奪ったなんて随分な言い掛かりね。彼と別れる事になったのはあなたの人間性が問題だらけだったからじゃない。逆恨みされる方は堪らないわ…私としてもそれで計画に支障が出るのは避けたいし」
混乱する咲美が「計画?一体何のこと?」と問う前に、明日香が素早く動いた。彼女の手が咲美の腕を掴み、女とは思えないほどの強い力でねじり上げる。ナイフがポケットから落ち、アスファルトに乾いた音を立てて転がった。咲美は悲鳴を上げようとしたが、明日香のもう一方の手がその口を塞いだ。
「つくづく馬鹿な女ね…騒がないでちょうだい」
明日香は咲美の首筋に素早く何かを押し当てた。鋭い痛みが走り、視界が揺れた。「何…!?」と思う間もなく、意識が遠のいていく。咲美の体は力なく崩れ落ち、明日香の腕に支えられた。
明日香はスタンガンで咲美を気絶させ、彼女を冷ややかに見下ろし、片手で耳に小さな通信機を押し当てる。
「…ええ、例の義彦の元恋人よ。しつこいから仕方なく処理した…指示をお願い」
通信の向こうから低い声が返ってくる。明日香は短く応じた。
「了解。なら、指定の場所に運ぶわ…ええ、もちろん義彦には気づかれないようにする」
彼女は通信を切り、意識のない咲美を一瞥する。
「悪いのはあなたよ?」
――――――
「…………」
目を覚ました咲美の目の前には大きなお腹をした明日香が立っていた。無表情で咲美を見下ろすその姿からは、優しい看護師の面影が完全に消えていた。瞳は冷たく、まるで感情のない機械のようだった。
「やっと目が覚めたのね」
その声は低く、静かだが、威圧的な響きを帯びていた。咲美は慌てて体を起こそうとしたが、手足が震えて力が入らない。
「ここは…どこ?あなた、一体…?」
怯えながら問いかける咲美に、明日香はゆっくりと口を開いた。
「私が何者かって?まぁ、教えてあげてもいいわね。どうせ、あなたはもう逃げられないのだから」
明日香は椅子に腰掛け、咲美を見据えた。
「私はある国で働いているの。義彦はただの道具よ。周囲の…世間の目を欺くための、便利な偽装にすぎないわ。」
咲美の頭が一瞬、真っ白になった。
「ある国…?偽装…?何なのよそれ…!?」
「言葉通りの意味よ。日本での活動をスムーズにするために、私は普通の市民として振る舞う必要があったの。看護師の仕事、静かな生活、そして義彦との結婚。全部、表向きにすぎないの。後、彼を選んだのは偶然よ。街でたまたま見かけて、その平凡さが目に留まったの…きっかけはただそれだけ。近づいて親しくなるのは簡単だったわ。疑われにくい男だったから、ちょうどいいと思ったのよ。」
「は…!?」
「あなたみたいなストーカー付きだったのは予想外だったけどね」
突然、平和な日本には場違いなほどスケールの大きな話となり、咲美は絶句する。
「う、嘘でしょ?それじゃ、あなた…まさかスパイなの!?」
「ええ、その通りよ。驚いた?」
驚愕とともに咲美の胸が締め付けられた。恋敵と思って憎んできた明日香は、義彦を愛していない上に、自分を心から信頼し愛してくれている彼をただの駒として利用していたのだ。それなのに――咲美はあまりの悍ましさに震えた――彼女のお腹には確かに子が宿っている。あの妊娠は断じて偽装では無い。本物の命だ。
「ちょっと…ちょっと待ちなさいよ……じゃあ…そのお腹の子は…?」
咲美の声が震え、言葉が途切れる。明日香は冷たく笑った。
「この子?この子は正真正銘の義彦の子。でもこれも任務の一環なのよ。信じられないかもしれないけど、必要とあれば本当に肉体関係を持って妊娠して子供を産むことくらいできるわ。それに、人材確保の手間を省くためもあるわね。将来、スパイ活動を担う子供を産む。それも私の役割の一部なの。」
「何よ…それ…」
明日香の精神と背後の組織の意思は、常軌を逸した冷酷さで成り立っていた。子供の誕生も、任務に必要な物を得る為の一手でしか無い。
狂気の世界に唖然とする咲美だが、明日香の次の言葉に息が止まった。
「それで、咲美さん、あなたには感謝しないといけないわ。あなたの暴走のおかげで、義彦は私を心から大切に思ってくれてる。これで日本での活動に必要なものが全て揃ったのよ」
「感謝…?どういう意味よ!?」
「あなたが義彦の周りをうろついて、脅かし続けたから、彼は私にすがるようになったの。妻となり子供を身籠もった私を守ろうと必死になって、私と愛し合っていると心の底から信じて疑っていない。あの純粋さが、私の偽装を完璧にしてくれた。ありがとうね、咲美さん。本当に助かったわ」
その言葉に咲美の心が砕けた。彼女が義彦を取り戻そうと追いかけた結果が、逆に明日香の計画を後押ししていた。義彦の愛情も、明日香と背後にいる黒幕にとってはただの道具にすぎない。それにもかかわらず彼女は任務のために本当に妊娠し、彼の子を産もうとしている。咲美の目から涙が溢れた。
「何なのよ…!あなた、義彦の事を愛していない癖に、彼の子を産むなんて…!」
咲美は絶叫するが、明日香は微塵も動じず、冷ややかに見下ろすだけだ。
「愛なんて、別に私には必要無い。義彦が信じている幸せな家庭も、私にとってはただの舞台装置にすぎないの。それと、あなたにも同じ役割を担ってもらうつもりよ。せっかくここまで来たんだから、無駄にしてはいけないわね」
不穏な言葉に咲美の体が凍りついた。
「…あなた、私をどうするつもり!?」
「あなたには子を産んでもらうわ、将来の組織の活動のためにね。私みたいに」
「な、何ですって!?」
あまりの事に咲美は青ざめる。明日香の声には感情がなく、ただ事実を告げる冷たさだけがあった。
「嫌よ…そんなの絶対に嫌…!」
咲美は首を振って後ずさる。すると、明日香は初めて感情らしいものを顔に浮かべた。薄い、嘲るような笑みだった。
「嫌でも選べないわ、私の母もそうだったもの」
「あなたの…母?」
「ええ、私の母は日本で重い罪を犯した犯罪者だったの。それが災いして目をつけられ、組織に売られて子供を産む道具として使われた。それから私を含めて何人か子供を産んだの」
「な…!?」
「で、最後は用済みになって…消された…って訳」
「そんな…嘘でしょ…?」
咲美の声は震え、恐怖で涙が止まらなくなった。明日香の出自の話は、都市伝説のように囁かれる闇の話――スパイや秘密組織が子を産ませ、育て、使い捨てるという噂――を彷彿とさせた。それが今、現実として自分に突きつけられている。明日香は冷たく咲美を見下ろし、淡々と続けた。
「事実よ。母がどうやって死んだかまでは知らないけど、組織にとっては当たり前のことよ。私も間違えればいつかそうなるかもしれない…だから失敗できないのよ」
咲美は愕然とした。
これまで明日香を義彦を奪った女として憎み、恐怖を与えているつもりだった。だが、実際は違う…義彦と一緒にこの女の表向きの顔に騙され、掌で踊らされていただけだった。そして、こんな事態になってしまった。義彦への執着の結果がこれだなんて。頭の中がパニックで埋め尽くされた。
「冗談じゃ無いわよ!!何で私や義彦があんた達みたいな訳の解らない連中の犠牲にならないといけないのよ!?」
咲美の泣き叫ぶ声が部屋に響いたが、明日香は動じない。彼女は通信機を取り出し、静かに告げた。
「準備ができたわ。ターゲットを移送する。日本国外へ。指示通りにね」
咲美は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず崩れ落ちた。涙が止まらず、震える手で床を叩いた。
「やめて…お願いよ…!どうして、どうして私がこんな目に…!」
「どうして?自業自得じゃないの。それに…あなた、私とこの子を殺すつもりだったんでしょう?おまけに整形して入れ替わろう…なんて」
「…っ!?」
驚愕で言葉に詰まる咲美。確かにあの時、興奮して髪を切りながら不穏な事を口走っていたが、部屋にいたのは自分一人だったはずだ。
「あ、あなた…私を監視して…?」
「自分の命を狙うかも知れない相手から目を離すとでも?私の仲間が24時間しっかりとあなたを見張っていたわ。当然、盗聴もしてね」
「そ、そんな…。」
全く気付いていなかった咲美に明日香は溜息を吐いた。
「あなた、義彦に夢中になり過ぎて自分のセキュリティは全く疎かになっていたから、やりやすかったわ。潔く彼を諦めていれば少なくともこうはならなかったのに、あなたは自分で自分を地獄へ堕としたのよ。せっかく平和な国に生まれて、色んな選択ができる立場に恵まれていたのに、色恋沙汰にこだわり続けて暴走した結果、何もかもを台無しにした。それをまずは自覚しなさいな。」
明日香は呆れた様子で冷たく言い放った。
「あなたにもう選択肢は無い。私の母にも無かったように」
「い、いや、やめ―――」
「私もあなたみたいな小悪党にいつまでも構う時間は無いのよ、さっさと片付けて自分の仕事をしないとね」
その後、咲美は意識を失った。
目覚めた時、彼女には死ぬまで続く悪夢の日々が待っている…。