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光の正体 その1

 楡の木(にれのき)村郊外の邸宅は森の中に建っていた。周囲の家から離れたひっそりとした豪邸だった。豪族の住居ではなく避暑としての別荘だった。そこに人が住んでいたのは30年以上も前の話だ。暑い季節になると狩りをするためにその豪族は家族と一部の部下だけを連れて短い滞在を楽しむのが恒例だった。

 妻の方は狩りの趣味はなく、また、夫が彼女のほかに愛人も一緒に同伴させるので心中は穏やかではなかった。

 この別荘に滞在すると必ず一人の男が大きな荷物を持って夫人を尋ねてきた。この地域だけで商売をしている呪術師で、ほかでは見ることのない秘薬をいくつも持ち込んでは夫人にそれを売り込んでいた。最初は半信半疑だった夫人も、試させた下女に確かに効果が現れてからは、不思議な紋様の刻まれた容器に入った若さを維持する塗り薬というものを毎年買い占めていた。信用してからは部屋の者を下がらせて一対一で買い物をするようになった。どのような薬を買っているかは付き人にも知られたくなかった。夫人は当年で四十歳だが、老いを気にしている思われたくなかった。

 その年もいつもの取引が終わり、男が金の勘定を終えると、これもまた恒例のように新製品の売り込みを始めた。いつものと違うのは、その年は美容についての売り込みではなかったという点だ。

「ほかに何かお入り用のものはございませんか?」男は常に異臭を漂わせていた。「若さを維持する秘薬もございますが、証拠を残さず人を殺す毒などもございます」

 夫人はそのダイレクトで品のない物言いに一瞬、体を固くした。誰が聞いているか分からない。こういうときは、憂いを排除する薬や心配事を解決してくれる薬などと言うものだ。

 夫人も多くの修羅場を乗り越え、暗殺の手から逃れ続けて今の地位があった。人を見る目はあるつもりだ。この呪術師とも行商人とも祈祷師とも、正体のよく分からない男は自分の味方だろうか?

「いつ気づいた?」彼女は言った。「最初からか?」

 男は答えない。顔を伏せて床を見ている。まだ若い。夫人はその顔に野心のようなものを見た。このような提案は男にとっても諸刃の剣である。殺されても文句は言えない。一か八かの賭けに出ている。

「最初からではございません」男はたっぷりと間を取ってから言った。「最近の様子を窺いますに、そのような薬も入用いりようなのではないかと……」

 今も部屋には他に人はいない。しかし夫人は顔を上げて部屋の中に誰もいないことを確認せずにはいられなかった。

 もちろん部屋に他人はいなかった。

 提案を聞いた直後に、そのような薬は不要だ、去れ、二度と顔を見せるなと男に言えなかった時点で本来の駆け引きは終了していた。夫人は沈黙したままだったが、その沈黙が薬への興味を露骨に示していた。

 夫人は何も言えないままだった。去れとも言えなかった。

 男は荷物の中から小袋の一つを取り出した。見たこともない種類の木の皮で作られていた。「これなどは服用して二週間後に流行病はやりやまいのような症状で死に至ります。誰にも毒とは気づかれません」

 夫人はその袋をじっと見つめた。濃い木の根のような茶色をしている。口は三重に折り畳んだところを紐で縛って留めていた。表面から毒が漏れているような気がした。

 男は親指ほどの小さな瓶を取り出した。「こちらを飲むと顔や全身に吹き出物が現れます。そこが腐って二度と見れない醜い姿になってしまいますが、命に別状はありません」

 夫人は思わず口元をほころばせてしまった。

「こちらに興味がおありで?」

 夫人は微動だにしなかった。何も返事をせず、黙ってその瓶を見ていた。デザインは香水の瓶のようにも見えるが、中身を聞くとどうしても風靡とは感じられなかった。

 男は小瓶を自分の荷物台の上に置いた。夫人の目に嫌でも入る位置だ。さっきまで若さを維持する秘薬や髪の艶を復活させる薬を置いていた台だとは思えなかった。

 沈黙があった。

 夫人は男が次の薬を出すのかと思った。だが男はそれからしばらく何も動かなかった。

 男は山を駆け回る狩人の服装をしていた。暗い上着とズボンに厚手の外套を羽織っている。商談の際に外套は脱いで横に掛けていたが、それでも薬草や珍しい動物を探すために日夜山に入っているという生活をうかがわせた。顔以外のほとんどの肌を外に出していない。両手にも布を巻いて指を出さないようにしている。その下の指に鉤爪があっても、舌が細長く先が割れていたとしても、夫人は驚きはしなかっただろう。目は見える。瞳孔は普通の丸い瞳孔で、猫のような縦長には見えなかった。黒くて深い、真意の見えない目だ。

 男は今度は何も見せず、言葉だけで、「そのほかにも、苦痛だけが続いて苦しみながら死に至る拷問用の薬などもございます。飲んだ者が死を願うほどの苦痛です」と言った。

 夫人は軽く頷いて、諸々のやりとりに容認の姿勢を示した。「いくらだ?」

「大変貴重なものです。安くはありません。しかし奥様にでしたら金貨100枚でお譲りしましょう」

「はっ」夫人は笑った。「大きく出たな」

 この場でぽんと払える金額でもなく、夫にバレない金額でもない。

「しかしこちらは」と男は台の上の小瓶をちょっと見てから言った。「本当に大変貴重なものです。私が生きている間に何度も手に入れられるものではありません」

 口調は実に丁寧だ。駆け引きではあるが、夫人に不利な駆け引きだ。男には売らないという選択肢がある。しかし夫人には選択肢がなかった。

「いいだろう」夫人は小瓶をちらりと見た。「それを貰おう」

「ありがとうございます」男は深々と頭を下げた。「全量は不要です。この瓶の中身の半分を食事に混ぜるだけで効き目がございます。熱に弱いのでできれば熱々のスープなどは避けてくださいませ」

「分かった」夫人は外に向かって言った。「誰か!」

 女中が入ってきた。「失礼します」

「この者に金貨100枚を」

 女中も戸惑ったがすぐに、少々お待ちくださいと言って退出していった。簡単な買い物ではないがおそらくは話が通るだろう。夫は愛人に夢中だ。買い物で機嫌が直るなら安いものだと判断する。

 機嫌は直るさ。すでにこの買い物で半分は直っている。残りの半分はグズグズになった小娘の顔を見れば直るだろう。

「どのくらい醜くなる?」

「それはもう、最高に醜くなります。ご期待に応えられます。満足いただけなかったらもちろん返金いたしますので」

「約束だな」念を押す。

「はい」

「そうか。楽しみだ」

 夫人はようやくその小瓶を男から受け取り、しっかりと懐に入れた。


 別荘に来てから夫人の夫は彼女と食事も共にしない。彼女は一人で食べていた。

 夫は寝室や庭園で愛人と二人で食事をとっていた。

 夫人は一人で、給餌に見守られながら一人で食事をする。もちろんこれは、愛人の小娘を殺すのに充分な罪になる。別荘で妻を一人で食事させていい理由などない。

 世間体を気にしなくていいというのは夫にとっての別荘のメリットかもしれないが、夫人にもメリットがあった。人が少ないためにセキュリティが緩くなることだ。毒見をして食事を運ぶ人間が一人だけになる。

 その日の夜は寝室で食事をすることにしたようだ。女中は寝室に夕食のカートを運んでいた。都合がいいことに、二人の食事はどちらがどちらの食事か分かるように別の皿になっていた。自分が狩った鹿を愛人に食わせたいという夫の自己顕示欲が前面に押し出されたメニューだった。小娘はその期待に応えるだろう。本当に無邪気においしいですわと言うだろう。

 今夜のメニューは特別においしい。

 夫人は夕食を運ぶ女中を呼び止めた。「待て。それは二人の夕食か?」

「奥様」女中はも夫人への同情を隠せてなかった。「はい。そうです。今日はお二人は寝室に食事をお持ちするようにと」

「いい。気にするな」彼女は女中の戸惑いを制した。「メニューが気になってな」

「旦那さまの獲られた鹿にございます」

「ふむ」夫人はカートに近づき、どちらが女の食事か見定めた。野菜の煮込みがあって、熱々ではないので都合がいい。「ここで待っていろ。これは私が持っていく」

「え?」

 女中は戸惑ったが、夫人がカートを押し始めてもその場に立ったままだった。背中で手元が女中から見えない位置まで移動すると、そこで立ち止まり瓶を取り出した。どばどばと目分量で半分を料理にふりかけた。透明で色も臭いもないことは確認済だった。

 彼女は振り返り、「冗談だ。持っていけ」と言った。

 女中はほっとしてまた近づいてきた。「ありがとうございます」

「二人によろしく伝えてくれ」

「は、はい」

 もちろん夫人も、この女中が二人に何か伝えるわけがないと分かっていた。そんなことをすれば機嫌を損ねてしまう。それでも夫人は、女中が寝室の二人に、『奥様がよろしくとおっしゃってました』と伝言するシーンを想像して愉快な気持ちになった。

 夫人はカートを運ぶ女中の背中を見た。その姿はどんどん離れていく。小娘と夫がいる寝室に近づいている。夫人は一瞬だけ、その女中を呼び止めたくなった。ちょっと魔が差しただけだ。今なら近づいて足を滑らせれば料理を駄目にすることができる。それでなかったことにできる。

 しかし、夫人は口を固く結ぶと、女中の背中から目をそらた。反対方向、自分だけで、一人きりで食事をするダイニングへと向かった。

 薬に即効性はなかった。その日から夫人は焦る気持ちを抑えきれず挙動不審になった。愛人の様子はどうかと見たくなったが、夫も愛人自身もなるべく夫人と会わないようにしていたので、それも難しかった。あからさまに二人の様子はどうかとか、変わった様子はなかったかと召使いたちに聞いてしまい、それも日に何度も聞くので怪しくなってしまった。

 三日が経過した。瓶の残り半分を使わないでいたのは夫人の忍耐力のせいではなく、不自然すぎて食事に近づけなかったからだ。

 夫人が話し相手もなく退屈をしていると、女中たちが早足で廊下を歩いていくのが見えた。彼女が期待していた光景だ。

「何かあったの?」夫人は女中の一人に尋ねた。

「それが、リスーピ様が倒られまして。様子がおかしいのですが、医者もおらず……」その目が泳いでいた。夫人と目を合わすのも恐れていた。

 夫人は愛人の様子を説明するのを躊躇しているのかと思った。しかしそうではなかった。女中の表情に浮かんでいるのはもっと純粋な恐怖だ。女中として寝室に行かなくてはいけないが、できれば行きたくないという様子だった。

「そう。大変ね」夫人はわざとそっけなくして、あとは女中が立ち去るのに任せた。

 女中たちは廊下を歩いていく。夫人は好奇心を抑えられず、その背中を追いかけた。

 二人の寝室は別荘の隅の方に位置していた。そちらから別の女中が桶をもってきていた。中に液体が入っているのが分かる運び方だ。桶の周囲に血がついて赤くなっていた。ちゃぷちゃぷと音がする。

 女中は夫人に会釈をした。すれちがうときに桶の中の血が見えた。その黒っぽい血の中に蛇のような生物がいて中でうねうねと動いていた。

 夫人はさすがに驚愕して、「え? それは何?」と聞いてしまった。

「あ、いえ、奥様。その、リスーピ様が吐血されまして、それが……」

「それは?」

 女中はちらりと桶を見た。「それが、その、血の中に生き物が混じっております。近づいてはいけません」

 夫人はこの廊下を進んで夫の愛人——元は部下の姪で、その部下に紹介された——の様子を見るべきかどうか迷った。血の中で動くうねうねした生物を見ると好奇心もしぼんでしまった。しばらく呆然と立っていた。やがて廊下の奥から女中の「きゃああ」という悲鳴が聞こえた。そこで好奇心が勝った。彼女は寝室へと進んだ。

 寝室前の廊下には腰を抜かしてへたり込んでいる女中がいた。寝室の中を凝視している。

 夫人が近づくと、奥様、いけません、と声をかけられた。普段、この寝室に近づこうとしたときの、奥様、いけません、とはニュアンスがまるで違った。

 もちろん夫人はその制止を振り切った。軽く手でのけて中を覗いた。

 愛人であるリスーピはその服を血で染めていた。床には血が広がっていたが、吐血はもう終わったらしい。なんらかの虫が皮膚の下を動いているだけでなく、肌の見える腕や頬からは、そこを破って外に出ている様子が見てとれた。ナメクジのような寄生虫だ。扁平の形をしていて体の底に口があり、皮膚の下からナメクジのように積極的に皮膚を食べながら移動をしている。皮膚以外のものには興味がないらしく、肉に噛み付いてはいない。内側から皮膚に貼り付いて皮膚だけを食べている。

「ああ、なんてことだ。リスーピ。ああ、リスーピ」夫は暴れる愛人を抑えながら、そんな表面の虫を手で落としている。半狂乱になっていた。

 叩くよりで払う方がよく落ちるようで、撫でると破れた皮膚の切れ目から虫がひねり出されて床に何匹も落ちた。床の血溜まりの中に何匹も虫がうごめいている。その場で暴れているだけで、そこから次の獲物を襲うといった動作は見えなかった。

 やがて夫はもこもこと動く皮膚ごと手で掴んだ。「なんだこいつは?」そしてナイフを持ってこいと命じた。皮膚を切っては中の寄生虫——地方の呼び名で『皮食いナメクジ』——を素手でつまみ出すということを繰り返した。

 夫人はその光景をただ見ているだけだった。多くの女中も同様だったが、彼女も反応ができなかった。呪術師が説明した効果とは話が違うと思ったのは少し時間が経過してからのことだ。そして、最終的に呪術師の説明は間違ってなかったと彼女が理解するのはさらにあとのことだった。

 一通り虫を払い終えた夫は愛人に、「もう大丈夫だ」と言った。目に涙を浮かべていた。

 愛人の方はひゅーひゅーと浅い息をしていた。痛みが落ち着いた様子だった。出血がひどく、体の輪郭もよく分からない有様だった。

 夫人はそこ場からそっと立ち去った。

 そのあと、傷の手当てがされたが、まともにベッドで横になれない状況だった。本人は悲鳴をあげたが体を洗わないわけにはいかず、水で何度も体を流した。それから数日間、体に残った卵が孵化するとまた激痛が戻るのでそのたびに除去の処置が施された。

 呪術師が説明したように、見た目の出血ほどには重傷ではなく、命に別状はなかった。皮膚のあちこちに穴が開き、虫の分泌物か何かの影響か、その皮膚の周囲が腐るようにめくれていった。そしてその状態のまま出血だけが止まった。そこでやっと横にすることができるようになった。

 夫は愛人のそばでめそめそと泣いたり、急に怒って物に八つ当たりをした。

 夫人は見舞いに来たフリをしてそんな夫の様子をたまに見に行った。

 ある日の昼にまた夫人が見舞いに行くと、夫は相変わらず愛人のそばにいた。椅子に座ってじっと彼女のシルエットを見ている。この数日は同じ様子だ。彼女の上に何かを掛けることができないので、布を吊り下げて姿を隠している。

「様子はどう?」夫人は聞いた。

「もう喋れるようになった。体も動かせる。意識もしっかりしている」夫は言った。

 その口調に不穏なものを感じた。夫人は、「そう。よかったわね」とだけ言った。

「証拠はないが、動機はお前にしかない」と夫は言った。「お前は隠しているつもりだろうが、そもそもお前がここに見舞いに来ることが不自然だ」

 夫人は冷静に答えた。「確かに彼女に好意を持ってはいないわね」

「顔が笑っているんだよ」夫の声は怒気をはらんでいた。「俺はこのために金貨100枚を払ったのか」

「あれは私の薬代よ。おかげで肌もすべすべのままだわ」

 夫人は椅子に座っている夫を見た。手を顔の下に組んでいる。何かを決意したときの彼の癖だった。口元は怒りで歪んでいた。歯をくいしばっている。

「言い逃れに耳を貸すつもりはない。『私がやりました』と認めれば楽に殺してやる。認めなければ、お前を彼女と同じ目に遭わせる」

 夫人は堂々とその目を睨み返した。「自分は悪くないとでも言うつもり?」

 夫も堂々と睨み返した。「もちろん、悪いのはお前だ。そうじゃないとでも言うつもりか?」

 別荘に地下室はなかった。食料貯蔵用に半地下の倉庫があったので、そこを拡張して夫人の監禁部屋になった。

 皮膚を切り裂いては焼きゴテで止血するという拷問が繰り返された。彼女が持っていた小瓶とその残り半分は見つけられなかった。

 美しかったリスーピという娘はどうしようもなく醜くなった。うっかりその姿を見た女中は「ひっ」という悲鳴を抑えられなかった。顔は仮面で隠し、手も足も服で隠した。そして見た目以外の健康面には何も問題がなかった。歩くことも走ることもでき、食事にも排泄にも問題はなかった。

 彼女は死を願い、夫人の夫はその願いを自らの手で叶えた。

 彼女の首を締めたその足で、夫は夫人に会いに行った。鎖で巨石に縛られた夫人は全裸だった。

 拘束された夫人に調子はどうだと世間話をしたあとで、彼は言った。「この手で彼女を送ったよ」

「自業自得だよ」夫人の目や口は無傷だった。火傷の処置は気をつけないと致命傷になるが、拷問官の対応は完璧だった。「お前はお前のしたことを悔いるがいい。何を間違えたかを考えるがいい。あの小娘にとっても当然の報いだ」

 夫人の足元には血溜まりができている。そしてそこに鼠がたかり、きーきーと鳴いている。

 夫は顔をしかめた。こいつは鼠にかじられているのか?

 それに半地下で多少は明るいとはいえ、鼠たちが黄色く光っているのはどういうことだ?

「あと何年かは生かしておいてやる」夫は夫人に気圧けおされないように言った。「生きたいだけ生きていていいぞ」

「お前も生きたいだけ生きていていいぞ」夫人の迫力は何か超越していた。「死んでも死ねないようにしてやる」

 半地下の監禁部屋には雨水があちこちに溜まりじめじめしていた。湿った土からは独特の腐臭が漂っていた。中の空気はまったく動いておらず、そこにいつまでも留まっていた。

 地面を這い回る鼠たちにはよく見ると噛み傷がついていた。共食いで咬まれたような小さく細かい噛み傷だ。

 夫は全裸の彼女へと近付いた。警戒はしておく。両手を縛られてはいるが、油断すると喉を食い千切られかねない。そのときに彼は鼠が逃げないのを不思議に思った。近くに寄り、蹴り殺せる間合いになっても逃げようとしない。こいつらはこういう距離を測り間違うことはない。一定の距離を取って遠巻きにするのが普通だ。

 彼は腰のベルトを引き抜くとそれを垂らした。

「久し振りにお前の悲鳴を聞きたくなった。いい声で鳴いてくれよ」

 もちろん彼女も人間だった。苦痛はどんな意思も塗り潰して頭を真っ白にする。ベルトで打ち付けられて、彼女は絶叫した。

「ははは。彼女の苦痛はこんなもんじゃないぞ!」

 夢中になった夫の足首に鼠が噛み付いた。その心臓は動いていなかった。


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