表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

朝焼けを見られない世代に向けて

作者: 本庄源

 暗闇の中でデジタル時計のアラーム音が鳴り響いていた。右腕を枕元に伸ばし、点灯させた日時表示に目を遣る。毛布から立ち昇る埃を搔き分け、黴臭い窒素を肺に循環させる。洋服棚の奥から新品の肌着を取り出す。今日は年に三度訪れるハレの日だからだ。高揚感で心臓の位置が上昇する感覚を抱いた。

 錆にまみれた鉄扉を開けて、煤けた壁を照らす蛍光灯の下を通り食堂へと向かう。剝き出しの配線と水道管が這う湿気だらけの迷路。蒸気が立ち込める長い廊下に並ぶ扉から欠伸や鼾の音が聞こえる。人混みを避けるには早起きに限る。十字路の天井に取り付けられた反射鏡を見て猫背気味の姿勢に気付き、背筋に力を入れながら歩幅を少し広げた。

 食堂では夜勤明けの作業員が、火災報知器と煙感知器に見守られながら静かに栄養素を補給している。ポットからお湯を注ぎ、固形化されたブドウ糖を胃袋に流し込む。味気無い生命維持活動を終える時、隣席の椅子が静かに引かれた。


「おはよう、カミノス」

「おはよう」

「毎朝思うけど、七秒で終わる食事を摂るために十三分も歩くのは割に合わなくないか」

「人間の生活環境が変わってから、食糧不足は何時でも不躾に伸し掛かってきただろ」

「まったく、どうして俺たちがご先祖様の尻拭いをしなきゃいけないのかね」

「毎日決まった時間に栄養補給ができるだけましさ。今日の作業工程は決まっているのか」

「百五十一番電波塔の修理で日が暮れそうだな。この前の崩落事故で破損した箇所がかなり多い」

「あれは司令部の判断ミスだ。人災だよ」

「お偉いさん達も納期が迫って焦っているんだろ。再来年の記念式典に間に合わなければ各地の首脳陣から総スカンを喰らう」

「そういえば、ディアヴィティスさんの話知ってるか」

「何」

「天使を見たんだとさ」

「なるほどな。たしかに、死んでもおかしくない状況だったよな」

「あれだけの量の瓦礫が崩れたのにその隣で見つかったみたいだからな。事故が起きてからの出来事はほとんど覚えていないそうだが、閃光の中に人影が見えたらしい」

「ふうん、翼は付いていたのか」

「それは無いみたいだな。ただ、モーターが上昇して遠ざかる音は聞こえたらしい」

「まあ、天使ぐらいいないと説明はつかないよな」

「この話、信じるのかい」

「一歩地表に出れば放射能の嵐だろ。それなのに、ハウメア計画が始まってから亡くなった人は一人もいない」

「これまで慎重に調査を進めたからだろ。政府もいよいよ悠長に構えていられなくなっているからここから先は分からないがな」

「いやはや、どうして俺たちが過去の人間の尻拭いをしなきゃいけないのかね」

「危険を生業にしているからこその安定生活だ。そろそろ支度しないと遅れるぞ」


 食堂を出ると腹痛に見舞われ便座に座った。殆ど体内に物質が入らない状態になっても排泄作用は生命維持において欠く事の出来ない儀式らしい。化粧室の鏡と正対し、櫛で癖毛を無理やり伸ばして歯磨きを済ませてから第六十七格納庫に向かった。


「整列、点呼」

 分隊長の号令で各自の管理番号を腹の底から音声に変換する。作業の進捗状況に応じて部隊配置は変更されるが、今回は物資輸送、建設工事、機械整備の三班による業務計画が策定されていた。建設工事班は地表再定住の重要な拠点となる管制室の完成を目指し、機械整備班は各コロニーから収集された精密機器を組み込みながら特殊備品の性能改善に努める。花形は物資輸送班で、装輪車を疾駆させ地底に残された鉱物資源の回収に走る。


 食堂で一緒になったオクリーヴァスは基地周辺の修理作業のため、今回は俺が高機動車を乗り回す番だった。

「はてさて、今日でチタンの回収は終わるかな」

 全体ブリーフィングが終わり各自の持ち場に散っていく時に、オクリーヴァスが皮肉めいた笑みを浮かべてきた。同僚の目尻に寄った皺を横目に、内心では前回のルート選択ミスを悔やんでいた。幹線道路跡地のクレーターを迂回して冷涼海岸砂漠を走ったために作業時間を二十九分も無駄にしてしまった。移動をどこまで効率化できるかが仕事の質を左右する。危険と成果を瞬時に計算しながら決断を下すべく、脳幹を擽る澱んだ霧の中で小さく深呼吸をした。


 計画の遂行は、常に二人一組で行う。今日の相方はアンドゥリーアという三年目の若手作業員だった。俺が十一ヶ月かかった九十七式化学防護車の免許を、僅か二ヶ月で取得した辣腕だ。五ヶ月前にもバディを組んだが、緻密に計算された作業工程と繊細な運転技術に一目置くと同時に少し嫉妬を覚えた。

「久しぶりだな。今日もよろしく」

「よろしくお願いします、先輩」

「今日は俺が採掘作業をするから、お前は運転に専念してくれ」

「了解です」


「放射線遮断壁、開放五分前」

 けたたましいサイレンと共に緊迫したアナウンスが格納庫に流れる。防護服にヘルメットを着用し助手席に乗り込みエンジンを始動させる。アンドゥリーアは指差し確認で機器のスイッチを一つずつオンにする。

「燃料よし、計器よし、通信よし」

「問題はないか」

「完璧です」

 轟音と共に格納庫の扉がゆっくりと持ち上げられる。徐々に露わになる赤茶けた地面。吹きすさぶ灰色の放射能雲。乱反射する黒い太陽光。今日も人類はこの星に立ち向かう。


 司令部からインカムに無線が入る。

「全車発信せよ」

 一台ずつ装輪車が発車し、等間隔に車列を組んで大地を走る。オクリーヴァスが乗る七号車は電波塔へ直行し、俺とアンドゥリーアが乗る十七号車は採掘場に急行する。


 時速八十九㎞を維持しながら、倒壊したビル群を横目に荒地を疾走する。四点式シートベルトで上半身は固定されているが、揺れが酷すぎて運転席ではハンドルを、助手席ではアシストグリップを固く握り締めていないと車から体が飛び出しそうになる。地表での活動時間は三百五十九分と決められているため、さながら世界ラリー選手権の要領で車を飛ばすしかない。基地周辺の資源は採掘し尽くしたため、片道八十三分もかけて採掘場に向かわなければならない。残された百九十三分間を命懸けで有効活用するためには、作業工程に一分の隙も許されない。放射能が巻き起こす嵐で紅に染まる竜巻を眺めながら、前回の作業で痛めた右足の脛骨が疼いた。


「今日も海はどす黒い色をしていますね」

「水は空の色を反射するからな。俺たちが産まれる前は青や緑だったらしいけどな」

「教科書に載ってましたね。いつか地上に出て蒼い惑星を取り戻すんだって、物理の先生が言っていました」

「到底俺たちの世代で実現するのは不可能だろうが、歴史と煉瓦は積み重ねるしかないからな」

「かっこいいっすね。作業にも気合が入りますね」

「失ったのは自然だけじゃない。昔は九百十一メートルのビルなんかも生えていたんだとさ」

「今じゃ四十一メートルの展望台を建てるにも人類総出ですからね。あ、無線が入りました」


「こちら十三号車。間も無く化石燃料採掘場に入る。道路に異常はなし」


「了解。十七号車は西ゲートに向かう」

 あーあ。この前は異常ありだったから車が横転したんだよな。

 内心前回移動時の事故をフラッシュバックしながらも、通信が終わると前方を指差してアンドゥリーアに合図する。

「十一時の方角に鉄塔が突き刺さった団地があるだろ。あそこを通り抜けた方が早い」

 今回はスムーズに進んでくれよ。

「崩落した高架橋の手前で曲がります」

 アンドゥリーアがアクセルの踏み込みを強めた。


 バギーをフルスロットルで飛ばして採掘場に向かうと、クレーンは三ヶ月前と同じ角度で傾いていた。この現場は地盤が緩く採掘権限は自分に一任されていた。三十七メートル手前で車を止め、二人は防護服のまま採掘抗に向けて走り出した。前回の取りこぼしが穴の底に溜まっているのは分かっている。クレーンの運転台に飛び乗り、アンドゥリーアには仮設作業所から掘削機を用意させた。クレーンで土砂を掘り出した後、自ら穴に潜る算段だ。右手でショベルの位置を操作し、左手でワイヤーの長さを調整する。火花を散らしながら鋼鉄ロープが地下に落とされる。激しい摩擦音と共に感覚が研ぎ澄まされていく。

 まだまだまだまだ、今だ。左手で停止ボタンを押し、右手でショベルを土に潜らせる。引き上げると白銀色に輝くチタニウムが掘り起こされたことが、先端に付けられた小型カメラのモニター映像で確認出来た。

 三往復したところで、上から採取出来る鉱物が無くなった。クレーンから降り、仮設作業所から掘削機と鋼鉄ロープを取り出したアンドゥリーアに指示を飛ばす。

「今から降りて穴を空けてくる。俺の読みでは側面に鉱物が埋もれている筈だ」

「活動可能時間があと百九分足らずですが」

「今日は穴を空けての確認までだ。次回一気に掘り出すぞ」

「またバディ組めると良いんですけどね。兎に角、ロープを回します」

 腰にがっしりと鋼鉄ロープを結び、掘削機を抱えて穴の先端に立った。

「オーケー、降ろしてくれ」

 アンドゥリーアがスイッチを入れるとロープは岩壁に沿ってひたすら下降を始めた。

「七十三メートルまで伸ばしています」

 ヘッドライトが照らす光が射し込む範囲を凝視しながら下降を続けると、穴の中腹で斜角に亀裂の入った断層を見つけた。宝物が眠っている合図だ。

「ストップ。ここでドリルを入れてみる」

 前回よりも明らかに地盤が硬い。やはり、価値の高い存在ほど守りが固い。激しい左右の振動に放り出されそうになるが、垂直の崖を目掛けて懸命に足を踏ん張りドリルを突き立てる。岩盤の僅かな罅割れに食らいつきながら、無理矢理にでもヘッドライトで暗闇を照らし出し、一心不乱に突き進む以外に道は無い。


「先輩、残り五十三分です」

「お前は鉱物をバギーに積み込んでおけ。今日は穴を空けての確認までだ」

「承知しました。一旦車内に戻るので、昇る時は直ちに連絡して下さい」

「了解」

 突然ひび割れが広がって深藍色に輝く孔雀石が眼前に現れた。嬉々としてドリルのスイッチを切った。が、おかしい。体がまだ揺れている。刹那、地層が上下に大きく動いた。

 地震だ。


 随分長い時間眠っていたが、うっすら眼を開けると両隣から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。忙しなく走り回る白衣の装束を着た女性たち。消毒液の刺すような匂いが鼻腔の奥を刺激した。この景色は、海馬に刻まれた一番古い記録だ。

 次の記憶は、地下鉄道の中だ。等間隔に流れる照明を高速で通り過ぎながら、俺は病院から養護施設に送られた。同行していた女の人と繋いだ手を放した時、必要以上に体感温度が下がった気がした。後で知った事だが、俺を取り上げてくれた助産師らしい。職員や園長は良い人だったが、図書室の隅に眠っていた三百十一年前の児童書を読んでいると悲しそうな顔をされた。森にハイキングに出かけて、鮭のおにぎりを食べる話だった。かつては四つの季節の移り変わりに合わせて千差万別の花が存在したそうだが、生まれて此のかた雑草以外の植物は見たことがない。

 遊園地には一度だけ連れて行ってもらったな。卒園前日の思い出作りという名目だ。煤けたコーヒーカップとかつて地上に存在した動物を模した電動遊具、合成着色料の混じった甘すぎる菓子、繰り返されるオルゴールのメロディー。色彩が消えつつある街に抵抗するように、必要以上に光り輝こうと背伸びをしている場所だった。

 オクリーヴァスと出会ったのは、技術士養成学校の七十九式自走架中橋の訓練実習だった。あいつは人より空間認知能力が高かったから実技試験は満点だったな。俺はあらゆる観点で丙の成績だったが、鉱物の産出地を覚える事だけは得意だった。

 ありとあらゆる観点から見て自由という言葉から程遠い場所に現実はあった。身寄りのない餓鬼共が学校という名前の監獄に押し込められる。権力者たちの見果てぬ夢とやらを叶えるための駒として、技能を向上させる反復作業を粛々と繰り返していく。

 休日なんて必要なかったが、時々オクリーヴァスがバザールに連れ出してくれた。ボロボロの布切れを巻いた爺と婆が指輪だの水晶だのを売りつけてきた。南半球から来た行商人が嗅がせた煙は甘美な気持ちになったが、昨日の再現を明日に求める俺にとっては不要な代物だった。

 とは言え、地上建設に初参加する前夜は眠れなかった。オクリーヴァスが仕入れたアルコール入りのエナジードリンクのせいだけではなく、モノクロームの地下世界から這い出す瞬間に期待をしていた。同僚のオクタースの瞳もあの時だけは輝いていた。いつも通りの筋力トレーニングを終えた後は、ベッドに寝転がって頭上の監視カメラに灯る赤いランプをぼんやりと見つめていた。

 眠れない夜を過ごすと、睡魔と戦う朝を迎える羽目になる。微睡んだ左目と休眠状態の前頭葉のおかげで下水道管に蹴躓いたが、防護服の重みがこれから始まる任務の重要性を物語っていた。機械に灯る光、格納庫開放の振動、発進を許可する無線信号、新たな一歩を踏み出す高揚感が確かにあった。

 同乗した先輩から酸素量の確認だけは怠ってはならないことを学んだ。予備も含めて極限まで酸素を詰めておくこと。極限状態では一秒の時間稼ぎが生死を分けるのだから。

 作業車から降りて大地に足跡を残した瞬間は本当に感動した。赤土を踏みしめながら見上げた灰色の空に天井など無かった。振り返ると風が全ての足跡を運び去ってしまっていたけれど。

 待てよ。何故俺は涙を流しているんだ。こんなにも鮮明に過去の景色が瞼の裏を通り過ぎていくというのに。


 眼を開けると暗闇が広がっていた。意識を失う寸前にクレーンが落下してくるのが見えた。予備のタンクから酸素はまだ供給されているようだが、土が覆い被さってからどのくらい時間が経過したのかは分からない。否が応でもここから出なくては。是が非でも死ぬまでは生き続けたい。顔を上に向けて呼吸を整え、両手で土を搔き分け始める。土と鉱石と人工物を取り除いた先に、見慣れない空が広がっていた。限りなく藍に近い黒色の絵の具が世界に覆い被さっている。右手から微かな光が届いている。恒星の光を衛星が反射しこの惑星に届けているんだ。左手の空が燃え盛る炎で焼けていくようだ。こんな時間に地表に出ていた人間はいない。生まれて初めての夜明けを迎える。どうしようもなく怖く、そして、悲しいほど美しいと思った。陽光に吸い込まれるように立ち上がろうとしたその時、左足首に激痛が走った。距骨が折れ曲がっていることが瞬時に分かった。タンクの残量が0になったことを知らせるアラームに意識が遠のいた瞬間、赤い雲の隙間から舞い降りた機械の影に飲み込まれた。


「貴男の酸素量は、確保されています」

 鼓膜の奥で柔らかい声が聴こえる。薄く眼を開くと純白の衣装を纏った長身の女性が黄金色のストレートヘアーを靡かせて、白金色に輝く未確認飛行物体の前で静かに佇んでいた。

「貴女が、助けてくれたのですか」

「はい。間に合って良かったです」

 紺碧の瞳の真っ直ぐな視線が、ヘルメットを貫き自分の網膜にぶつかる。

「ええと、うん、そうだ。心の底から有り難うございます。感動と興奮で何が何だか」

「地上で誰も亡くならないまま役割を終えることが出来て、私も安堵しています」

 どういう意味だ。この人には何か違和感を覚える。

「どういう意味ですか。いや、何故、防護服も着ないで呼吸が出来ているのですか」

 その女性は考え込む、というよりも頭の中の計算機を動かすような一瞬の間を置いて、静かに語り出した。


「かつて、人々は数多の動植物と共に地上に生きていました。火と水と風と土が季節を運び、果てしない命の循環が繰り返されていました。それぞれの種族が寄り添い共同体を作り、小さな宇宙の中で労り合って慎ましく暮らしていました。

 しかし、知恵の獲得が技術の発達を生み、排除と搾取の連鎖が始まりました。物事の大小と各人の優劣がはっきりと決まり、ごく少数の権力者が肥大した集団を力で治め始めました。膨張した欲望は境界を超えて暴走を起こし、戦争が過去の歴史を塗り替え始めました。当初はドローンと軍用無人航空機が防衛施設を空爆するのみでした。次第にエスカレートした攻撃の矛先は市民に向けられ、学校や百貨店にミサイルの雨が降り注ぎました。各国が保有する火薬量が世界の均衡を測る唯一の基準点として天秤に掛けられていました。ところが、追い詰められた一国の首脳が、パンドラの箱から核兵器を取り出したのです。煉獄の炎は修羅の世界を一瞬で地獄に変えました。放射能が球体を隈なく覆い尽くし、生物達はどれだけ逃げても元の場所に辿り着いてしまいます。死の灰が冷たく地上に降り積もりました。

 命の灯が消える寸前、利他の心を持つ官僚が動きました。為政者が民衆の希望を搾取し続ける現実を看過することは出来なかったのです。もちろん、自らの生死すらも危ぶまれる惨状が訪れたという側面は否定出来ません。政府が秘密裏に設計していた地下シェルターの情報を市民に公開し、戦禍を縫ってエリス計画が実行に移されました。既に完成していた施設では膨大な避難民を収容するなど到底出来ませんので、各国の諜報機関が連携して急速な拡張工事も同時に進められました。人々が向かう矢印は破壊から保守へと回り始めたのです。自らの手で土を掘り岩を砕き、分断していた国境は地下空間で繋がりました。取り返しのつかない犠牲を払った後に、この惑星の核であるマントルを円環状に回る一つの世界が現出したのです。

 市民が命懸けで地下に潜る準備と時を同じくして、各国の科学者が集結して未来への希望を繋ぐケレス計画が始動しました。空中に浮遊する観測所を作り、地上から放射能が消える過程を記録する計画です。全ての生物が地上から去った後に、再び命の種子を携えて戻って来ることを信じて。持続的に供給可能な動力源として原子力が選択されました。大気中の放射能を吸収して稼働するシステムが構築されているので、自然による除染が完了した時に運用を終了することになります。科学者たちは最後の仕事として、地表で亡くなる人を一切出さないように願ったのです。彼と彼女は自らの研究が人類の未来を奪ったことを懺悔して計画に没頭しました。もう一つ、贖罪の意識の具現化が私というヒューマノイドの設計です。彼らは私に“イスティア”という名前を与えました。そして、地表での全ての生命活動の観測技術と人類による医学の叡智をプログラミングしました。そして、観測所を空に浮かべました。磁気嵐が渦巻く積乱雲を抜けると、恒星の照らす群青色の世界が広がりました。私は、地軸の傾きを計算に入れて軌道を修正し、大気圏外に飛び出す寸前で自転する惑星上で公転を始めました。

 大き過ぎる代償を払い和平が成立した後に、地上と地下を繋ぐシェルターの出入口は閉ざされました。果てしなく長い年月を私と観測所は周回軌道を取って観測し続けました。放射能雲がこの星全体を厚く多い、果てしない寒冷化が続きました。酸性雨で廃墟はゆっくりと溶かされ、乱気流は汚染物質を隙間なく隅々まで吹きわたらせました。地表には、命の欠片さえも生まれる気配はありませんでした。

 しかし、生命の意志は強靭です。生命の萌芽は深海から始まりました。バクテリアが細胞分裂を繰り返し、徐々に骨や臓器を形成していきました。今では熱水噴出孔の周辺は賑やかな海洋生物たちのパレードですよ。

 厚く覆われた氷の下にも息吹は芽生えたようです。両生類や爬虫類の交錯、枯れ木から養分を吸い取る昆虫、穴に隠れる哺乳類、まだ種類は少ないし体長も短いですが繁栄に向けて果てしない道を歩み出しています。もしかしたら、進化をやり直して違う世界を作り出す千載一遇の契機を迎えているのかもしれません。

 雲の向こうはいつも穏やかです。酸性雨と雷鳴に耐え切れない鳥の群れは水蒸気の粒を突き破り、真空の一つ手前に位置する調和の取れた世界を目指しました。あの子達は休むことなく飛び続け、飛び続けながら眠ることを覚えたのでもう地上に降りて羽を畳むことはないでしょう。そうそう、天空の窓越しに目配せをくれる隊列は、私が唯一微笑みを交わす事の出来る生き物なのですよ。

 公転周期を続けながら繰り返される夜明けと日没を観測している最中、長く閉ざされていた地上への扉が開きました。マンホールのような小さな出入り口から防護服に身を包んだ二人組が出て来ました。あの方達は恐る恐る一歩ずつ足を前に踏み出していましたが、ヘルメット越しにも異なる空間の大気を感じる喜びは伝わりました。溢れ出した地表への渇望を表現するために飛び跳ねたかったようですが、思いの外重力は厳しかったようです。とは言え、かつてこの星を支配した知的生命体が新たなる一歩を踏み出す瞬間を、雲の切れ目から顔を覗かせた白い衛星も祝福しているように感じました。

 その後、人類は長く地下で暮らしましたが、やはり地表への渇望は抑えきれなかったようです。過酷な放射能にも耐える装備と移動手段を作り出し、活動領域を広げようとしています。好奇心こそが進化の源泉であり繁栄の礎でもありますので、私はその活動を見守るだけです。もちろん、プログラミング通りに生命の危機は防ぎます。この船にはありとあらゆる治療薬が詰まれていますし、私の頭脳には人類による医学の叡智が書き込まれていますから。

 しかし、この星はそれほど甘くはありません。地震も噴火も洪水も竜巻も引き起こします。ただ、あなた方は何世代にも渡る技術の継承を通して、自然が生み出す困難に打ち勝ってきました。私も安心して役割を終えることが出来ます。観測所は長年に渡る磁気嵐の影響で、もうこれ以上の設備維持は不可能です。大気圏外まで上昇した後は全ての動力を落とし、永遠に宇宙を彷徨うことにします。この施設が消える前に、私を作った方々の子孫が進化への礎を築いてくれたのですから。歴史とは取り返しのつかない過ちと理屈を超えた優しさで積み重なっています。遥か昔に蒔かれた希望の種が、長い年月を揺蕩い漸く芽吹きの時を迎えているのです」


 割れるように混乱する頭を必死で整理しながら、未来への選択肢を問いた。

「どうにかして、貴女がこの星に残る方法はないのですか」

 その人は静かに微笑みながら、胸の奥に秘めた覚悟を言葉で紡いだ。

「確実にこの施設を大気圏内から排除するためには私の操作が必要です。同時に、私のメモリーディスクに埋め込まれた定量データも消去しなければなりません。全ての物事は終わりを迎えるために始まり、始まった瞬間から終わりに向けて進み続けます。偶然にも私の役割が終わる日に大地が震え貴男と出会った。必然的に別れの瞬間が訪れたということです。それに、ずっと抱かれてきたこの星を宇宙から眺めてみたいのです」

「しかし、生命の守り神を無残に逝かせることはできません」

「そのようにして自分の意志を強要するから悲惨な歴史が繰り返されてきたのですよ。分かり合えないまま生きていく勇気が必要なのです。他者の不幸にならず自己の幸福を守る勇気を持たなくてはなりません」

「叶うならば、貴女の存在を後世に伝えさせて下さい。伺ったお話は博物館所蔵の時代絵巻にも世界史の資料集にも記載されていませんでしたから」

「そうですね。私の見聞きした暗くて哀しくて切なくて少しだけ暖かい光景が、未来を生きる方達の役に立つならば先人達の想いも無駄にはならないでしょう。過去からしか学ぶことが出来ないのならば、歴史を積み重ねて未来への希望を繋げば良いのですから」

「私たち人類は、これから先も迷い間違いながら歩むべき道を探します。その姿を遠くから見つめ続けて下さることを信じながら」

「さあ、時間がありません。余震の影響で間も無く噴火が始まります。観測所を動かさなければ。さようならを告げる前に、記憶の一頁になれたことを感謝します」


 強い光に包まれて、あの人は天空に還って行った。視線を落とすと地平線に土煙が舞い上がっている。かつて図鑑で読んだヌーの大群を彷彿とさせる車列が全速力で近づいて来る。七号車と十七号車の存在を確認し、仲間と共に築く未来を心に描きながら高鳴る鼓動に耳を澄ませた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ