断罪劇、またの名を──
女は、どうして自分がこんな目に遭うのかわからない様子だった。
男は、自身の破滅を予感し、絶望の表情を浮かべていた。
罪人の如く連行される二人を背に、拍手喝采を浴びる主役の恋人。
良い余興だったと喜ぶ人々。
唯一人、彼女だけが取り残されていた……
「ごめんなさい。無理です」
「……え?」
その一言によって、盛り上がっていた会場が一瞬にして静まりかえる。咄嗟の事に誰もが把握しきれず、出席者達は互いに顔を見合わせた。
──やがて、状況を理解し始めた者達を起点として会場がざわめきに包まれていく。
一世一代のプロポーズが、失敗した。
「え……え……?」
その事に、当事者である黒野勇樹だけが理解出来ていなかった。
本当であれば、今、この瞬間。恋人が涙を流しながら笑顔で応じているはずだった。二年目の今日まで互いに慈しみ、育んできた愛がこの瞬間、大輪を咲かせるはずだったのだ。
「ごめんなさい。無理です」
──けれど、現実は異なる筋書きを展開し始めていた。
受け入れてもらえると思っていたプロポーズを拒まれるという予想外の出来事に呆然とする勇樹。彼の見上げる先にあったのは、思い描いていた笑顔ではなく、冷やかな目で自分を見る恋人の、白峰時雨の感情のない顔であった。
それはまるで能面の様な、勇樹がこれまで見た事のない顔であった。
「ど、どうして……?」
辛うじて、彼は疑問の言葉を紡ぎ出した。未だショックから立ち直れてはいないのだが、成り行きを見守る周囲の目が気力を振り絞る力となった。
とにかく、話を聴かなければならないと。
「言わなければ、わかりませんか?」
「わからないから理由が聞きたい。何が不満なんだ?」
「『不満』ですか……」
はぁぁ、と溜息を溢す時雨。
重い溜息だった。失望、落胆、諦観。彼女の溜息にはそんな、勇樹への負の感情が込められているのが垣間見え、そのあまりの重苦しさに顔を顰める者もいた。
ゆっくりと、時雨は口を開いた。
「勇樹さん。あの『黒野グループ』の社長の御子息だったんですね」
初めて知りました。淡々としたニュアンスで喋る時雨。眼差しの冷たさは変わらず、無表情で言葉を紡ぐ様はまるでアンドロイドの様。
勇樹は彼女から視線を逸らした。
「そ、それについてはタイミングが掴めなかっただけで……隠していたわけじゃないんだ」
「そうですか」
時雨の表情は変わらない。その目は、勇樹の言葉を『言い訳』だと断じていた。
恋人が自分の言葉を信じてくれない事が、勇樹には悲しかった。
──同時に、彼女の態度に不快感を抱いた。何か誤解をしているようだが、これまでの自分の努力と苦労に対して、祝福や労いの言葉ではなく冷水を浴びせてきた彼女に怒りを覚えたのである。
「言わなかったのはすまないと思っているよ。いつか話そうとは思っていたんだ。だけど、何もそんな事で──」
「私ね。貴方に申し訳なく思っていたの」
時雨が勇樹の言葉を遮る。
「私は……貴方が私と同じ、何処かの会社の一社員だと勘違いしていました。だからプレゼントを贈っていただいたり、外食や旅行に誘ってもらって……嬉しい気持ちもあったけど、貴方に負担をかけてしまっているっていう罪悪感を感じていました」
「そんなの、恋人だから当然の──」
「でもそれって、私の為じゃなかったんですよね?」
ドクリ、と勇樹の心臓が跳ねた。彼女の思わぬ発言に再び会場がざわめくが、勇樹は動揺を抑え込み、逆に心外だと言わんばかりに勢いよく立ち上がって言った。
「何を言うんだ時雨! 変な事を言うのはやめてくれよ……俺はただ、君に喜んでもらいたかっただけで他意はない。馬鹿な事を言わないでくれ」
グッ、と足とお腹に力を込めて勇樹は時雨を見据える。勇樹の方が背が高い為彼女を見下ろす形となるが、いくら角度が変わろうとも、圧が増そうとも彼女の勇樹を見る目に変化はない。
氷の様に冷たい、勇樹への拒絶を孕んだ目。
不意に、彼女の唇が勇樹だけに判る様に小さく動いた。
──ウソツキ、と。
「なっ……!?」
「……『歌鈴さん』は、これから大変でしょうね」
驚く勇樹から時雨は視線を切った。そのまま右へ右へと移動していき、やがて会場唯一の出入り口で停止する。
つい先刻、スタッフに連行された男女の姿が今も時雨の瞳に焼きついていた。
「自業自得とはいえ、大勢の人の前で断罪されて、喚いて、縋って、抵抗して……スタッフの方に引きずられる様にして連れて行かれる姿は本当に惨めで……無様で……あの時。あの人が感じた屈辱は、私の想像以上に大きなモノだったと思います」
けれど、と時雨は一旦呼吸を整える。
「あの人は……歌鈴さんは美しかった。私なんかと比べるのも烏滸がましいと思うくらい……私よりもずっと、あの人の方が『似合っていた』でしょうね」
勇樹の表情が強張り、視線が忙しなく右へ左へと反復する。
その仕草は、彼が図星を突かれた時にみせる動きであった。
ソッと、時雨は息を吐く。
確かに、勇樹は時雨に対して甲斐性を見せてはいた。それは時雨自身も認めている。宝石だけでなく、高級ブランドの服やバッグを事ある毎に贈ってもらった。ニューヨークやパリ、ロンドンにローマと。旅行は海外が多く、代金は全て勇樹が負担してくれた。さらに外食は星がつくレストランである。あまりの場違いさに緊張する時雨を、彼はいつもわらっていた。
有難い話だと思う。こんな事を他人に話をしても、惚気か自慢かと妬まれ、時雨の『悩み』など真剣に聞いてもらえない程度に贅沢な話である。また時雨自身、戸惑う気持ちはあれどここまで誠意を尽くしてくれる勇樹に自分はとても愛されているのだと、胸が一杯になる程の幸せを感じていた。
だからこそ、信じていたのだ、彼の事を。
本当に、心の底から──
「……時雨。俺は本当に君の事を愛しているんだ」
舞台はいよいよ佳境へと向かっていく。周囲が固唾を呑んで二人の一挙手一投足を見守る中、勇樹は周囲に示す様に、疑心暗鬼の恋人に自身の想いを告げる。
何とも情熱的な眼差しだ。美形な彼が真剣な顔で見つめれば、大抵の女性は魅了され、頬を赤らめながら受け入れてしまうだろう。現に、その麗しき顔にあてられた女性達が色めき立っていた。
ゆるり、と時雨は首を振る。
それはもう、彼女には、『真実』を知ってしまった時雨には通用しない。
はっきりと、彼女は言った。
「『復讐の道具』として、でしょう?」
「…………っ!?」
愕然とする勇樹。動揺を隠しきれない彼を見て、三度、時雨は溜息を吐いた。
今まで心の片隅に存在していた『違和感』の正体に気付いてしまった以上、彼との関係に終止符を打ちたいと思うのは必然であった。
「し、時雨……き、君は何を言って……!」
「……ずっと、不思議に思っていたんです。貴方のような人が、どうして私なんかを恋人に選んでくれたんだろうって……あの人を見て、その理由がやっとわかりました」
シラを切ろうとする勇樹が見苦しくて、時雨の視線が床へと落ちる。視界の端に、着ているドレスが映り込んだ。
今着ているこのドレスは、急遽勇樹に呼び出された時雨の為に、友人達が討論に討論を重ねて選んでくれた一着であった。その結果は、選んだ友人達も思わず「リアルシンデレラじゃん!」と叫ぶくらいに絶賛……自賛(?)した程。自分達の分を中止して送り出してくれた彼女達に対して、時雨は申し訳なさが募る。
「モデルをしているだけあってスタイルはいいし、居るだけで場を華やかに出来る歌鈴さんとは正反対ですもんね、私」
溢れそうになる気持ちを、ドレスの裾をギュッと掴む事で必死に抑え込もうとするが……それでも、彼を見る目に感情の一端が熱として宿る。
「貴方がこれまで私にしてくれた事は、貴方を裏切らなければ全て歌鈴さんが得られるモノでした。宝石などの服飾品。外食に旅行……全部、彼女が好きそうなモノばかり……」
勇樹との交際中、ずっと感じていた『違和感』の正体。
時雨は、宝石よりも本やぬいぐるみが好きだった。旅行に行くなら京都や奈良が。外で食べるなら値段の安い、それこそチェーン店で十分。そんな、安上がりな女であった。
当然、その事は事前に彼にも伝えている。そのうえで、これだ。
時雨が感じていた『違和感』とは、勇樹との『ズレ』であり、その答えは、唯一つ。
「時雨っ!」
突然、勇樹が時雨の肩を掴んだ。勢いもあっただろうが、時雨が顔を顰める程の力で掴んできたのだ。それがわざとであると気付いたのは、彼の目を見たから。
「もう、いい加減にしてくれ。君は誤解しているんだ」
勇樹の目に、炎の様に猛る怒りを見た。痛みは「これ以上、余計な事をするな」という、彼からの無言のメッセージだった。
「……離してください」
今まで一度も、彼からこれ程の怒りを向けられる事はなかった。今までの自分であれば、彼の圧に萎縮して、謝罪していただろう。
だが、今の時雨には最早彼に付き合う気持ちは微塵も残っていない。
これまで抱いていた愛は偽りだった。
勇樹から与えられた役目は果たした。
なにより、態々『今日』という日を選んでおきながら、なおも時雨を利用しようとする黒野勇樹という男を、白峰時雨は赦す事が出来なかった。
「時雨!」
「離してっ!」
声を張り上げ、彼の腕を強引に振り解いて後退る。
そしてナイフの様に鋭い視線を、かつて愛した男へと向けた。
「貴方が私を選んだのは、さっきも言ったように歌鈴さんと正反対だから。貧乏臭くて地味な女が捨てた男に自分の時以上に贅沢させてもらっているなんて知ったら、彼女が悔しがると思ったから!」
時雨の言う通りであった。モデルを生業としている虹浦歌鈴は自分の容姿に絶対的な自信を持っていた。他方で、他の女性を見下す傲慢さも備えていた。だからこそ、自分が捨てた男にとはいえ、自分より劣る女が自分より愛され幸せな日々を過ごしていると聞けば、黙っているはずがない。
かくして、勇樹の思惑通りに彼女は現れた。
彼とヨリを戻して贅沢をする為に。
女としてのプライドを傷つけた時雨を嘲笑う為に。
結果は先の通り。
再び籠絡しようと接近してきた歌鈴は、万全の態勢で待ち構えていた勇樹に公衆の面前で己の悪行を曝された末、彼女を連れてきた恋人らしき男共々会場から追い出されてしまった。彼女は最後まで自分の方が勇樹に相応しいと主張し続け、時雨に対しては恨みがましい目を向け、侮蔑の言葉を吐き続けた。
その時の事を思い出し、ふと、ある考えが時雨の脳裏を過った。
「……もし、彼女が恨みを晴らそうとしたら。その矛先は貴方じゃない。私でしょうね」
女の敵は女、という理論が事実かどうかは不明である。しかし、勇樹がそれを期待しているのではないかと時雨は思ったのだ。
「先程、貴方は彼女にこう言いました。 『二度と俺の前に姿を見せるな』って」
「確かに言ったけど、それは彼女に釘を刺す為に言っただけだ」
「えぇ、確かに。でも、そこに『私』は含まれていませんよね?」
あっ、と誰かが声を発した。
「先程から貴方は何度も私に『愛している』と言っていましたね……だったら、おかしいじゃないですか。釘を刺すなら『俺達』と言うはずでしょう?」
「それは……」
勇樹が言葉に詰まる。それが、何よりの証明であった。
「……すまない。配慮が足りなかった。君を傷つけるつもりなんてなかったんだ」
流石に分が悪いと察したのか、勇樹は謝罪の言葉を口にすると時雨に頭を下げた。たったそれだけで、周囲からもう赦してやれよ、という空気が漂い始める。もとより、会場の客は勇樹側の人間である為こうなるのも致し方ない面はある。場の空気に流されずに事態の推移を見守る人々もいるが、いずれにせよ、時雨がやる事は変わらない。
「私を傷つける意図はなかったと?」
確かめる様に、時雨は尋ねる。
「……あぁ、そうだ。今日の集まりに招待していないはずの彼女がいきなり目の前に現れて……つい、感情的になってしまったんだ」
本当にすまない。彼は再び謝罪を口にし、頭を下げた。
そして、顔をあげると決意に満ちた眼差しを時雨に向けた。
「だけど信じてほしい。俺は本当に君の事を愛しているんだ」
再びのプロポーズに、時雨の目が僅かに細くなった。
「……本当に、私の事を愛しているんですか?」
「もちろんだ。約束するよ。もう二度と君を苦しめる様な真似はしない。絶対に幸せにする」
「……じゃあ、どうして我慢してくれなかったんですか? 今日がどういう日か、知っているでしょう?」
時雨がそう問うと、勇樹は申し訳なさそうに頷く。
「本当に、すまない。君と付き合う様になって丁度二年目になる大事な日だったのに……それなのに、軽率な真似をしてしまって。本当に浅はかだった」
そして三度、勇樹は頭を下げた。流石にこれで落着か、と周囲が楽観的になりかけた時。
「……それだけ?」
ポツリ、と呟く様に時雨が問いかけた。
「他に何かあるのか?」
そう怪訝そうに問い返す勇樹を見て、本当に自分は『恋人』として愛されていなかったのだと思い知らされた時雨は、思わず天を仰いだ。
彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「時雨?」
「……まず、訂正を。確かに私達は付き合って二年になります。ですが、節目の日は今日ではなく、昨日です」
「え?」
「今日は……きょう、は……!」
勇樹の背中を冷たい、嫌な汗が伝う。ポロポロと大粒の涙を流し始める時雨を見て、また失敗をした事を悟った勇樹だったが、これが致命傷となった。
我慢し続けた時雨も、ここまでコケにされて冷静でいられるはずがない。
次の瞬間、会場中に彼女の声が響き渡った。
「『私の誕生日』です!」
呆然とする勇樹の間抜け面が憎たらしくて仕方がない。
時雨は怒りに突き動かされる様に、内に溜まりに溜まった感情を言の葉にのせて叩きつける。
「何が愛しているだ。何が傷つけるつもりはなかっただ。自分が大企業の社長の息子である事を隠していたのは、私に『道具』としての役割しか求めていなかったからで、彼女を嫉妬させる為だけの消耗品だと看做していたからこんな事が平気で出来るんでしょう!? 違う!?」
時雨は怒りに満ちた目で勇樹を睨みつける。勇樹の炎の如き怒りは、すっかりこの激流に呑み込まれてしまったらしい。しどろもどろな様子で周囲に視線を向ける勇樹の、そんな情けない姿を晒す彼を時雨は鼻で笑った。
「気持ちよかった? 自分を捨てた女に『ざまぁみろ』と言えたのは……ごめんなさいね。せっかくの舞台を台無しにしちゃって」
自分で言って、舞台とは言い得て妙だなと時雨は思った。
勇樹にとって、確かにこれは舞台だった。本来であれば、自分を財布扱いして浮気三昧した挙げ句に手酷く捨て去った歌鈴を断罪した後、時雨との仲を周囲に祝福してもらって大団円のはずだった。そうして、黒野勇樹の主演舞台は拍手喝采の中幕を下ろすはずだったのだ。
どうしてこうなったのか。何処で、何を間違えたのか勇樹には皆目見当がつかない。
黒野勇樹は、本当に白峰時雨を愛している。
唯、虹浦歌鈴への恨みより優先度が下であっただけだ。
「……時雨。話し合おう」
「もう、私は役目を終えました。今更話し合う事などありません」
「そう意固地にならないでくれ。君は誤解しているんだ。俺は本当に君の事を──」
「もう、やめないか」
軌道修正を試みようとした勇樹の足掻きは、新たな登場人物によって断たれてしまった。
発言者の正体に、勇樹の顔から血の気が引いていく。
「と、父さん……」
震える声で呟かれた言葉を合図に、今まで静観していた黒野夫妻が舞台にいる二人のもとへと歩み寄ってきた。
「これ以上、彼女に迷惑をかけるのはやめなさい」
「め、迷惑だなんて……」
反論しようと口を開きはしたが、それまでだった。彼はモゴモゴと口を動かすだけ動かし、やがて諦め、俯いてしまった。これ以上恥を晒すな、という父の圧に屈したのである。
そうして息子を黙らせた父親はそのまま時雨へと向き直ると、妻と共に彼女へと頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
「本当にごめんなさい。まさか勇樹がこんな事をしでかすとは思ってもみなかったの」
彼らの謝罪に対して、時雨は黙って会釈をするだけであった。
(……知らないわけがない)
そう思ったが、しかし相手は自分より遥か上の存在。下手な事をして勘気に触れたくはないし、初めての大立ち回りで疲労も蓄積している。結果、黙って流れに身を任せる事に時雨は決めた。
「後日、お詫びに伺わせていただきます」
「……結構です。私は役目を果たしましたので、これで失礼させていただきます」
夫妻に一礼し、時雨は勇樹に背を向け歩き始める。
「ま、待ってくれ時雨!」
「さようなら。黒野さん」
呼び止める勇樹に別れを告げ、時雨は出口へと向かう。
そして、白峰時雨は舞台を去った。
後日。勇樹から復縁を求める連絡が何度も送られてきた。
もう一度やりなおそう
君の事を愛しているんだ
話がしたい
このまま別れるなんて嫌だ
「ふぅ……」
昼夜問わずひっきりなしに送られてくる事に辟易した時雨は、たった一度だけ返事を送った。
私と社長の椅子。どっちか選んで
それ以降、連絡が来る事はなかった。当然、先の答えも返ってこない。けれど、それが答えでもあった。
(……お似合いじゃない)
あれ程愛を叫んでおきながら、結局、彼が選んだのは金と権力だった。
時雨は笑った。あの日、散々歌鈴を非難していた癖に自分も同様の行為に及んでいるのだ。ミイラ取りがミイラになったのか。単に同類だったのかは不明だが、人の事は言えないじゃん、と時雨は嘲った。
「はぁ……馬っ鹿みたい」
先日、黒野家の使いが時雨のもとを訪れた。何故か顧問弁護士を伴って。
緊張感が漂う中、彼はお詫びの品として高級和菓子と紙袋を差し出してきた。時雨が中を覗いてみると、驚くべき事にお札の束が山積みとなって入っていたのである。
それは、時雨への口止め料であった。
時雨はそれをジッと眺めていたが、やがて和菓子だけを手元に置き、立ち上がった。そして一旦席を外すと、大量の荷物を抱えて戻ってきたのである。
「私には過ぎたモノですから」
そう言って、紙袋と共に突き返したのであった。
確かにお金は欲しいと時雨は思う。けれど勇樹と付き合ったのはお金が目的だったからではない。にも関わらずお金を提示された事で、相手はそう思ってはいなかったという事実が再び時雨の心を傷つけた。
もしお金を受け取れば、彼らは「そら見た事か」と思うだろう。何処までも人を愚弄する相手の思い通りになるのも、彼らと同じ穴の狢になるのも癪だった。
相手は紙袋も贈り物も全て受け取ってほしいと懇願したが、時雨の意志が固いと察すると、渋々といった様子で一枚の紙を時雨へと手渡した。
これ以上、この件について騒ぎ立てないといった旨が記された誓約書である。
時雨はすぐさまその書類にサインをすると、それも使いの男性に返した。男性は最後まで申し訳なさそうにしていたが、時雨に向かって一礼すると、弁護士と共に帰って行った。
「……さて、準備しますか」
気持ちを切り替えるように身体を伸ばす。
今日は友人達が時雨の為にパーティーを開いてくれるのだ。もちろん、あの日出来なかった誕生日パーティーである。時雨にとって最悪な日となってしまったが、今日はそんな記憶が吹き飛ぶくらい楽しもうと心に決めていた。
そして将来、こんな事があったんだよ、と笑い話にするつもりでいる。
時雨は立ち上がり、部屋の奥へと消えていく。
傷ついた心が癒えるにはまだ暫くの時が必要だろう。それでも彼女は前を向いて歩き始めた。
『白峰時雨』という題名の、人生の主役として。
この作品を最後まで読んでくださった皆様。まことにありがとうございました。
こうして一つ作品を完成させる度に自己満足に浸れ、誰かに読んでもらう事で自尊心が満たされ、悩みながら次作を書いている間も読まれていると知った時の感動を味わえるのは、創作活動をするうえでの原動力になっています。
素晴らしい作品が産み出されている最中ではありますが、この作品が皆様にとって良き時間潰しになっていたら幸いです。
本当に、ありがとうございました。