おもいあい
七瀬奏がいなくなった。
突然の失踪だった。
何度電話をかけても繋がらない。部屋を訪ねてみても、人のいる気配が感じられない。
メッセージアプリに安否を確認する内容を送信してみたが、既読がつくこともなかった。もしかしたらスマートフォンの電源も落とされているのかもしれない。
岡田直哉は焦っていた。
彼女にメッセージを送って既読がつかないのは、彼女と付き合い始めてから、初めてのことだったからだ。
一番に頭をよぎったのは、事故にあってしまったのではないか、ということだ。家にいないとなると、病院ではないかという嫌な予感が頭を離れない。
もしくは事件。奏は贔屓目抜きにしても容姿が整っているので、ストーカーや痴漢などの犯罪に巻き込まれてしまったのではないか。
どちらも間違いで、たまたまスマートフォンを壊してしまい、そのまま連絡が取れずにいるのかもしれない。家にいないのも、大学かアルバイトか、どこかに出かけているだけかも。
奏はうっかりしているから、そのまま直哉に連絡するのを忘れているという可能性もある。
そうであってほしい、と願いながら、直哉はもう一度スマートフォンを取り出す。メッセージアプリを立ち上げて、奏とのトークページを開く。
未だに既読のついていない朝送ったメッセージに、じわりと嫌な汗が滲み出る。
昨日の夕方送ったまま放置されている文章も、奏の危機を表しているようで不安になってきた。
奏、どこにいるの?
連絡がつかないから心配だよ。
このメッセージを見たら返信ください。
三通続けて送ったメッセージは、直哉の不安をそのまま表していた。
もし奏の身に何かが起きているのだとしたら、じっとしていられない。
奏は直哉のたった一人の彼女なのだ。一番大切で、一生守り抜くと誓った相手。
スマートフォンをしばらく握りしめていたが、やはりメッセージに既読の文字がつくことはなかった。電話をかけてみても当然のように繋がらない。
どうか無事であってほしい。
そう願いながら、直哉はスマートフォンの真っ暗な画面を見つめ続けていた。
奏の行方が分からなくなってから、半日が経った。
直哉は、いよいよ心配になって彼女の大学を訪れた。
大学というのはよほど不審な見た目をしていない限り出入り自由なので、違う大学の学生である直哉も簡単に入ることが出来た。
奏が通っているのは、経済学部である。
経済学部の講義が行われる教室に入ると、中には既に複数の学生が集まっていた。お昼の時間帯なのであまり人がいないかもしれないと思っていただけに、ありがたい。
直哉は後ろの方の席でお弁当を広げている女子三人に声をかけた。
「すみません、七瀬奏って知ってますか」
「奏ちゃん? 知ってるけど、アンタ誰」
「奏の彼氏です。隣の城南大の学生なんですけど」
きゃあ! と女子たちがとたんに色めき立つ。
直哉の通う城南大学は、偏差値が高く、女子からの人気が高い。何でも、彼氏に通っていてほしい大学ナンバーワンだとか。
奏って彼氏いたんだね、という言葉に反応して、直哉は目を丸くした。
「奏から聞いてない?」
「彼氏がいたなんて初耳だよ。城南大なら紹介して欲しかったぁ」
こういう輩がいるから奏は彼氏持ちであることを告白しなかったのかもしれない。
それでも直哉は少しだけ心がもやついた。奏の通う大学は女子大ではなく共学なので、悪い男が寄り付かないか心配になったのだ。
でも今はそんなことを心配している場合ではない。奏は今、行方不明なのだから。
「今日って奏のこと見てないかな? 突然連絡がつかなくなって、心配になっちゃって」
「奏なら今日来てないよ。そういえば昨日の授業も出てなかったかも」
女子たちは顔を見合わせて頷く。
どうやらこの話は本当のようだ。
直哉は昨日の午前中、どうしても欠席出来ない授業があった。おはようと送ったメッセージに既読の文字がついていたので、朝は普通に起きて大学に行ったのだと思い込んでいた。
慌ててスマートフォンを取り出してメッセージアプリを立ち上げるが、おはようというメッセージに対する返信はなかった。
夕方送ったメッセージに対して、既読文字がつかなかったことにばかり気を取られて、朝のメッセージに返信がなかったことについては失念していた。
つまり、奏は昨日の朝、直哉からのメッセージを見てから大学に行くまでの間に、何らかのトラブルに巻き込まれたのだ。
「奏の連絡先って知ってますか?」
「もちろん、同じ学科だし」
「じゃあ悪いんだけど、奏にメッセージを送ってみてもらえませんか。それで、返事が来たら俺に連絡してほしいんです」
これ、俺の連絡先です。と言って、名前とメッセージアプリのアカウントをメモに走り書きする。
はぁい、と間の抜けた返事に少しばかり不安になるが、どうやら根はいい子たちだったらしい。各々スマートフォンのアプリを立ち上げて、奏にメッセージを送ってくれたようだ。
「返事が来たら連絡するから、お礼にさ」
「お礼に?」
「城南大のイケメン、紹介してね」
ちゃっかりしている。
それでも奏の安否が分かるなら安いものだと思い、お礼はちゃんとするよ、と笑いかけた。
そして直哉は奏の友人たちに別れを告げると、大学を後にした。
次に向かうのは、もう一度奏の家だ。
ピンポーン、と無機質な音が鳴り響く。インターホンの音が反響するばかりで、奏の部屋からは物音も聞こえてこない。
もしかして、スマートフォンの電池が切れたまま、倒れてしまったんじゃないかと心配になり、人目も憚らず玄関のドアに耳を押し当ててみるが、やはり何も聞こえてこない。
もし体調不良か何かで倒れているんだとしたら、息遣いくらいは聞こえてくるかもしれないと思ったのだが、玄関のすぐそばにいなければそれも叶わないだろう。
こんなことになるならば、もっと早く奏の家の合鍵を作っておけばよかった。
奏は一人暮らしなのだし、病気になったときなど、合鍵がなければ不便になるタイミングだってあったはずなのだ。
それでも直哉が合鍵を作らなかったのは、奏の親に対する心象を考えてのことだった。
もちろん自制はするつもりでいたが、彼氏が結婚前の大事な娘の家に入り浸っているようでは心配だろう。そう思ったから鍵を作るのを後回しにしていたのだが、ここに来て裏目に出てしまった。
もう一度だけインターホンを押してみるが、やはり反応はなかった。
倒れていたり、何か事故や事件に巻き込まれていなければいいのだけど。そう考えながら、直哉は次の目的地へと向かった。
直哉が次に足を運んだのは、奏のアルバイト先であるカフェだ。個人経営の小さなカフェだが、レトロな雰囲気が漂っていて、落ち着く空間になっている。
何を隠そう、直哉と奏が初めて出会ったのもこのカフェだった。コーヒーを飲みながら大学の課題であるレポートに取り組んでいた直哉に、優しい笑顔で声をかけてくれたのが奏だったのだ。
大学の課題ですか? 大変ですね。
そう言ってこっそりと差し出されたのは、レアチーズケーキ。
良かったらどうぞ。
やわらかな笑みを浮かべ、人差し指を口に押し当てる姿に、胸がドキッとする。直哉はその瞬間、奏に一目惚れしたのだった。
それから直哉はカフェの常連になった。もともと週に一回行くかどうか、という程度だったのが、通い詰めるほどになっていた。
注文は決まってブラックコーヒーとレアチーズケーキ。
いつも同じものを頼む直哉に、カフェのマスターや他のアルバイトも注文を覚えてくれるようになった。奏も例外ではなかった。
レアチーズケーキ、気に入ってくれたんですね。と微笑みながらコーヒーを運んでくる姿に、胸が高鳴った。
連絡先を訊くときはひどく緊張した。
前からあなたのことが気になっていて……連絡先を教えてもらえませんか。
告白まがいのその言葉に、奏は驚いたように目を丸くし、それからどうぞ、と頷いてくれた。
あれから半年ほどの月日が経っているのかと思うと感慨深い。
付き合い始めてからも、直哉は変わらずカフェに足を運んでいたが、照れ屋な奏は恥ずかしがってなかなか注文を取りに来てくれなかった。頬を染めながら、代わりに行ってよ、と他のアルバイトに頼んでいるところを見たこともある。そんな奏が可愛くて、ほんの少しだけ意地悪なのを自覚しながら、直哉はカフェに通い続けたのだった。
カフェはいつも通り、静かに営業していた。
いらっしゃいませ、という声と共に、マスターが顔を出す。直哉の顔を見ると、いつも通りブラックコーヒーとレアチーズケーキの用意を始めてしまったので、慌てて直哉は声を上げた。
「すみません、七瀬奏って昨日と今日、シフトに入ってますか? 急に連絡が取れなくなってしまって心配で」
マスターはゆっくりと瞬きを繰り返し、それから首を傾げた。
「失礼ですけど、どういう関係ですか」
アルバイトのプライベートなことには答えられませんよ、とプライバシーを守る姿勢を見せたことに直哉は感心した。
老人と呼んでも差し支えないであろう店主は、意外にもしっかりしているらしい。
奏のアルバイト先がちゃんとしているところでよかった、と安心して、直哉はホッと息を吐く。そして大学の学生証を取り出し、マスターに差し出した。
「城南大学三年の岡田直哉と申します。奏さんとお付き合いさせてもらっている者です」
「お付き合い、そうでしたか。それは失礼しました」
奏ちゃんはあんまり自分のことを話さないからねぇ、知らなかったよ、と老人は嬉しそうに破顔する。
「奏ちゃん、昨日の朝に突然電話をしてきて、しばらくお休みをくださいって言ったんですよ。今日は夕方からシフトに入っていたけれど、他の子が代わりに出ることになりましたよ」
「奏、理由は何も言っていませんでしたか? 体調が悪いとか、何か……」
何でもいいんです、情報があれば教えてください、と頭を下げると、店主は驚いたように声を上げる。
「頭を上げてください」
慌てたようなその声にゆっくり顔を上げると、老人は少しだけ考えた後、こんな言葉を口にした。
「関係があるかは分かりませんが、奏ちゃん、よく遠くに行きたいって言っていましたよ。どこか思い詰めたような表情をしていたなぁ」
それは直哉が初めて耳にした情報だった。
遠くへ行きたい、それは言葉の通り、どこかに遠出をしたい、ということではないように思えた。
思い詰めた表情をしていたならば、奏は今何かに悩んでいて、その現実から逃避したい、という意味ではないだろうか。
しかしそれは、彼氏である直哉にも言えないことだったに違いない。いつもにこやかに笑っている奏が、何かに悩んでいたことなんて、直哉は知らなかったのだから。
自殺、という言葉が頭をよぎる。慌てて頭を振ってその言葉を遠ざけようとするが、一度浮かんでしまったその不吉な単語は、脳裏にこびりついて離れない。
「大丈夫ですか」
老店主が心配そうに直哉の顔を覗き込む。頭がくらりと揺れて、そういえば朝から何も食べていないことを思い出す。
奏のことが心配で、食事どころではなかったのだ。
「大丈夫です、すみません」
直哉は答えながら、ふらふらといつものテーブル席に腰掛ける。そして、店主にオーダーいいですか、と訊ねた。
「ブラックコーヒーとレアチーズケーキ、それからナポリタンをお願いします」
初めて頼んだ料理に、マスターは少しだけ目を丸くして、それからにこやかに微笑んだ。
「奏ちゃんのことが心配だろうけど、まずはお兄さんが倒れないようにしないとね」
運ばれてきたスパゲッティのナポリタンは、程よくケチャップの酸味が効いていて、直哉好みの味だった。
しかしレアチーズケーキとの相性はあまり良くないらしい。ナポリタンの後味が尾を引いて、レアチーズケーキの繊細な甘味が霞んでしまっていた。
ブラックコーヒーでケーキの残りを流し込み、直哉は次に向かうべき場所を考えていた。
警察署は慌ただしく警察官が動き回っていた。
カフェの次に直哉が足を運んだのは、警察署である。ここに行くのは流石に躊躇した。
なぜなら、奏がうっかりしていて、スマートフォンを壊してしまった、そしてそのまま直哉に連絡出来ずにいる、など奇跡のコンボが重なっただけの場合、迷惑になってしまうからだ。
それでも直哉が警察署へやって来たのは、どうしても奏が事件に巻き込まれているのではないか、事故に遭ってしまったのではないか、という不安が拭い切れなかったからだ。
「つまり、捜索願を出したいということですね」
「はい」
「あなたとその……七瀬奏さんの関係は?」
両親や配偶者、恋人など、行方不明者と親密な関係の者しか、捜索願を出すことは出来ないらしい。
「恋人です」
付き合って半年ほどになります、と付け加えると、警察官は深く頷いて、それをメモに書き加えた。
「七瀬さんの写真などはありますか」
「あります」
スマートフォンを取り出し、写真をスクロールして探していく。ほとんど奏と飼い犬の写真ばかりだが、奏の顔がはっきり分かる真正面の写真はなかなか見つからなかった。というのも、奏は照れ屋だったため、カメラを向けられていることに気がつくとそっぽ向いてしまったのだ。
ようやく見つけた一枚の写真は、奏の顔立ちがよく分かるものだった。もう一枚、背格好が分かるものが欲しいと言われ、少し遠目から撮った写真を渡す。
「七瀬さんの身長や体重、見た目の分かりやすい特徴、血液型、通っている大学に現住所、実家の住所。分かる範囲で構いませんので教えていただけますか」
それは難しい質問ではなかった。付き合い立てのカップルならまだしも、直哉と奏は交際を始めて半年経つのだ。
身長、大体の体重……これについては奏が決して答えてくれることはなかったので憶測である、うなじにほくろがあること、血液型や住所など、すらすらと答えていく。
実家の住所については、さすがにまだ一度しか行ったことがなかったので曖昧だったが、記憶を掘り起こしてどの辺りだったかを告げた。
七瀬という苗字はそこまで多くないと思うので、きっと見つかるだろう。
そこまで答えてみて、奏が実家に帰っている、という可能性に辿り着いた。
「あの、すみません。まだ奏の実家には確認を取っていなくて」
「電話出来ますか?」
「してみます」
警察官があからさまに面倒臭そうな顔をしてみせた。捜索願を出しに来るなら、出来る限りの可能性を潰してから来い、ということなのだろう。
直哉はその場でスマートフォンの電話帳を開き、奏の実家に電話をかけた。
プルルルル、プルルルル、プルルルル、と三回コールが鳴る。
それから、はい七瀬です、と電話口に出たのは、女性の声だった。
奏に姉妹はいないはずだし、声質が似ているので、おそらく奏の母だろう。直哉は電話口に向かって丁寧に名乗り上げる。
「突然すみません。私、七瀬奏さんとお付き合いをしています、岡田直哉と申します」
『はい?』
「奏さんはご在宅でしょうか」
ドクンドクン、と心臓が大きく音を立てる。どうか実家にいてくれ、と祈るような気持ちで返答を待っていると、奏の母は不審そうな声を上げた。
『奏なら今一人暮らしをしていて、滅多に帰って来ませんよ。彼氏さんならそのくらい知っているでしょう』
「はい、一人暮らしをしているのは存じているのですが……その、昨日の夕方から奏さんと連絡が取れなくて」
何かご存知ないですか、と丁寧に訊ねる。
奏の母はどうやら納得したようで、そうだったの、と少し心配そうな声を上げた。
『あの子は昔から少し抜けているからねぇ。私からも連絡してみますよ』
「お願いします」
そうして直哉は自分の連絡先を告げ、奏から連絡があった場合すぐに教えてもらえるようお願いをした。
電話を切って「実家にもいないみたいです」と告げると、ようやく警察官は真剣に話を聞いてくれるようになった。
いなくなったときの服装なども訊かれたが、あいにく昨日は朝から大学の講義が入っていたため、奏に会うことが出来なかった。一昨日の服装なら覚えているんですけど、と答えると、念のため、と警察官はメモをしてくれた。
それから最後に連絡が取れた時間帯。これは少し迷ったが、昨日の朝はメッセージに既読の文字が付いているが返信はなかった。昨日の夕方、そして今朝送ったメッセージは、未読のままである。そのことを警察官に告げると、昨日の朝まではスマートフォンを見られる状態にあったと考えていいでしょうね、と言われた。
まるで今はスマートフォンを見ることが出来ない状況にある。そう言われたかのようで、背筋がぞっとする。
奏に何かあったら、と考えると恐ろしくてたまらない。直哉は震える手でスマートフォンを握りしめた。
「それでは最後に岡田さん。身分証明書を提示していただけますか」
「あ、はい」
学生証と保険証を出して、警察官が確認するのを待つ間、直哉は次にどこを探せばいいのだろうと途方に暮れていた。
遠くへ行きたいというのは、具体的にどこを指しているのだろう。
カフェのマスターの言葉を思い出しながら、直哉は電車に揺られていた。アルバイト帰りの奏を家に送るとき、よく乗っている車両を利用してみたが、やはり奏の姿は見当たらない。
こんなことならば、昨日は大学の講義などサボってしまえばよかった、と後悔がじわじわと湧き上がる。
奏に何かあったかもしれないのに、自分が呑気に講義を受けていたと思うと、ひどく腹立たしい。
もう一度奏の自宅へ向かう頃には夕方になっていた。閉じられたカーテンの向こう側には、明かりが見えない。きっとまだ帰っていないのだろう。
警察に捜索願を提出したが、捜索が行われるのは事件性があると判断されたときだけのようだ。
家出の可能性があるなら、探偵事務所に相談した方がいいよ、と警察官が最後に言っていた。
どう考えても事件性があるようにしか思えないのに、警察は動いてくれないのだと言う。どうしたらいいのか、と奏の部屋の窓を眺めながら途方に暮れていると、スマートフォンが奏の実家の電話番号を表示した。
「もしもし、岡田です」
『ああ、岡田さん。すみません、まだ奏と連絡が付かないんです』
携帯電話の電源が切られているみたいなの、と奏の母が困ったような声を上げた。
『一人暮らしだけど、念のため家に固定電話も設置したのよ。そっちも留守番電話に繋がっちゃって、家にもいないみたいで』
途方に暮れたような声が、電話口に響く。
そんなことはもうとっくに試したさ、と怒鳴りたくなる気持ちを抑えて、合鍵は持っていますか? と訊ねる。
『えっ?』
「奏さんの部屋の、合鍵です。僕は持っていなくて」
『ああ! 持っています!』
そうね、部屋で倒れているのかもしれないし、と奏の母が不吉なことを呟いた。
『今から車で向かうと二時間くらいかかるんですけど、着いたらまた連絡しますよ』
「ありがとうございます」
奏がいつ帰って来るか分からないので、このまま外で待っているつもりだったが、そのことはあえて口にしなかった。あまり急がせて、奏の親が事故にでも遭ってしまったら、奏に合わせる顔がない。
自動販売機でブラックコーヒーを買い、飲みながら待つこと約二時間。黒のワゴンがアパート前のコインパーキングに停められる。あれは奏の父親の車だ。
「はじめまして、岡田直哉です。奏さんとお付き合いをさせてもらっています。こんな形でのご挨拶になってしまい申し訳ありません」
奏の両親が車を停め、下車したところに近付き、直哉は丁寧に挨拶をした。
奏の母は少し驚いた顔をした後、深々と頭を下げてみせた。
「あなたが岡田さんね、奏がいつもお世話になっております。今回もお騒がせしてしまってすみません、心配してくださってありがとうございます」
「そんなことよりお前、早く鍵を」
「お父さんってば、岡田さんに失礼よ」
奏の父は、直哉のことをあまり良く思っていないようだった。一人娘の彼氏とあれば、当然のことであろう。予想していた反応だったので、大丈夫ですよ、と奏の母に笑いかける。
奏の父が二人を引率するように歩き、奏の借りている部屋の前に辿り着く。妻に渡された合鍵を使い、奏の父はガチャリとその閉じられていたドアを開けた。
「奏、奏いないのか?」
どうぞ、と奏の母が手招きしてくれたので、直哉も奏の部屋に足を踏み入れる。
統一感のある薄桃色のカーテンやぬいぐるみ、優しいベージュ色の家具、華やかさを添えている造花。
奏の部屋は、奏の女の子らしさを表しているものだった。
あまり広くはないけれど、きちんと整頓されているおかげか、生活しやすそうな空間に仕上がっている。
小さな机の上にはノートパソコンと大学の講義で使うであろう教科書。そして本棚には数冊の少女漫画と小説が並んでいた。
直哉はぐるりと部屋の中を見回したが、書き置きのようなものはなかった。家出や自殺ではないのだろう。そう考えて、少しだけ安心する。
彼氏である直哉を信頼していなくて、相談してくれなかった訳ではなかったのだ。
奏の名を呼びながら両親が寝室へと入っていく。直哉は足を踏み入れるのを遠慮しておいた。奏の親がいる前で寝室に入るのは、なんとなく気恥ずかしかったからだ。
代わりにリビングになっている部屋を隅から観察していく。もしかしたら奏がいなくなった、手がかりがあるかもしれない。
そして見つけた、本棚には不釣り合いに思える一冊のパンフレット。冊子になっているそれは、江ノ島を特集したものだった。それを何気なく手に取り、ぱらぱらとめくっていく。
そこには、高級ホテルから手の届きそうな価格のホテルまで紹介されていた。その中に、角が少し折り曲げられていたページを見つける。そのページで紹介されているホテルは二つ。直哉は忘れないように、ホテル名を頭の中にインプットした。
奏は寝室にもいないようだった。
「そんな……奏ったら、どこに……?」
途方に暮れたような奏の母に、直哉は手に持っていたパンフレットを差し出す。
「僕はここに行ってみようと思います。もしかしたら的外れかもしれませんが……でも、少しでも奏さんがいる可能性があるなら、放っておけないんです」
「……ありがとうございます」
ほろり、と奏の母は涙をこぼした。
奏は岡田さんのような人と付き合えて幸せね、と呟きながら、ハンカチで目頭を押さえる。
到着してからずっと直哉の方を見ようとしなかった奏の父が、ようやくこちらに目を向ける。そして深々と頭を下げると、こう言った。
「奏をどうか探し出してください。よろしくお願いします」
「……はい、絶対に見つけてみせます」
奏の両親は、そのまま奏の部屋に泊まるようだった。ひょっこりと娘が帰ってくるかもしれない、とそう思っているのかもしれない。
しかし、ここまで連絡が取れないということは、何か事件か事故に巻き込まれている可能性が高いだろう。
直哉はスマートフォンのメッセージアプリを立ち上げ、何度目か分からない確認をする。相変わらず送ったメッセージに既読の文字はつかない。
奏、心配だよ。
どうか無事でいて。
ご両親にも連絡させてもらったよ。二人もすごく奏のことを心配しているよ。
祈るような気持ちで送った追加のメッセージは、やはり既読になることはない。もう一度電話もかけてみるが、繋がることはなかった。
直哉は絶望しそうになる自分を叱咤して、江ノ島行きの電車を調べるのだった。
数時間後。江ノ島に辿り着く頃にはすっかり夜になっていた。奏が印をつけていたページのホテルに、タクシーで向かう。
正直なところ、直哉はもう途方に暮れていた。
このパンフレットがいつのものか分からない。奏が何かの事件に巻き込まれているのだとしたら、全く行き先とは関係ないということになる。
それでも奏が自分の足で赴いたという、わずかな可能性に縋りつくことしか出来なかったのだ。
パンフレットに載っていたホテルの中で、奏がページを折り曲げて印をつけていたのは二軒。そのうちの一軒に辿り着き、タクシーの料金を支払う。
そこは、観光などに一切興味のない直哉でも感動するほど、美しい外観のホテルだった。
自分の格好を見て、少しだけ不安になる。ホテルに入るのに、悪目立ちしたりはしないだろうか、と思ったのだ。
しかしホテルのドアマンは、直哉が入口に辿り着くと、丁寧な動作でドアを開けて招き入れてくれた。
ホッとした直哉はフロントへ足を運び、スマートフォンで撮影した奏の写真を画面に表示する。
「すみません。この写真の女の子、知りませんか。僕の彼女なんですが、昨日から行方不明になっていまして、探しているんです」
フロントの女性は、にこやかな笑みを浮かべていたが、直哉の話を最後まで聞き終えると困ったような表情になった。
「申し訳ございません。お客様の個人情報はお答えできかねます」
やはり警察が相手ではないと、情報の開示はしてくれないらしい。どうやらセキュリティは万全のようだ。
「…………そうですか」
直哉は少しだけ躊躇ったが、潔く引き下がることにした。
ホテルのロビーにある椅子に腰掛けて、もう一軒のホテルの住所をスマートフォンで検索する。その視界の端に映る、先ほどの受付の女性がどこか慌てた様子で電話をかける姿。
「……やっと見つけた」
直哉は低い声で呟いた。
直哉は受付にもう一度赴くと、空いている部屋はありますか? と訊ねる。
「今日はもう遅くなってしまったので泊まりたいんですけど、当日ではさすがに空いている部屋なんてないですかね」
「ございますよ。こちらのスイートルームでしたらご案内できます」
通常の部屋よりも値は張るだろうが仕方ない。名前と住所を記入して、クレジットカードで支払いを済ませる。
それから案内された部屋に辿り着き、荷物を置くと、直哉はホテルの中を歩き回った。そして上の階から一部屋ずつインターホンを押していく。中には反応もない部屋もあったが、それでもよかった。
もしも奏がいるとしたら、先ほどのフロントからの電話で、直哉が探しに来たことは伝わっているはずだからだ。それならきっと、奏は部屋から出てきてくれる、と確信していた。
三階まで辿り着いた。予算の関係上、奏が泊まっているとしたらおそらくこの辺りだろうと直哉は当たりをつけていた。
奏は無駄遣いをするタイプではないが、大学生のアルバイトが稼げる金額なんてたかが知れている。こつこつ貯金していた奏だから、このホテルにも泊まれたのだろうと思う。
三一ニ号室のドアホンを鳴らそうとしたときだった。ホテルマンがやってきて、直哉に注意を促す。
「お客様、申し訳ございませんが、他のお客様のご迷惑になる行動は控えていただきますようお願いいたします」
「はいはい」
返事をしながら、インターホンを押す。お客様、と嗜めるような声を聞きながら、耳を澄ませる。ドア一枚挟んだ向こう側から、聴こえてくるかすかな息遣い。
奏だ、と直感的に思った。
「奏、いるんでしょう。迎えに来たよ」
直哉の呼びかけに、かすかな悲鳴が聴こえる。
「お客様、困ります。お辞めください」
「大丈夫だよ、奏。勝手にいなくなったこと、怒ったりしてないから。出ておいで」
ホテルの従業員が、ついに直哉の腕を掴む。
それと同時のことだった。少し遠くから、どすん、と何かが落ちたような大きな音が聞こえ、次いで悲鳴が上がり始める。
ホテルマンは蒼白な顔をしていた。
直哉は掴まれた腕を振り払いながら、奏は恥ずかしがり屋だなぁ、とため息をこぼした。
岡田直哉はかく語る。
「奏の連絡先ですか? 告白したときに訊いたらちょっと恥ずかしがりながら教えてくれましたよ。あんまりマメじゃないんですけど、って言ってたけど、いつもすぐにメッセージには既読がつくし、たぶん俺からのメッセージを待ってたんだと思います」
「バイトがある日は毎日送り迎えしてましたよ。電車で奏の家まで迎えに行って、一緒にカフェまで行って、奏のバイトが終わるまで俺はコーヒーとレアチーズケーキを食べながら時間を潰すんです。それで、奏が帰るときには必ず家まで送ってました。奏は不審者とかが怖いみたいで、よく後ろを振り返る癖があったから」
「アルバイト先? あのカフェは俺が先に通っていて、そこに奏がアルバイトとして入って来たんですよ。奏の方から言い寄って来て、可愛いなって俺も一目惚れだったんで、毎日通いました」
「勘違い? 違いますよ。奏は俺だけにレアチーズケーキをごちそうしてくれたし、俺がカフェに行くと恥ずかしそうにカウンターの奥に隠れたりしてました。たぶん初恋だったんじゃないかな」
「奏と? 付き合ってましたよ、当たり前でしょう。人をストーカーみたいに言わないでください。奏は口下手であんまり好きとか言ってくれなかったけど、目を見れば分かりますよ。俺のこと大好きだって。俺を見る目が、他の男を見る目と全く違いますから」
「実家の住所は、奏が帰省するときに着いて行ったので、何となく覚えていました。二階建の一軒家ですよね。奏の部屋は二階の端っこで、一人暮らしの部屋と同じ、ピンク色のカーテンがかかっていました」
「電話番号ですか? 昔ながらの家なので、タウンページに載ってましたよ。危ないですよね、今はいかに個人情報を守るかっていう時代なのに」
「お母さんと会うのは初めてでしたよ。でも、知ってました。奏を出迎えたときと、買い出しに行く姿を見てましたから」
「えっ? 奏の大学について? 急に話が変わりますね。ええ、何度も行ったことがありますよ。奏の隣に座って講義を受けたこともあります。むしろ自分の大学の講義よりよっぽど出席率が高かったんじゃないかな。奏は俺が隣に座ると緊張するのか、いつも手が震えるんですよ。そんなところも可愛いですよね」
「お昼ご飯も学食で何度も奢ろうとしたんですけどね。奏はそういうの嫌がるんです。えらいですよね、女の子って奢られたがるイメージがあったけど、自立してるっていうか。でもまあ俺は彼氏なんだし、頼ってくれてもいいのになぁって思ってましたけど」
「奏の家の合鍵は持っていないんですよね。いつか作ろうと思ってたけど、機会がなくて。それに親御さんが心配すると思って。ほら、ちゃんと婚約してからの方がいいのかなって思ったんですよ、そういうのは。でも奏は結構不用心で、鞄置いたまま席を離れたりしちゃうから、何度か作っちゃおうかなっていう誘惑には駆られましたけどね」
板橋はぞっとしていた。警察官という職業柄、狂った人間や、理性を無くした人は何度も見たことがある。
しかしこの男、岡田直哉は、正常だった。理性的な妄想家。そんな言葉が頭をよぎる。
直哉の話を聞き、全てメモを取りながら、文字がだんだん震えていくのが分かった。それは間違いなく恐怖によるものだった。
ストーカーの被害者であった七瀬奏は、一命を取りとめた。しかし未だ重傷で入院中である。意識は回復しているが、ずっと何かに怯え続けており、事情聴取はドクターストップがかかっている状況だ。
無理もないだろう、と板橋は思った。まだ十代の少女が、こんな妄想癖のある男に毎日つけ回されていたのだ。
それも、彼女は誰にも相談出来なかったらしい。それは友人がいなかった、という訳ではなく、どこに行っても直哉が現れるため、相談したくても出来なかったのだ。
奏の大学の友人は、あまりに頻繁に大学に現れる直哉のことを、同じ大学の学生だと認識していたようで、不審には思っていなかったようだ。
加えて奏に付きまとっていることも、奏への片想いだと好意的に捉えていたらしい。そのこともまた、奏が相談出来ない原因の一つになっていた。
奏のことを語る直哉は、何一つ嘘を吐いているようには見えなかった。本気で奏のことを彼女だと信じ込んでいるのだ。
ストーカーというのは思い込みの激しい人間が多いが、岡田直哉は典型的なタイプだった。
「ねえ刑事さん、いつになったら奏に会えますか」
「会わせられる訳がないだろう!」
「でも俺と奏は付き合っているんだから、二人で会うことを止める権利なんて、警察にもないですよね」
俺は何の罪も犯していないんだから。
平然と言ってのける直哉に、嫌悪感が湧き上がってくる。
ストーカーは立派な犯罪だ。奏に対して直哉が行っていた執拗な付きまといを、ストーカーと呼ばずに何と呼ぼう。
奏が被害届を出せば、警察は直哉に対して付きまといの禁止命令を出すことが出来る。それを無視した場合の罰則は、懲役又は罰金。
今回直哉から逃げるために江ノ島まで足を運び、ホテルの窓から飛び降りた奏ならば、被害届が提出されることはまず間違いないだろう。
「君のやっている行為は犯罪だ。ストーカーなんだよ、君は」
板橋はなるべく冷静な声でそう告げる。怒りで声が震えないようにするので精一杯だった。
瞬間、直哉の顔から表情がなくなった。表情が抜け落ちた、とでも表現すべきだろうか。
「俺は奏の彼氏だ。ストーカーなんかじゃない」
握った拳を震わせながら、直哉は静かに呟いた。
板橋が七瀬奏と初めて会ったのは病室だった。
奏と話すことが出来たのは、事件から半月ほど経ってのことである。
ホテルの三階から飛び降りた奏だったが、植木がクッションになったことにより、命に別状はなかった。しかし、身体の骨が至る所折れており、退院は当分先のことになりそうだ。
まだあちこち包帯やガーゼに覆われている状態だが、それでも可愛い子だな、という印象を受けた。
奏は終始怯えた様子で、個室のドアをちらちらと気にしながらゆっくり話をしてくれた。
「最初は普通のお客様だったんです。アルバイト初日、私があの人のテーブルにコーヒーを運んだんですけど、少し溢してしまって。でも優しい笑顔で許してくれました。店長にそれを話すと、お詫びにこれを持っていきなさい、ってレアチーズケーキを渡されました」
「それから、毎日あの人がカフェに来るようになりました。いつもブラックコーヒーとレアチーズケーキを頼むので、よく覚えています。私はその頃まだアルバイトを始めたばかりだったので、元々常連のお客様だったのかな、と思っていたんです。でもあるとき他のバイトの子に、奏ちゃんが入ってからあの人毎日来るようになったんだよって教えられて、ちょっと怖くなりました」
「連絡先を訊かれたときは、ちょっと悩みました。でも、少し変わった人みたいだし、断って怒鳴りつけられたりしたら嫌だなと思って……。教えても、電話とかメッセージとか、無視しちゃえばいいやって、軽く考えていたんです」
「それから悪夢のような日々が始まりました。あの人から、すごい頻度でメッセージが届くんです。最初はマメな人なんだな、と思っていたのですが、三十分に一回は必ずメッセージが届くので、そのうち怖くなって返信することをやめました」
「えっ? いなくなる前日まで返信していた? とんでもないです! あの人からのメッセージは、半年近く前から返信していません! 未読のまま放置しておくと、三十分に一回だったメッセージが、もっと頻繁にくるので、それが怖くてメッセージを見るようにはしていましたけど……返信なんてずっとしていません」
「そのうちに、毎日家の前に現れるようになりました……。アルバイト先のカフェにも当たり前のように着いてくるし、もうどうしていいか分かりませんでした。警察に相談しようと何度も考えたのですが、ずっと見張られているような気がして、仕返しが怖くて出来ませんでした。」
「大学に乗り込んでくることもしょっちゅうでした。当たり前のように同じ講義を受けているんです。隣に座られたことに気が付いたときにはゾッとしました。手が震えて、授業どころじゃありませんでした。早く逃げなきゃ、って、そればかり考えていました」
「警察が無理なら、お父さんとお母さんに相談してみようかとも思ったんです。でも反対を押し切って始めた一人暮らしだったから、なかなか言い出せなくて。それがまさか、彼氏と名乗ってお父さんたちを騙していたなんて信じられません……。どこで住所や電話番号を知ったんだろう……気持ちが悪い」
「逃げようと決めたのは、当日の朝でした。あの人、火曜日の午前中だけは決まって私のところに来ないから、逃げるならそのタイミングしかないと思ったんです。スマートフォンの電源を切って、あの人が近くにいないことを何度も確認して、江ノ島行きの電車に飛び乗りました」
「江ノ島じゃなくてもよかったんです。たまたま大学の購買に割引券とパンフレットが置いてあって、目に付いたから。……遠くに逃げられれば、それでよかったんです。まさか江ノ島まで追ってくるなんて、想像もしていませんでした」
板橋は七瀬奏の話を聞きながら、静かに相槌を打ち続けた。時折質問を投げかけたが、基本的には奏の語る内容をメモしながら黙って頷いていた。
奏には、まだ直哉に対して行った事情聴取の内容を伝えていない。
職業柄、変人狂人に慣れている板橋ですら、恐ろしいと感じたあの発言の数々を、どうやって伝えるべきかと迷っていたのだ。
それでも奏は直哉の言動に対しいくつも疑問を抱いており、板橋はそのうちの何個かの疑問を解消してあげることが出来る。
例えばどうやって実家の住所と電話番号を知り得たのか。それについて、直哉は答えを述べていた。
直哉の奏に対するストーカー行為は、度を越していた。しかしいっそ清々しいほどに堂々と彼氏を名乗っていたために、周囲の人間は直哉の異常性に気が付くことが出来なかったのだ。
奏が直哉の名前を呼ぶことは終ぞなかった。「あの人」について語るときの奏は、ずっと窓の外やドアの方を気にしていた。まるでそこから当人が現れるのを恐れているように、怯えた目をしているのだ。
「七瀬さん、あなたが被害届を出せば、警察は岡田直哉に対して接近禁止命令を出すことが出来ます」
「…………でも、あの人、絶対にやって来ます」
震える小さな声が、個室に響く。
「だって私のこと、彼女だって本気で思っているんです」
そんな人が、ストーカーをやめてくれると思いますか。
ぽつりと涙をこぼし、問いかけられた言葉に、板橋は胸が痛んだ。この少女はあの男に追い詰められすぎて、希望のある未来を想像することが出来なくなっているのだ。
「きっと、一生続きます」
「そんなことは……」
「私が死ぬまで追いかけてきます、逃げ場なんてどこにもないんです」
こんなことなら、飛び降りたときに死んでしまえればよかったのに。
そう呟いてさめざめと泣く奏に、板橋は声をかけることが出来なかった。
真っ白な個室に、彼女の悲しい泣き声が響いていた……。
七瀬奏はしばらくして退院した。
被害届が提出され、岡田直哉には付きまとい禁止命令が下された。
直哉は最後まで「俺は奏と付き合っているんですよ」と言い張っていたが、板橋は根気強くそれは勘違いだと訴え続けた。
奏は一人暮らしをしていた部屋を退去。実家に戻ることになったが、その実家も売り払い、引越しを余儀なくされた。
いくら接近禁止命令が出ているとはいえ、実家の所在地と電話番号を把握されていては、落ち着いて生活が出来ないからだろう。
「私、諦めます」
引越しの日、奏にパトロールを依頼された板橋は、ボディガード兼見送りに来ていた。念には念を入れて探したが、直哉の姿は見当たらなかった。
「諦める?」
「きっと引越した先でも、あの人の影に私は怯え続けるんです」
「七瀬さん……」
そんなことはないよ、と無責任な言葉はかけられなかった。代わりに板橋は、何かあったらいつでも呼んで、駆けつけるから。とプライベートの電話番号を差し出した。奏が震える手でそれを受け取る姿は、まるで縋っているようにも見えた。
「……あの人は私のことを彼女だと思い込んで、四六時中私のことを考えているんです、きっと。でも私はあの人のことなんて大嫌いなのに、恐怖心からあの人のことをずっと忘れられない」
皮肉な話ですね、と泣きそうな顔を浮かべ、奏は車の後部座席に乗り込んだ。
その姿が切なくて、板橋は可哀想に、この子は自分が絶対に守ってやらなければ、と強く思うのだった。
その気持ちが、岡田直哉の抱いていたそれにひどく酷似したものだと気付くことなく、板橋は奏の乗った車の行先を、見えなくなるまでじっと見つめていたのだった。