悩める王子殿下の婚約破棄的事情。
短編にまとめ直しています。
広大な領地を支配するレーゼヴィブル王国。その王都エストーリアにあるトリシャ宮殿。
花の都と称される王都エストーリアにおいて一際豪華絢爛な様式を誇る宮殿の中庭で、一組の男女が手入れの行き届いた薔薇園の東屋に向かい合って座っていた。
「アイリス……私との婚約を破棄して欲しい」
席に着くなりそう話を切り出したのは蜂蜜色の髪をした見目麗しい男。中性的な線の細い顔立ちながら容貌は整っていて、目元は暖かな陽だまりを思わせるオレンジ色。
その麗しいと評判の顏を強ばらせながら告げられた一言。
この国の王子であるクラウス・フォン・レーゼヴィブルからの唐突な申し出に、婚約者であるアイリス・エンツィーは静かに目を瞬いた。
この婚約は政略で組まれたものではあったが、二人は相思相愛で、将来は暖かな家庭を築いていこうと互いに誓い合った仲だった。
先日王妃殿下が第二王子を産んでからというもの、この王子は何か考え込んでいるようにぼんやりとしていることが多かった。何かに悩んでいるということは分かっていた。しかし、そのうちいつものように相談してくれるだろうと高を括っていた矢先にこの話である。
自ら切り出したにも関わらず、婚約破棄の宣言を受けたアイリスよりも悲壮な雰囲気を漂わせているクラウスに、アイリスは過去の己の判断を後悔した。
――あの時無理矢理にでも話を聞いておくべきだったわ。
後悔先に立たず。まさにその通りだ。そんなことを思いながらアイリスは冷静に状況を整理する。
なんにせよ、この王子がどういう思考でこの結論に達したかを知らねばならなかった。
悲愴を通り越してもはや絶望的な表情を浮かべ始めたクラウスにはどうしてもこの婚約を破棄したくないという思いが伺える。
勿論アイリスもクラウスを愛しているので婚約を破棄するつもりなぞ毛頭ない。
――では何故王子は婚約を破棄しようとしているのか。
「……婚約破棄の理由をお尋ねしてもよろしいですか?」
「そ、それは……」
アイリスがそう問い返すと、クラウスは眉根を寄せて辛そうにキュッと目を閉じ――、
そして意を決したように告白した。
「私は、王子ではなく――女なのだ!!」
――言った。ついに言ってしまった。
クラウスは目を瞑りながら、悲痛な面持ちを浮かべた。心は絶望に包まれ、愛するアイリスを失ってどう生きていけばいいのだろうと思う程度には追い詰められていた。
――ついにバラしてしまった。己が十七年間秘め続けた本当の性別を。
レーゼヴィブルでは男子しか王位継承権を持たず、女子が王となることは認められていなかった。しかし今代の国王夫妻はなかなか子宝に恵まれず、苦難の末に唯一授かったのがクラウスだった。両親はクラウスが生まれた時大いにその誕生を喜んだという。
しかし生まれたクラウスは継承権を持つ男子ではなく、女子。悩みに悩んだ国王夫妻はクラウスの性別を秘匿し、王子として育てることにしたのである。
なかなか突飛な決断だったとは思えなくもないが、当時の夫妻の心境を考えると苦渋の決断だったと思われる。結婚して子宝に恵まれないどころかいつまで経っても子を授からなかった王妃を、周囲は責めた。それどころか、側妃を据えようとする動きすらあったくらいだ。
女は子どもを産むのが一番の仕事とされるこの風潮の中で、なかなか懐妊しなかった王妃に対して周囲の風当たりはかなりきつかったことだろう。王妃はその仕打ちに耐えながらようやっと一人目を産んだかと思えばその子は女の子。当時の王妃の心労はいかばかりか。
そんな中生まれたクラウスは「王子」として育てられ――王族と近しい間柄であったエンツィー公爵家との婚約を決められた。
国内での繋がりを強めるという政略の意味もあったこの縁談。
しかしクラウスは初めてアイリス嬢を見た時、一目で好きになってしまったのだ。
柔らかなウェーブを描く赤銅色の髪、どことなく猫っ気のある少し吊り上がった丸い翡翠の瞳。フリルをたっぷりとあしらった薄桃のドレスは可憐なその姿によく似合っていた。
「初めまして、クラウス様。アイリス・エンツィーと申しますわ。どうぞ、よろしくお願い致します」
舌足らずな口調で流麗な宮廷王国語を操り、まだ八歳という歳でありながら完璧な仕草でカーテシーを披露するアイリスは、クラウスには持ち得ない完璧な令嬢としての才覚があった。
クラウスは自分には一生縁のないであろう令嬢らしさを兼ね備えたアイリスに憧れ、また惹かれた。
何度も会ううちにお互いに恋愛感情が芽生え、政略結婚という建前を超えた深い愛情を育んだ二人は、やがて将来を誓い合う仲となった。クラウスは自分の性別を偽ったまま、アイリスという同性に本気で恋をしてしまったのである。
王子が実は女であるということを隠したこの婚約。それは危うい関係性だと知りつつ、いつまでもこの状況が続くことをクラウスは切実に願っていた。
だが、それはいつまでも続くはずもなく。
第二王子の誕生。
これがクラウスを取り巻く環境を大いに変えることとなる。
長年の悲願であった王子の誕生に国王夫妻は当然喜び、クラウスもまた新たな家族となる弟ができたことを素直に喜んだ。
しかし。
正当な嫡子――王子が誕生したということは、クラウスが男子を演じる必要はなくなるということ。弟が王位を継ぐことになれば、クラウスの役目は終わる。
それはつまり、アイリスとの婚約も解消されるということを意味していた。
クラウスは心の底から彼女を愛していた。真剣に結婚を望むほどに。彼女が側にいない未来など想像したくもない。
しかし、この婚約がなくなるというのなら――。
アイリスは今年で十七歳になる。一般に貴族の令嬢は早ければこの歳で結婚し、子どもを産むこともある。クラウスは当然女性であるからアイリスに我が子を抱かせてやることもできない。
子どもが産めない女性はこの世界で卑下される。クラウスは自分の母が長年味わった苦痛と無念を愛する女性に味わせたくはなかった。
アイリスの幸せを考えるならば、この婚約は無かったことにすべきである。十七を過ぎた時点で婚約者がいなければアイリスは「行き遅れ」の烙印を押され、結婚することすらできなくなるかもしれない。
しかし、八歳の頃から令嬢として完璧な振る舞いをしていたアイリスのことだ。十七歳になって大人の色香を兼ね備えた彼女は、今では社交界の華として貴族の子息たちの憧れ的存在でもあった。
今婚約を解消すれば、彼女を妻にと望む相手は幾らでもいるだろう。
アイリスに群がる男共を想像するだけで身を焦がすような嫉妬が湧き上がるが、そこは歯を食いしばってぐっと堪える。
彼女のためを思うならば、早々にこの婚約は破棄するのが最善である。
散々悩んだ挙句に、クラウスはそう結論づけたのであった。
♢♢♢
「……そうですか」
一秒が何時間にも感じられるような長い沈黙の後、アイリスはいつものように静かに口を開いた。
いよいよだ。
今すぐこの場から逃げ出したい気持ちを懸命に抑えて、彼女の続く言葉を只待つ。気づけば緊張して口の中がカラカラになってしまっていた。
彼女は恐らく失望しているだろう。正体を隠し続けた自分を許してはくれないはずだ。どんな攻めや言葉を受けても、自分は受け止めなければならない。
自らの性を隠して、彼女を騙し続けたのは事実なのだから。
クラウスは震える拳を握りしめて、アイリスに目線を合わせた。その翡翠の瞳がクラウスの姿を捕らえたところで、彼女はついに答えを出した。
「――それは、良かったですわ。好都合です」
「……へ?」
――好都合? ……何が?
全く意味が分からず、クラウスはアイリスの返答に間抜けな声をあげた。
困惑に疑問符で頭を埋め尽くされるクラウスに、アイリスはにこりと笑いかける。
「丁度いい機会ですから、私も話しておきましょう。クラウス殿下――実は私は、」
向かい合った席から立ち上がり、クラウスの側まで歩いてきたアイリスは、クラウスの左手を自らの胸に勢いよく押し当てた。
「なっ……!」
羞恥に顔を赤くするクラウス。年頃の令嬢の胸を触るなど、紳士として以前に、人としてあってはならない行為だ。
慌ててアイリスの胸から手を離そうとして――しかし違和感を感じてその動きを止めた。
アイリスの胸には女なら誰しもが持つ特有の膨らみが、全く無かった。
その事実に硬直するクラウスを横目に、蠱惑的な笑みを浮かべたアイリスは、衝撃の言葉を放つのであった。
「――私は、男なのですよ」
「……………………は?」
長い長い沈黙の末に硬直からようやく解けたクラウスが発した言葉はその一言だった。
突然の事態に頭がついていかない。未知の事態に遭遇した時、人間は上手く物事を受け入れられなくなるのだと、クラウスは初めて知った。
――あの可憐なアイリスが、男? いやいやそんな訳がない。そうだ。だってアイリスはあんなに女らしくて完璧な令嬢じゃないか。
胸は確かに思ったより無かったが……世には貧乳な女性だって沢山いる! きっとアイリスはそういう女性の一人なんだ!
世の貧乳の女性が聞いたら目の色を変えそうなことを思いつつ、クラウスは未だ事実を受け入れられなかった。
「そんな訳がない! アイリスは可憐な女性じゃないか!」
ふるふると首を降って、自分で想定したのとは別の意味で現実逃避をはじめたクラウスに、アイリスはさらに追い打ちをかけるべくにこやかに畳みかける。
「そんなに信じられないのなら下の方も確認されますか?」
そのまま掴んでいたクラウスの左手を下の方へと持っていき、ドレスの上から男の象徴たるモノへ導かんとして――
「うわああ!! いい!! いいから!!」
「そうですか……」
我に返ってアイリスの言葉の意味を理解し、顔を真っ赤にしたクラウスが慌てて左手をアイリスから奪取する。
アイリスは至極残念そうに呟いたのを聞き、クラウスは密かに戦慄した。
「納得されましたか? 殿下?」
「……納得した。アイリスは……男なんだな」
「はい。そうです」
そう言って嬉しそうに頷くアイリスを見て、クラウスは今まで己が信じていた何かが崩れ去るのを感じた。
「それで、殿下は私が女だと思っていたから婚約破棄しようと思っていらしたんですよね?」
「あ、あぁ。そうだな……」
確かにそうだ。
今となってはあんまり認めたくはないが、クラウスはアイリスを女と信じて疑っていなかった。
だからこそ彼女の幸せを願って身を引こうとしたのだ。
――まぁ、彼女は彼だった訳だが。
「では私が男であると分かった以上、この婚約破棄は意味がありませんわね。私は婚約を解消致しませんわ。……殿下のことを愛しておりますから」
いつもの慈愛を湛えた笑みを浮かべ、翡翠の瞳を細めて告げられた一言にクラウスの心は震えた。
先程は色々混乱してしまったが、よく良く考えればこれは幸運なことなのではないか。
自分は女で、アイリスは男。
第二王子……もとい、第一王子が生まれたことで継承権は弟にうつり、自分は女として男であるアイリスと結ばれる。
それはクラウスにとってこの上ない理想の将来像であるように思えた。
男であると告げられた今も、アイリスへの思いは変わってはいない。そもそもクラウスにとって「アイリス」は「アイリス」であり、自分には持ち得ない女らしさを持つ彼女に憧憬の念は抱いていても、それは恋愛感情とは別物である。
色々想定外の出来事はあったが、もう悲観する必要はないのである。何を悩む必要があろうか。
このままアイリスと共に居られる。
その結論が、何よりもクラウスには嬉しかった。
「そうだな。婚約は破棄しない。先程の言葉は撤回だ。今後ともよろしく頼む。……アイリス、私はあなたを愛している」
「ええ、私も愛していますわ。殿下」
二人はそのまま自然に近づくと、見えない糸で引かれあったように互いを抱きしめる。
――良かった。アイリスを失わずにすんだ。
感動で涙ぐむクラウス。愛する婚約者を失わずにすんだという安堵で満たされている彼女は気づかなかった。
――背に回されたアイリスの手が、ガッツポーズを作っていたことに。
そしてクラウスを抱きしめた姿勢のまま、小さく「もう絶対逃がさない」と呟いて、その決意を顕にするように翡翠の瞳を爛々と輝かせていたことに。
――こうして王子だった王女と令嬢だった子息は無事に婚約破棄を回避し、幸せな未来を歩んで行った……のかどうかはまた別の話である。