鏡子
「西野君と私が始めてあった頃には私はもう二人殺してた。人を食べたくて。」
僕は満月を見ながら彼女の話を聞いた。それぞれが独立した別々の世界のようだ。
「カニバリズムってやつかな。」
僕にとってはそんな程度のものだ。
「最初は、他人になりたくなって、無理なことはわかってて。段々他人の何かがほしくなって。自分が何者でもないから、妬ましくて。悪いことなのはわかってて、それでも我慢できなくて。この家で一人殺した。人間って普段殺されるなんて思ってないんだよ。殺されるって思ってない人間を殺すのって簡単なんだ。」
きっと彼女に理由なんてない。だから言い表せなくて支離滅裂なのだ。彼女は理由がはっきりとしていることなら、こんな説明はしない。
「だから私は殺して、食べた。」
彼女は狂っている。僕が見たものは最初から壊れたガラス細工だった。
「殺した人の死体はどうしてるの。全部食べてるわけじゃないでしょ。」
すべてがあまりに異次元のお話で、僕の質問もおかしくなってしまった。
「最初の一人は見つかっちゃった。ニュースにもなってたから知ってるでしょ。二人目は食べてないとこは大きなバッグに入れて海に沈めた。二人目は食べるところは冷凍しておいたの。あの時のハンバーグ、おいしかったよね。」
血の気が引いていくのを感じた。あれが、人の肉だった? 嘘だろ。
「あの日、全部打ち明けるつもりだったから。でもできなかった。嫌われたくなかった。西野君のお父さんを殺したのは私じゃないのに。そのせいで言えなかった。そう、私幸せだったの。西野君に出会って、西野君に好きでいてもらえて。幸せだったから。もしそれで西野君に嫌われることになっても、ちゃんと伝えて、それでもうこんなことやめようって。でもだめだった。結局は伝えることもできない。人を食べるのを我慢もできない。……お父さんみたいに自分で死ぬこともできない。」
僕はもう、彼女の話をほとんど聞いていなかった。そう、きっとそうだ。彼女はあの日こんな感覚を味わったのだろう。僕も自分の世界の全てが崩れ去るのを感じた。僕は涙を流していた。もういい、もういいんだ。僕は隣に寝転ぶ狂った女を抱きしめた。抱きしめずにいられなかった。さっきまではわからなかった。彼女が理解できたのだ。人を殺さずに正気を保てなかったその心境も。彼女がいなければ僕は知らなかった。何も。
「……鏡子、僕にも君しかいないみたいだ。」
「西野君、積極的。かわいい。」
彼女は僕の頭を撫でた。月は僕らを照らすのをやめて雲に紛れた。
「鏡子。今から少しデートをしよう。」