満月
彼女の鞄の中からは、生暖かいものが入ったビニール袋がいくつか出てきた。きっちり口が縛られていて、やたらと重い。感触から嫌な予感がした。僕はこれに触れたことがある。ビニール袋の一つを開くと、そこにあったのは手だ。これは人間の腕だ。想像もしてなかった。本当に驚くと人間叫んだりもしないものだ。僕は逆に冷静にすらなった。彼女は浮気をしていなかった。そんなことを考える余裕すらあった。いや、余裕はなかった。でもそれだけは考えられた。
「西野君。」
こんなときにデジャブだ。前にもこんな風に後ろから彼女に声をかけられた。感情のない声。今回は振り返ったら彼女はどんな顔だろうか。前回のように不思議そうな顔で僕の顔を見るだろうか。振り返った先にあったのは、とても悲しい顔。今にも泣き出しそうな顔だった。
「これ、鏡子がやったの?」
彼女は頷いた。
「そっか。……お互い、少し落ち着こう。話をしよう。」
落ち着こうと提案したが、その提案そのものが変に冷静だった。何よりもまず、彼女に落ち着いてもらう必要があると思ったから。袋は全部で四つ。両腕。両足だろうか。これをされた人間が生きているとは到底思えない。これをやったのが鏡子だというのが、非現実的でどうにも飲み込めていないのかもしれない。鏡子はまた頷いた。
「僕、屋根の上に居るよ。ちょっと外の風に当たりたいから。落ち着いたら、花生けてから来なよ。」
僕は有無を言わせず、それだけ言ってリビングを出て、階段を上った。彼女があれをやったのなら、何よりまず逃げるべきだろう。殺人だ。でもそうはしなかった。できなかった。彼女を愛してしまったから。彼女の部屋の窓から屋根に出て、彼女を待った。自ら追い詰められるような行動だが、思わずそうしてしまった。
そこで待ったのはほんの数分だ、彼女は来た、包丁を携えて。
「鏡子。僕は今日、君の浮気を疑っていた。ごめん。」
僕が彼女に最初に伝えたのは浮気を疑ったことへの謝罪だった。その話題に触れたくなかった。それと比較したらどんな話題だって当たり障りのない内容だ。
「ははは、西野君、正直だね。……私、西野君大好きなんだ。だからしないよ。」
比較的当たり障りのない話題に彼女も乗じた。それを僕に知られた後では憤慨するほどの内容ではないということだろう。
「そうだよね、僕が馬鹿だった。ほんとごめん。」
僕は心から謝罪した。そう、そんな疑いをかけるまでもなかった。彼女はそんなことをしない。信じていたはずなのに。後から客観視すると僕は愚かしいことこの上ない。
「……ねえ、西野君、人殺すのって、どう思う。」
暫しの沈黙の後に彼女は切り出した。そう、そうだ、僕の好きな小峰鏡子だ。彼女はいつだって少しばかりの沈黙の後、答えにくいことを聞いてくる。
「よくない、いや、いけないことだと思うよ。いつからか聞かせて。」
底の浅い一般論。それは僕自身の考えではない。人を殺す罪については、父の死を知ったその日から、散々向き合ってきた。人を殺すということは、その人本人の未来を閉ざすだけでは飽き足らず、他の人間から見た、その人のいる未来を閉ざすことでもある。殺されたその人にも、その人の周りにも、夢や、憧れ、思い出や、好きな人だっているだろう。その逆にその人を愛する人も。彼女がそれをわからない人だとは思えなかった。
「ちょうど二年前頃から。あの事件、何人かは私がやった。全然知らない人の失踪もまとめられててちょっと変な気分。」
彼女の申告はどうにも他人事のように感じられた。今から二年前ということは、父の失踪よりも少し後だ。
「やっぱりそうなんだね。……僕の父さんも鏡子がやったの?」
殺人という罪はたとえ相手が誰であっても揺るがない。でも僕にしてみれば父を殺したのが彼女なのかどうかは大きな意味を持つ。ニュースで流れる誰かではなく、自分の父親なのだ。母が愛していた人。僕の母だ、おそらく今も変わらず愛しているのだろう。
「それは違う。あの日、ここで私のこと全部知ってもらうつもりだった。でも、私の殺人にまとめられちゃってる人が西野君のお父さんだって知って、言えなくなった。今更私のいうことなんて信じられないかもしれないけど。」
僕はまだ彼女を好きだ。彼女が人を殺していると、知ってもなお。おかしいのかもしれない。彼女に執着しすぎているのかもしれない。愚かな僕が思い出したのは、彼女がサラダに醤油と七味をかけるのをみたときの事だった。僕は彼女を好きになってしまった。彼女が人を殺すことを知らずに。一度好きになってしまえば、どんなことでも彼女の新たな側面として受け入れることができてしまうようだ。
「信じるよ。」
僕の答えはこれしかなかった。彼女は隠し事は今までにもあったが、嘘を吐かれたことはなかった。
「西野君はもう優しいとかそんな言葉じゃ足りないね。」
なぜか褒めてもらえた。いや褒めていないのかもしれないが。
「……高田は?」
高田尚美のことも気になった。彼女は学校に来なかったあの日から姿を消していた。その失踪は彼女にとってメリットに成る部分もあったはずだ。僕と鏡子の間の席なのだから、鏡子も心の底、意識してる、していないを問わず、それを喜んでいる可能性すらある。少なくとも僕はそういう風に感じているのだ、彼女がそうでないとは言い切れない。
「それも私じゃない。」
彼女は嘘をつかない。信用している。鏡子は高田に何もしていない。彼女を疑うことの愚かしさは身をもって証明したばかりだ。
「質問攻めはこれで最後。……それで僕も殺すのか。」
僕は包丁を指差した。彼女は寝転がった僕の横に膝をつき、包丁を指差した僕の手を握り、包丁の側面を僕の首に当てた。彼女は泣いていた。
「私、そうしないといけないんだよね。」
「そうだね、僕は知りすぎてしまったってやつだろうね。君に殺されるなら本望とでもいっておこうか。」
こういうとき変に命を庇おうとすると死ぬのだろう。減らず口を叩くべきだ。また似たようなことがあったのを思い出した。そのときは命はかかってなかったと思うけれども。頭が妙に回るのは走馬灯のようなものだろうか。
「……西野君の勝ちだね。本当に変な人。私のお話させて。」
彼女は僕に包丁を突きつけるのをやめ、屋根に寝転んだ。緊迫した状況に景色を見るほどの余裕が初めて生まれた。空には満月が美しく輝いていた。