花束
数十分後、僕は花束を持って彼女の家の玄関の前にいた。空を見たが雲に覆われていて月は見えなかった。今日は偶然にも満月の夜だ。満月をみたからって自分に言い訳をすれば、なんてらしくもないことを考えたがうまくはいかないものだった。
「こんな時間に急に来られたら迷惑じゃないだろうか。」
僕は一人で呟いた。そうは言うものの、心には少しの不安もあった。母に言われたからではない。元々心の中にはあった不安だ。きっとこれは僕にしかないものではない。恋人がいれば、誰しもが一度は考える。もしも、もしも自分の恋人が誰かと。それを皆押し殺す。疑ってはいけない。疑っても口に出してはいけない。口に出しても調べてはいけない。何故ならそれは相手を傷つけるから。自分も傷つくから。
僕はゆっくり玄関のドアに手をかけた。チャイムは鳴らさない。鳴らさないでいいといわれているから。いつもよりドアが重く感じる。きっとこれは心理的なものだ。僕は家に上がり、リビングに入った。ふとそのときに気付いたのだが、僕は無意識的に音を立てないようにしていた。自分が恋人、鏡子を疑っている心に気付かされた。人間は、いや主語を大きくして誤魔化すのはやめよう、僕はなんと弱いことか。
どうやら彼女は家にはいないようだった。なんというか僕以外の存在を感じない。玄関に彼女が休日よく履いている靴もなかった。僕はさらに不安になった。こんな不安な心持ちで恋人に花束を渡しに来た男が、今まで人類史上にどのくらいの数いるのだろうか。きっとそれこそ有史以来、星の数ほど居るのだろう。
僕は彼女の帰りを待つことにした。待っている間にいろいろなことを考えた。本当に浮気なら。あの時僕が彼女を受け入れていれば。僕があの時口を滑らせなければ。初めてデートした、あの日、僕が彼女の席をよけていなければ。色々なもしもの話が脳裏を過ぎる。やがて僕はこのリビングに疑問を求め始めた。三人家族だったはずなのにどうして椅子が二脚なのか。考えなくてもいいようなことまで考え出した。そんなのは単に必要なくなったから処分したに過ぎないのだろうが、それなら一脚にしてもよかったんじゃないか。僕以外にも誰か招いていたんじゃないのか。考え出すととめられない性分も考え物だ。そんな疑心暗鬼に苛まれてどうするというのだろうか。
疑う必要などない。疑いよりも信用の方が大きい。仮に疑いが事実だったとして、彼女を嫌いになるだろうか。おそらくだが僕はならない。僕の心がそこで突き放すことを許さないだろう。
僕がここに来て一時間も経っていないだろう。玄関のドアの開く音が聞こえた。彼女が帰ってきた。彼女はリビングに来た。
「え、西野君。」
彼女は当然驚いた様子だ。いつも軽いあのリュックを背負っていた。彼女は所謂余所行きの服装をしていたが、どことなくその服や髪型は乱れていた。そして眼鏡もしていない。コンタクトレンズだろうか。それと動揺も見て取れた。
「花束、プレゼントしたくなって。来ちゃった。」
僕は冷静に振舞った。僕は花束を差し出した。一時間近くぼうっと見つめていたこの花束に最早若干の愛着すら沸いていた。彼女は手で口を押さえた。
「ありがとう。うれしい。」
彼女は笑顔を見せた。そうだ。この彼女の笑顔が嘘のはずがない。鏡子は花束を受け取る前にリュックを下ろし、いつものようにローテーブルの下に置いた。僕はいつも通りのこの動作に違和感を覚えた。僕はいつもよりも疑り深くなっていた。本来なら気にすることじゃない。いつもよりもはるかにリュックサックが重い。彼女は花束を受け取った。
「早くお花生けちゃわないと。」
彼女はキッチンの横の小さなクローゼットのところに向かった。僕は彼女の鞄を確認するチャンスを得た。だがそれは疑いを吐露するも同然だ。迷った。時間にすればほんの一瞬だろう。僕はこのもやもやした気持ちを抱えては居られなかった。鞄を開けて、その後、正直に謝ろう。そう心に決めた。