不幸
僕はついに彼女の部屋のドアの前に立った。恋人の部屋に一人で入るという行為はいかにも背徳的な感情を催す。ただ、今の僕にあるのは彼女を知りたいという気持ちだけだった。決してパンツを探しに来たわけではない。やましいことはない。
ドアを開けた僕の眼に飛び込んできたのは、壁に血で書かれた文字だった。
私
ただ一文字だけ。一度書いた字の上から、何度も、何度も書いたようなその文字。意味は僕にはわからない。彼女が書いたのだろうか。
この部屋にあるのは。ベッドと箪笥、勉強机。小さなベランダに通じる大きな窓もあるが、今はあんまり関係ないだろう。ベッドフレームには血の痕がある。もしかして彼女はこのベッドで今も寝起きしているのだろうかと疑問に思った。だとすれば彼女は自分が刺されたベッドで今も寝ていることになるだろう。それがどんな感覚なのかは当事者でない僕にはわからない。わからないが言葉では言い表せない種類の不安、恐怖のようなものを感じた。あえて言葉にするなら身の毛もよだつ様な恐怖だ。彼女は事件以来ここで寝るのはやめたんだ。僕は自分に言い聞かせた。
勉強机には先程父親の部屋で見たのと同じ写真が飾られている。写真立ては割れていて、母親の顔のところに刃物を何度も何度も突き立てたのだろう。その部分はズタズタに裂けていた。この写真立ての割れたガラスにも血がついている。この写真には塗りつぶされていない父親の顔があった。優しい目をした男性だ。彼女はきっと家族のことが好きだったに違いない。だからこそ、母親の裏切りは許せなかっただろう。
おそらくこの部屋の血文字や、写真立ての破壊のあとは事件そのもので出来たものではない。その後に彼女がやったことだ。彼女は平静ではいられなかったのだということはよくわかる。一つでも人が絶望するのに充分すぎるくらいの不幸を一夜にして幾つも背負わされたのだ。彼女の心の傷は想像を絶する。
僕にはまだこの部屋で成すべきことが残っていた。箪笥の一番上の段を開けるとそこには紙が一枚あっただけで何も入っていなかった。
「箪笥を開けるのを見越して下着類は移動しておきました。」
不覚にも笑ってしまった。その紙を手に取ると、見覚えのあるものがあることに気が付いた。あの時のゴムだ。付箋が張ってあった。
「P.S 今日これ必要になるかな?」
僕はもう一度笑って、それをポケットにしまった。