傷跡
一階にはトイレと風呂場、もう一つ部屋がある。彼女の口ぶりだと二階にも二つ部屋がある。唐突な非日常と言うのは思わぬところにあるから唐突なのだ。三階の窓から飛び出すような普通じゃない女の子には相応の背景がある。彼女と一緒にいれば急にまるで探偵ゲームのような探索パートを求められることもあるのだ。尤もこの場合は肝試しに近い部分もあるが。僕は恋に盲目になるタイプだ。それはもう、痛いほどよくわかった。これは愚かな僕に与えられた、いわば、そう、恋の試練なのだ。すべての部屋を探索し、彼女の箪笥からパンツを取り出し、かぶって彼女の元へ行く。
僕は恐る恐る一階の部屋のドアを開けた。ドアノブを押そうとしたら開かず、引いて開けたのはご愛嬌だ。部屋の明かりをつけると、畳敷きの和室だった。部屋に入って真っ先に目に入るのは何よりも畳の染みだった。
「血か。」
想像していた以上に僕は冷静に血の痕を見ていた。想定を超えたことでなければ僕は動揺しないのだと思い知った。その痕の上に人間一人くらい納まりそうな、夥しいまでの血の痕。辺りを見回した。部屋にはほとんど何も置かれておらず、誰の部屋だったのかはまるでわからないが畳にも数箇所切り傷のようなものがあった。天井にも、砂壁にも、押入れの襖にさえも血の痕がある。この部屋で起きた惨劇に思い至る。
この部屋はおそらく彼女の母親の寝室だったのだろう。殺されたのは彼女の母だ。彼女の父は自殺。人が自殺するのに畳に切り傷のつく理由はない。きっと彼女の母は抵抗したのだろう。でも、死んだ。
僕は死について考えを巡らせた。僕は誰にとっても死は平等に訪れるものだと考えていた。だが父の死で考えを改めなければならなくなった。父は急に消え、骨になって見つかった。なぜ死んだのかもわからなかった。身近にいた人の説明不足な死。父は死にたかったのだろうか。推測でしかないが、死にたかったわけではないだろう。父の死は僕に不平等を感じさせるものだった。
彼女の母の場合はどうだろうか。僕は畳の血の痕に触れた。死にたくなかった痕跡がこれだけ明確に残っている。死の不平等さを呪っただろうか。それはわからない。彼女は浮気をしていたのだという。今際の際に彼女はきっとそれを後悔したに違いない。死の価値観は変わらなかったが、浮気はするまいとそう思った。
ふと僕は血の痕に向かって手を合わせていた。こうすることで何か変わるわけでもない。意味があるのかはわからなかったが、無意識だ。
「あなたは彼女をこの世に生んでくれた。ありがとうございます。」
僕は呟いた。僕にとっては重要なことだ。この凄惨な和室を後にした。
「次は、多分、父親の部屋かな。」