困惑
これは僕と小峰鏡子の恋の物語だ。
幸せな、とても幸せな、恋の話だ。
僕の眺めるだけで言葉も交わさない片想いはこの日大きく姿を変えた。
片想いは両想いに。
眺めるだけだったのが、手を繋ぎ。
言葉も交わさなかった口は、くちづけを交わした。
だけどまだ何も知らなかった。僕も、彼女も。
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小峰鏡子の横顔は今日も綺麗だ。少し伸びてきた前髪、マシュマロのような頬。僕の視線を意に介さず、眼鏡のレンズ越しに黒板を見つめる眼差し。相変わらず美しい。シャーペンを下唇に当てるのもおそらく今回はわざとだろう。その姿を見た僕は自分の唇を指で触る。あの日から三週間が経っていた。派手に学校を抜け出した僕らのデートはクラスの人間で知らないものはいない程に話題になっていた。僕は頬杖を突いて小峰鏡子を眺める。それはとても幸せな時間だった。当然授業なんて聴いちゃいない。
「西野、彼女ばっか見てんなよ。」
僕と彼女の間の席の女子がニヤニヤしながら小声で注意してきた。高田尚美。彼女のことはそれしか知らない。時々話はするが僕は特段彼女に興味はない。僕は興味のないことは聞いている振りしか出来ない。あの日以降、彼女とのことを僕に訊いてくるやつは男女問わずとても多かった。外面のいい彼女か、無愛想な僕か。この二択で僕に訊くやつは茶化したいだけか、馬鹿だ。どちらにせよ馬鹿だ。
「別にいいだろ、何見てたって。ちなみに今僕はシャーペンを見ていた。」
僕も小声で返事をした。尋ねられるたび全てをはぐらかしてきた。付き合ってるのか、キスはしたのか、それとももっとか。答えるのも馬鹿馬鹿しい。婚約者だ。婚前交渉はしない派だ。内心そう思っていればいい。高田は「ふーん。」とだけ言ってニヤニヤしていた。終業のチャイムが鳴った。
授業が終わると僕はわざわざ彼女の席を避けて、窓際に向かった。代わり映えのしない住宅地、電線、街路樹。彼女の使った手すり。窓ガラス。
「ねえ、西野。」
デジャブだ。僕は後ろから声をかけられた。だが今回は彼女じゃない。
「高田さん、どうかした。」
僕は振り返らずに訊いた。別に窓の外に何かあるわけではないのだが、彼女よりも窓の外のほうがまだ興味があった。
「小峰さんと付き合ってるんでしょ?」
馬鹿だ。そもそも聞いてどうするんだ。僕は振り返って答えた。
「くどいな。何もないって。」
学校では今まで通りにすること。それは僕と彼女の約束だ。これは彼女の希望で、僕に見られ、演じるのが楽しいのだと言う。僕もそれを見るのが楽しいのだから利害が合致している。高田は少し考えてから僕に別のことを尋ねた。
「何もないなら、今日は私とデート行こうよ。」
僕は大層怪訝な表情をしていたことだろう。この女は何を考えているのか。僕は今まで通りにする約束のために彼女との関係を隠さなければならない。断ればそれは隠せない。だが婚約者がいるのに別の人間とデートというのは如何なものか。
「別にそれはいいけど、あんまりサボるとそろそろ単位取れなくなっちゃうから困るんだけど。」
咄嗟に思いついたのはあまり上手い言い訳ではなかった。
「ああ、確かに、西野時々サボってるからねー。じゃあ今度の週末ね、はい、これ。」
彼女が馬鹿だから誤魔化せてはいるようだが、より困る展開になった。彼女のスマホアプリの連絡先を渡された。もう流れで断れそうにない。
僕のそんな状況に気付いていたであろう小峰鏡子は、いつもと変わらず友達と話し、明るく、真面目で、今日も一日美しかった。そんな美しい彼女を見る僕は気が気ではなかった。
一人になった帰り道、彼女からスマホにメッセージが届いた。
「週末デート行っておいでよ」
「別に怒らないから」
「あ、でも狼さんになったら怒るから」
「今週末満月だから気をつけて」
僕は彼女のメッセージを見てにやけていただろうか。