星空
床を背にした僕の眼には星空が飛び込んできた。僕はどうやらプラネタリウムと言うものを侮っていた。子供だましの偽者だと思っていた。誰でも知っている名前の星座や、普段の生活では気付くこともできないような星、いや、もしかすると本当は肉眼では見えない星なのかもしれない。見たこともないような美しい星空がそこには広がっていた。遠近感が狂う。天井に散らばった光の粒がどうしてこんなにも美しく見えるのか。
しばらく息を呑んで星空を眺めていると、違和感を覚えた。まるで星空で間違い探しをしているような不思議な感覚だった。はて、どこかおかしいだろうか。そんな風に考えていると目の前の星が忽然と消えた。暗闇の正体が人の手のシルエットであることにはすぐに気が付いた。
「手、繋ごう。」
その声に応え、僕は彼女の手を握る。手の影の指の間に僕の指を差し込む。彼女は僕の手をそっと捕まえ、腕を下ろした。
僕はプラネタリウムの不思議さを考えていた。今僕らを取り巻く環境からプラネタリウムを引き算すると、地下室の床に寝そべって、ぼんやりと天井を見ながら手を繋いでる変なカップルだ。でもお互いにそんな風には思っていない。それは繋いだ手から伝わる。僕はふと彼女の顔が見たくなった。こんなとき彼女はどんな顔をしているのだろうか。その気持ちをどうしても抑えられなかった僕は彼女のほうを見る。
いつのまにか眼鏡をはずしていた彼女の瞳には息を呑むような夜空があった。僕はどのくらいの時間、その横顔に見蕩れていたのだろうか。その間、彼女は瞬きをしなかった。僕も瞬きはできなかった。
どうやら彼女はプラネタリウムを観たかったのではなかった。それならば眼鏡ははずさない。プラネタリウムを観る小峰鏡子を僕の前で演じたかったのだ。僕がそれを観ると知っていた。そしてそれが僕にとって魅力的なものだと知っていた。なんと恐ろしいことだろうか。
「綺麗だ。」
僕はその言葉を心に仕舞い込むことはどうしたってできなかった。小峰鏡子はそのときに初めて目を閉じ、そして笑った。
「ははは、ありがとう、照れるな。」
彼女は僕のほうに顔を向け目を開けた。
「言わせた上に照れるふりだね。」
僕は苦笑した。彼女はしてやったりという風だ。
「西野君、本当に私のことを良く見ているね。西野君は恐いね。」
彼女の言葉が僕にはよくわからなかった。恐ろしいのは君のほうだ。そんな風にも思えた。
「僕の何が恐い?狼になってしまうからかな?」
理解が追いつかないことがあると、僕はふざけずにいられない。自らの無知、無理解、愚かさを曝け出すことに怯えているのだ。
「そうだね。狼さん。別に何してもいいんだよ。私が何してあげてもいい。」
そういう彼女の薄暗い瞳には愚かな僕が映っていた。何か返す言葉を探した。そうか、先程の違和感の正体はこれだったのか。
「僕は今日は狼さんにはなれないかな。残念だな、もしこの夜空に満月があったなら。」
この夜空には月がない。もちろん本物の空に月がないことだってあるだろうけれど、僕が夜空を見るときは、大抵月が綺麗だから、それを見たくて空を見上げていたのだ。
「ははは、満月のときしか狼さんにはならないのか。西野君言い訳上手。今度は本物の星空を見に行こうね。満月の日に。」
小峰鏡子は本当に楽しそうに笑った。どうしても僕を狼に仕立てたいようだ。僕は偽者の星空が張り付いた天井を向いた。本物の星空か。
「外で狼になるのは控えてる―――。」
不意を突かれた。気付いたときには彼女と唇を重ねていた。ほんの一瞬の出来事だった。
星を背景にした彼女の影は髪を左耳の後ろにかき上げたようだった。表情はあまりよくわからなかったが、彼女の瞳の中に満月を見た気がした。
「ごめんね。我慢出来なかった。窓から飛び出たような気分。」
彼女はやりきったといった風にまた寝転んだ。今度は目を閉じていた。
「……これも演技?」
僕は声を搾り出し、尋ねた。これは本心から?それとも僕を喜ばす演技?もうよくわからない。とにかく搾り出した問いがこれだった。
「演技じゃないよ。衝動的な犯行。私の中ではこれでちゃんと恋人。」
彼女はとても満足気な様子だった。僕はシャーペンの消しゴムになれた。いや勝った。ずっとこんな風にいられたら。僕達はしばらくそのまま星空を眺めていた。