地下
僕らは地下室で二人きりになった。金属質な壁。その壁に似つかわしくない畳敷き。明かりは裸電球が一つだけ。物置のはずの部屋がなんでこんな状態になっているのかは良くは知らない。ここがなくても収納は間に合っている。この家でもっとも使われる頻度の低いスペースだ。僕らは部屋の入り口に鞄を置いた。
「すごいね、この部屋。今日プラネタリウムするように開けておいたくらいの都合の良さだね。」
驚いているような鏡子さんの声は、コンクリートの壁で反響しているのかこれまでと少々異なって聞こえた。あの時、僕の脳内ではこの地下のことがピンと来たのだ。これはおそらくファインプレーだ。
「二人だとちょっと狭いのが難点だけどね。」
僕は心にもないことを言いながら部屋の真ん中あたりに座り、購入してきた投影機を開梱して準備をする。
「ははは、こんなに近いとドキドキしちゃうねぇ、狼さん。」
彼女も心にもないことを言って、僕の後ろに座り、僕の背中を背凭れにした。彼女はまるでドキドキなんてしていない。露骨に芝居がかっている。幾ら狭いと言ってもここまで密着する必要があるほどは狭くない。わざわざ僕を煽って面白がっている、というキャラクタリングなのだろう。悔しいが僕は喜んでいる。背中から彼女の熱を感じる。
「狼さんは今準備で手一杯だよ。」
そう言うと、彼女の後頭部が僕の右肩の領空に侵入してきた。彼女の髪の毛で右肩がワサワサしている。右を向くと非常におかしな状態で目が合った。
「恋人ってどんな風にしたらいいかわからないのです。」
かなり耳に近いところなので囁くように彼女が言う。僕も良くはわからないが、とにかく彼女が楽しそうで何よりである。彼女は肩の領空侵犯をやめて、視野の外に消えた。
「お母さん面白い人だね。」
鏡子さんはとても楽しそうに言った。背中合わせで彼女の行動は見えないが、足を動かす振動が伝わる。彼女は足を伸ばして、完全に僕に凭れているようである。
「いつもあんな感じだから疲れるよ。」
母が放任で助かることもあるが、奔放で困ることもある。一長一短だろう。
「この親にしてこの子あり。って感じだね。」
あの親を見てそれを言われると中々来るものがある。怒りではない、自分への落胆だ。
「それ全く褒めてないよね。」
心底楽しそうな彼女のペースに完全に翻弄されている。もっとも僕も楽しんでいるが。
「二人とも褒めたつもりだよ。褒め言葉だし。」
その言葉が褒め言葉だったのは知らなかった。今までの人生で何度となく言われてきた。悪い風に言われたことしかなかったが、どうもそもそも間違っていたらしい。これまで誤用で罵られてきたのだとすれば片腹痛いが、皆、実は僕と母を褒めていたが、僕が母に対して否定的だからそういう風に捉えて来たのだとすれば、今までの僕の価値観を大いに揺るがす。今日は哲学的なテーマが豊富だ。
「お嬢さん、大体準備できたんだけどさ。」
僕はこの部屋に入ってからの自らの行動の誤りと、それに基づいて組み立てられた現状を打破しなくてはならないことに気が付いた。
「どうしたの狼さん。」
彼女が僕から見て右側を向いたのを背中で察知した僕は、投影機の電源プラグを右手で持ち彼女の視野に入るように手を伸ばした。
「ははは、ここからじゃ届かないね。仕方がない。よいしょ。」
鏡子さんは笑い、僕に凭れるのをやめて自立してくれた。晴れて自由の身となった僕は投影機本体はその場に残したまま、プラグだけ持って立ち上がり、入り口付近に一つだけあるコンセントに差し込んだ。それを確認した彼女はそのまま後ろに寝転がり、投影機本体のスイッチを入れた。それと同時に彼女は大の字になった。
「いつでもどうぞ、恥ずかしいから電気は消してね。」
彼女はとても元気にハキハキと言った。僕は思わず笑ってしまった。投影機が光っているのはなんとなくわかるが、明かりが点いたままでは星は見えない。彼女の姿をよく確認して、僕は部屋の明かりを消した。ほとんど真っ暗な中、僕はその場でしゃがみ、彼女の上に乗らないよう慎重に隣に寝そべった。