エピローグ 2
五月九日木曜日。いつものように学校に登校し、いつものように、美空んと挨拶を交わす。
授業が始まるまでは、まだ少し時間があるので、少し廊下をうろつくことにする。
別に、美空んとおしゃべりしていてもよかったのだけど、今日は気分が乗らなかった。
「あっ」
特にどこを目指すわけ度もなく、廊下をうろちょろしていると、丁度、下駄箱の前に差し掛かったところで、見知った男子生徒と鉢合わせた。
「おはよう」
「おう」
男子生徒、棗くんも、私に気付くと、そう挨拶を返してくれる。どうやら、今登校してきたらしい。
「怪我はもういいの?」
昨日まで、例の怪我が原因で、棗くんは学校を休んでいたのだが、今日から登校できたのか。
「ああ、まだ激しい運動は控えるように言われてるけど、日常生活に支障は無いってさ」
「そっか、よかった」
そうやって、二人して笑う。けど、本当に無事でよかった。
「どこか行くのか?」
廊下をうろついていた私を見て、どこかへ向かっていると思ったのだろう。棗くんがそう聞いてくる。
「ううん、そうじゃないんだけど、ちょっと、未来視のことで……」
私がそう言うと、棗くんは顔をしかめる。
「また、何か見たのか?」
「あ、えっと、そうじゃなくて、私にとって、今日のことは二回目だから、その、何か変えたくて……」
大した理由は無い。
けど、それがどんなにいい未来だったとしても、一度見て、体験したことを、そのままなぞるだけなんて、なんとなく、面白くないから。だから、それとは違うことをしてみたくなったのかも知れない。
「ああ、そういうことか」
私の言葉に、棗くんは緊張を解く。
なんか、こうして私の言葉に一喜一憂する姿は、見ていて面白い。
「じゃあ、俺も付き合うかな」
「え?」
棗くんの突然の申し出に、私は面食らってしまった。
「俺の方も、いつもと同じじゃ、面白みがないからな。つっても、今日は久々の学校なわけだけど。まあ、たまにはいいだろ」
棗くんは薄く笑ってそう言うと、鞄を置きに教室へと向かっていった。
私の許可も得ずに、まあ、別に駄目じゃないけど。
思い出すのは昨日の昼休みのこと、空き教室で、三人でお昼ご飯を食べていた。
鳥居くんに未来視のことを話したあの日から、この場所でお昼ご飯を食べるのがお決まりになっていた。
もっとも、その日は、棗くんは入院中だったが。
「愛乃」
ふと、美空んが声を掛けてくる。
「また、林田のことを考えてたの?」
「え? あ、う、うん……」
やっぱり、どうしても事件のことを考えてしまう。みんなは、気にするなって言ってくれるけど、正直、私には無理な話だった。
「まあ、あなたはそれでいいのかもね」
小さく息を吐いて、美空んはそう言う。
「え?」
彼女の言っていることの意味が理解できず、私は聞き返した。
「こう言ったらなんだけど、今回のことは、いい薬になったと思うのよ。その恐れがあれば、あまり無茶なことはしないでしょ。あなたも、あの男も」
「……そう、だね」
彼女の言葉を、私は肯定する。
たしかに、あの事件から、少し、恐怖心を覚えるようになった。
それは、また、誰かを危ない目に合わせてしまうのでは、という恐怖と、もう一つ、もしかしたら、私も、どうにかなっていたかも知れない、という恐怖だ。
今までは、誰かの助けになれるのなら、それでいいと思っていた。自分が死ぬかも知れないなんて、考えたことも無かった。けど、棗くんが死ぬかも知れないと思ったら、急に怖くなってしまった。
「そういえば、棗くんは何で手伝ってくれたのかな? あんなに反対してたのに」
最初は危険だって言ってたけど、結局、助けてくれた。
「何だかんだ言っても、ほっとけなかったんだろうね。玉木さんの奥さんのことも、野々山さんのことも」
そう言ったのは鳥居くんだった。
「林田は、誰かが傷つくのを知ってて、放って置ける人間じゃないよ。たぶん、理想としては、自分一人でどうにかしようとしたんじゃないかな。でも、野々山さんが止まりそうにないから、手伝うことにした、ってとこかな」
「そんな……」
鳥居くんの言葉に、私は怒りを覚えた。
私には、危険だとか、出来ることと出来ないことがあるとか、そんなことを言っていたくせに、自分なら大丈夫だってことか。それで結局怪我をしてるんだから、
「それで結局怪我をしてるんだから、馬鹿だよねえ」
私が思っていたのと同じことを、鳥居くんに言われてしまい、私の怒りは行き場を失ってしまう。
「あと、それを言い出したのが愛乃だから、って言うのもあるでしょうね」
美空んがそう口をはさむ。
「私?」
「ええ、たぶん、林田にとって、あなたは理想だから」
「ふぇっ⁉ り、理想、って――」
それって、理想の女子とか、そういう――。
「ごめんなさい、そういうのじゃなくて、その、人として、理想ってこと」
突然の言葉に、慌てふためいてしまう私に、美空んがすぐに訂正する。
「あ、ああ、そっか、そういうこと」
あっさりと訂正されてしまったことに、少し、残念に思ってしまう。びっくりしたけど、えっと、何か、何だろう。
「理想、って何が?」
話を戻す。
「愛乃は、とてもいい子でしょ」
「そんなこと……」
「いい子よ。誰にでも優しくて、嘘が下手で、素直で、分かりやすくて」
「えっと、褒めてる?」
「ええ、間違いなく」
不安になって聞いてみると、美空んは薄く笑みを浮かべて、そう答える。その笑みが逆に胡散臭い感じがしたが、私は先を促す。
「林田は、そう出来なかった人間だから」
「棗くんが?」
「そう。だから、あの男は、あなたが放って置けない。無視して後悔したくないから、力になりたい。まあ、そんなところね」
そう言って美空んは口を閉ざす。
棗くんに何があったかは気になるけど、美空んが何も言わないのは、言う必要が無いからか、他人が言うようなことじゃないからか。
「さすが、幼なじみさんは言うことが違うね」
「別に、無駄に付き合いが長いだけよ。その言い方はやめて」
茶化すように言う鳥居くんを、美空んが眼を鋭くして制する。
ただ付き合いが長いだけで、そこまで言えないと思うけどなあ。
でも、もしほんとに、私が棗くんにとっての理想なら、私は――、
「悪い、待たせたな」
棗くんが小走りでこちらに近付いてそう言う。
「ううん、大丈夫だよ」
そう答えると、棗くんを待って、私も歩き出す。
「どこいくんだ?」
歩き始めると同時に、棗くんがそう聞く。
「んー、特には決めてないけど、ちょっとぶらぶらしようかと」
「ふうん、そうか」
私の答えに、棗くんは、なんとも言えない反応をする。不満はなさそうだけど、何かあるなら言って欲しい。
私がそう思っていたのを汲み取ってかは分からないが、少し考えるようにしてから、棗くんが言う。
「それなら、購買の方に行かないか?」
「いいけど、開いてるかな?」
たしか、八時半くらいからだったような気がするけど、まだあと一〇分くらいある。
「いや、自販機でジュースでも買おうと思って」
「ああ、そっか、じゃあ、そうしよっか」
棗くんに言われて、私もなんだかジュースの気分になってしまった。
購買に設置してある自販機で、紙パックのジュースを買う。
棗くんはカフェオレを、私は、少し悩んだけどミックスジュースを買った。
廊下で飲むと、先生に怒られるので、近くのベンチに腰掛けて、二人してストローを刺して、ジュースを飲む。
と、まったりしていると、棗くんが口を開く。
「俺さ、今回のことで、少し考えたんだ」
「え? 何を?」
「自分のこと、あんなに心配してくれるとは思ってなかった」
「ほ、ほんとだよ! ほんとに心配したんだから!」
棗くんの言葉に、私はつい声を大にしてしまう。
立ち上がってそう言った私をなだめるように、棗くんが口を開く。
「それに関しては、本当に悪かったって思ってる。だから、まあ、落ち着けって」
「…………」
「それで、まあ、なんだ、そういう風に思われるのが、俺は堪らなく嫌らしい」
私が再び腰掛けるのを待って、棗くんはそう続けた。
「私も、ずっと考えてた」
「ん?」
「棗くんがあんなことになって、すごく心配で、怖くて、それで、もし私がどうにかなったら、みんなが同じように思うのかな、って思ったら、なんか、嫌だなって思った」
私自身がどうにかなってしまうことももちろんそうだけど、それよりも、みんなを悲しませてしまうことが、何より嫌だと思ってしまった。
「でもね、また、今回みたいな未来を見たら、たぶん私は、それを変えたいと思うと思う」
「ああ」
それがたとえ、どんなに危険なことだとしても、私はたぶん、それを放って置くことは出来ないと思う。
そんな私の性分を棗くんも分かっているのだろう。棗くんが私の言葉に相槌を打つ。それとも、棗くんも私も同じなのかな。
「けど、私ひとりじゃ、何も出来ないって、思い知らされちゃったから、だから、そのときは、また手伝って、くれますか?」
どう言っていいのか分からなくなって、少しかしこまった言い方になってしまう。
「それはまあ、えっと、分かりました」
「ふふっ、ありがと」
私につられて、かしこまった言い方をする棗くんに、思わず笑ってしまう。それにまたつられて、棗くんも顔を綻ばせる。
「じゃあ、お願いがあるんだけど」
「何だ?」
こちらから手伝ってと言っておきながら、更にお願いがあるというのは少し厚かましい気がするけど、そこは深く考えずに、私は話を続ける。
「えっとね、預かっててほしいものがあって」
そう言って、私は、左手首のミサンガを外し、棗くんに渡す。
「これを?」
棗くんは不思議そうにミサンガを見つめ、その意味を訪ねる。
「うん、入学前にお守りのつもりで作ったんだけど、棗くんに預かっててほしい」
「何で?」
「それ、自分でも結構気に入ってるんだ。大切なものだから、棗くんに着けといて欲しいの。そしたら、あまり無茶なこと出来ないでしょ」
これが、棗くんにとって、自分を大切にするための、基準の一つにでもなればいい。そう思って、私は棗くんにミサンガを渡した。
それに、私が作ったものだけど、棗くんのお守りになればいいな、って思ったから。
「……わかった。けど、これ、どうやって着けるのか分かんねえぞ」
「あ、そっか。ちょっと貸して」
棗くんの言葉を聞いて、彼の手から再びミサンガを受け取る。それを棗くんの左手首に着けてあげる。
「ここを、こうやって、よし」
そうやって着けられたミサンガを、棗くんはしげしげと眺める。
私が言い出しておいてなんだけど、そんな風に眺められると、少し恥ずかしい。自分でも上手く出来ていると思うし大丈夫だよね?
「確かに、預かっとくよ」
少しして、棗くんが口を開いた。
「いつか必ず返すんだから、愛乃も無茶するなよな」
「うん、約束する」
これは、私と棗くんとの約束の証だ。
お互いが、お互いのために、自分を大切にする約束。
もしほんとに、私が棗くんにとっての理想なら、私が自分を大切にすることで、棗くんもそうしてくれたらいいなって思うから。そのための約束。
ベンチに座りながら、今日のことに思いを馳せる。
ああ、思えば、入学式の日に見た未来からは、随分と変わってしまった。
昨日、注意するよう言ったから、鳥居くんが教科書を忘れることは無いだろうし、それを理由に美空んのところに来ることも無いだろう。でも、何か口実を作って、遊びに来たりするのかな。
棗くんと私は、教室にはいない。そもそも、棗くんの怪我のことがあるから、これは少し残念と言える。もしかしたら、あっちの未来でも、怪我はしてたのかも知れないけど、それでも残念だ。
美空んはいつも通りだったけど、彼女はそれが一番いい。読んでる本が何だったかまでは覚えてないけど、変わってたりするのだろうか。
ただ、一つだけ変わらなかったことがあるとするならば。
キーンコーンカーンコーン――
学校のチャイムが鳴り響く。
「予鈴か」
「そうだね」
棗くんが呟くのに、私も相槌を打つ。いつのまにかそんな時間か。
「行こうぜ」
「うん」
急いで残っていたジュースを飲み干し、二人して教室へと向かう。
何気なく隣に並んで、棗くんの顔を覗き込む。それと同時に、棗くんが大きく欠伸をした。
こうしてみると、最初は不愛想に思えたその顔も、単に眠そうだったのだと思う。
「何だよ?」
私の視線に気付いて、棗くんがそう言う。
「ううん、何でも無い」
私がそう答えて笑ってみせると、棗くんは少し眉を寄せて、それから、小さく溜め息をついた。それがまた面白かった。
こんな風に意味のない会話をするだけで、気分が舞い上がる。
私のことで少しでも棗くんの感情が動くのが、とても嬉しくて、どきどきする。もっとそれを見ていたいって思う。
この感情を、言葉で上手く表現するのは難しいけど、
私はどうやら彼のことが好きになったらしい。