第三話
翌日、俺は駅前の喫茶店へと向かっていた。
理由は、昼過ぎに愛乃に呼び出されたからだ。
もっとも、俺と愛乃はお互いの連絡先を知らないので、正確には愛乃の連絡を受けた広中に呼び出されたという訳だ。
あの後、怪我をしていた愛乃は、救急車で病院に運ばれ、何も話すことが出来ないまま別れてしまった。
いろいろと聞きたいことはあったが、それも聞けず仕舞いだ。
まあ、そのあたりのことについて、今日は話してくれるつもりなのだろうが。
ものの一〇分で目的地に着く。
『喫茶 黒猫』
中一のときに、駅前にできて以来、俺と広中、それから鳥居も、度々ここに通っていた。
看板に彫られた、黒猫のレリーフが特徴である。
「いらっしゃいませ~」
中に入ると、一人のウエイトレスが声を掛けてくれる。
短く揃えた栗毛の、活発な印象の女性だ。
「あ、林田くん、いらっしゃ~い」
「どうも、涼子さん」
ウエイトレスは、入ってきたのが俺だと分かると、すぐに砕けた態度で接してくる。
名前は、風見涼子さん。ここのマスターのお孫さんで、現在、近くの大学の四回生だ。
カウンターを覗くと、マスターと目が合った。互いに軽く会釈して、挨拶を交わす。
「美空ちゃん、もう来てるよ。あと、なんかかわいい子も」
なんかかわいい子、というのは愛乃のことか。見ると、奥の席に、二人向かい合うように座っている。
「あの二人って友達なの? なんか、すごいお通夜モードなんだけど」
涼子さんが、声を潜めて尋ねる。
確かに、何か話している様子ではない。お互いに、出方を窺っているというか、妙な緊張感がある。
もともと、広中はあまり話す方ではないし、そもそも、話があるのは愛乃の方だろうから、広中はそれを待っているのだろうが、こうして見ると、確かに、仲良くしているというのを疑うくらいの緊張感がある。
「まあ、いろいろあるんですよ」
「ふうん。じゃあ、まあ、ゆっくりしていってね~」
はっきりしない言い方をする俺に、涼子さんはそれ以上何も聞かず、店内を回る。
俺はその後ろ姿を見送って、二人が待つテーブルへと向かう。
「よう」
近づいてそう声を掛けた。
二人が同時に俺の方を振り向く。
広中は昨日と同じような、パーカーとジーンズ姿。愛乃はブラウスの上にノースリーブのカーディガンを羽織り、下はショートパンツという、傍目からは少し寒そうな格好をしていた。昨日と同じように、左手首に着けたミサンガを握りしめている。
広中はそのまま何も言わず、手元に置かれたコーヒーに口を付ける。
「おはよ」
そう言ったのは愛乃だった。
「ああ、おはよ」
昼過ぎにおはようというのもおかしい気がしたが、俺もそう返す。
「待たせたな」
そう言って、俺は広中の隣に腰掛ける。
座り掛けに、広中に睨まれたが、話をする愛乃と、話を聞く俺と広中で、この形が調度いいだろう。
席に着くと、すぐに涼子さんが水とおしぼりを持ってきてくれる。ついでにブレンドコーヒーを注文して、適当にくつろぐ。
「…………」
「…………」
「…………」
程なくして、涼子さんがコーヒーを持ってきてくれるが、その間、誰も何も言わなかった。
人の目、主に涼子さんの目を気にしてというのもあるだろうが、どうやら、愛乃が言葉を選んでいるようで、何か言おうとこちらを見て、しかし止めて下を向くというのを、もう何度も繰り返している。
どうしたものかと、横目に広中の方を窺うと、同じくこちらの様子を窺っていた彼女と目が合った。
これは、俺にどうにかしろということなのか。
俺は砂糖とミルクをコーヒーに混ぜて、一口すする。
美味い。
まだ少し苦いが、その苦みの中に、ほのかに感じられる甘みが心地いい。
それを味わって、俺は小さく息を漏らす。
愛乃がピクリと肩を震わせる。俺がしびれを切らしたように思えただろうか。
「怪我とか大丈夫だったのか?」
そういえば、と、俺は切り出す。
昨日救急車で運ばれたきり、俺は何も聞いていない。膝を擦りむいたのは見たが、頭を打ったりしなかっただろうか。
「うん。膝の怪我と、あと、ちょっと打撲みたいになってたけど、他は特に何もないって。痕とかも残らないみたい」
「そうか」
少し安心した。
そうしたら、妙にのどが渇いていることに気付いた。自分で思っていたよりも、俺は愛乃のことが心配だったらしい。
俺はもう一口コーヒーを飲む。
「あの!」
今度は愛乃が口を開く。
「あのね、聞いて欲しいことが、あるの……」
どうやら、ようやく愛乃の決意が固まったらしい。
「信じてもらえるかわからないけど、私、未来が、見えるの……」
「そうか」
「驚かないんだね……」
「驚いてるさ。けど、愛乃の行動と、事故のことを考えると、そうなんじゃないかって思った」
「そっか……」
正直、愛乃の口から聞くまで、馬鹿げていると考えていた。しかし、どれだけ考えても、他に何も考えつかなかった。
「見えるって、どんな風に?」
それまで、黙って話を聞いていた広中が、口を開く。
彼女も、あまり驚いたようには見えない。やはり、俺と同じ考えに至っていたのだろう。
「えっと、自分で自由に見えるわけじゃないんだけど、目の前にザーってノイズがかかるみたいになって、で、見える景色が変わるの。見えるのは自分のことだったり、人のことだったり、あ、でも、私と全然関係ない人のことは見えないみたい」
「そう」
広中が相槌を打ち、何か考えるような素振りを見せる。
「それで、昨日は棗くんが車に轢かれるところが見えて、なんとかしなきゃって……」
「ちょっと待て!」
思いもよらない言葉を聞いて、俺はつい大声をあげてしまう。
何事かと、こちらを見ていたマスターと涼子さんに、軽く頭を下げて謝罪の意を示し、俺は愛乃の方へと向き直った。
「俺が轢かれた? あのときに?」
「う、うん。それが見えたから……」
現実に起きたことではなく、あくまで、未来視で見えたこと、ということが言いたいのだろう。しかし、そんなことは分かっている。
俺が驚いたのは、そういう未来があったということにだ。
愛乃が未来を予知していたのではないかとは思っていたが、それが俺の危機であることは予想していなかった。
考えてみれば、事故が起こったのは、俺の帰り道で、丁度俺たちが通りかかったときだった。愛乃があそこで待っていろと言わなかったら、そうなっていた可能性は十分にあった。
考えるだけでもゾッとする。
俺は椅子にもたれ掛かり、深く息を吐いた。
「それならそうと、先に言ってくれればよかったのに」
最初にそう言ってくれていれば、俺と広中も、あんなに反発することはなかった。
「それは……」
「言えば信じたの? あなたは」
口を濁す愛乃の代わりに、広中がそう言う。
「今は、実際に事故が起こったのを見た後だからそう言えるけど、先にそれを聞いて、あなたはそれを信じたの?」
広中に強い口調でそう言われて、俺は何も言えなかった。
確かにそうだ。
先に聞いていたとして、それを信じたとは言い切れない。未来が見える、なんて突拍子もない話を、手放しで信じられるほど、俺は愛乃のことを知らないのだから。
愛乃にしても同じことだろう。
俺が信じてくれる、と思えなかったから言わなかった。いや、言えなかったのか。
お互いに、そう出来るだけの信頼がなかった。早すぎたのだ。
「……悪かった」
「ううん、私も……」
愛乃に非はない。それなのに謝らせてしまった。
それがどうにも情けなくて、俺はまた深く息を吐いた。
「嫌に、なったよね……」
「「え?」」
不意に、愛乃が小さく声を漏らす。俺と広中は揃って聞き返した。
「こんなの、普通じゃないもん。嫌になったでしょ」
上擦った声で、愛乃はそう言う。顔は伏せていてわからないが、もしかしたら、泣いているのかも知れない。
さて、何と答えたものか。
これは俺の予想でしかないが、恐らく愛乃は、未来視のことで嫌だとか、変だとか言われた経験があるのだろう。
未来視で見えたことを伝えて、頭がおかしいと思われたか。あるいは、それが本当になって、気持ち悪いとでも言われたか。その両方かも知れない。
そういう経験が、彼女の中でトラウマになっているのだろう。
けど、俺は、
「俺は、感謝してるけどな」
「え?」
俺が思ったことをそのまま口にすると、今度は愛乃の方が聞き返してくる。
「愛乃が未来を見たから、俺は今こうしてるわけだろ。だから、ありがとな」
それが未来視という、普通ではない力によるものだとしても、愛乃が俺のことを助けてくれた、という事実には変わりない。
だから、何よりも先にその言葉が浮かんだ。
「でも、これからも、私は未来を見ると思う。いいことも、悪いことも。そんなことが続いたら、きっと、私のことが嫌になる」
「それは、愛乃の責任じゃないだろ。お前がそれを見ようが見まいが、未来はやって来るんだから」
「確かに、そうだけど」
どうにも歯切れが悪い。俺がいいと言っているのだから、いいのではないのか。
いや、何か違和感を感じる。どうも論点がずれているような。
「それに、悪いことが起こるって分かってるなら、今回みたいに回避できるかもしれない。まあ、三人寄らば文殊の知恵、ってこともあるしな」
違和感の正体は分からないが、俺は話を続ける。今は、愛乃に正面からぶつかるしかない
「三人……」
そういえば、まだ確認はとっていなかったか。まあ、聞かなくても分かるような気がしていたが。
「…………」
広中の方を窺うと、彼女はなんだか不機嫌そうな顔をしていた。もしかして、置いてけぼりにされて怒ってるのか?
広中は一口コーヒーを飲んで口を開く。
「愛乃」
「な、何?」
「一つだけ確認したいのだけど」
広中の言葉に、愛乃がゴクリと息を飲む。
「あなたは私たちと一緒に居たいの? 離れたいの?」
「私は……」
その先の言葉が、なかなか出てこない。
(ああ、そうか)
俺の中に、何かがストンと落ちてくる気がする。
愛乃は、どうも俺たちが彼女のことを嫌がると思っている。それは分かる。愛乃の苦悩は、想像に難くない。
しかし、愛乃自身が、俺たちとどうなりたいのか、それが見えてこない。
むしろ、愛乃の方が、俺たちを遠ざけたがっているようにも見える。
それが違和感の正体だった。
「一度しか言わないから、よく聞いて」
いつまでも口を開かない愛乃に耐えかねたのか、広中が口を挟む。
「私にとって、あなたは大切な友達だから、たったこれだけの理由で、私があなたから離れることはないわ。あなたが望む限り、私はあなたの側にいる」
「美空ん……」
広中の言葉を隣で聞きながら、俺は少し驚いていた。
広中がここまで雄弁に語るところを、俺は見たことがない。
鳥居なら知っているだろうか。
それとも、女子同士だからなのか。
「でも私、普通じゃないんだよ?」
「だから、それくらいのことで、私はあなたから離れる気は、あなたを手放す気は無い、って言ってるの」
なおも食い下がる愛乃に、広中が追い打ちをかける。
「それとも何? あなたは逆の立場だったら、もう私とは友達ではいてくれないの?」
「そんなことない!」
広中の言葉に、やや食い気味に愛乃が答える。
「そんなのあっても無くても、美空んは美空んだもん。私にとっても、大切な友達なんだから」
と、そこまで言って、愛乃が「あっ」と声を漏らす。
「そういうこと。私も、あなたと同じように思ってるのよ」
「うん……」
愛乃が両目をうるうると湿らせ、大粒の涙をこぼす。
「ごめん、ごめんね……」
「ちょ、ちょっと、泣くようなことじゃないじゃない」
泣きながら、何度も謝る愛乃に、慌てて広中はハンカチを取り出す。
「私も、美空んと、二人と一緒に居たい……」
「馬鹿ね。当り前じゃない」
身を乗り出して、愛乃の涙を拭う広中を見て、俺は思う。
二人が出会ったのは、高校入学以来、まだ一ヶ月と立っていない。
それでも、二人の間には、確かな何かがあるのだろう。
それが一方通行なのではないかと、不安になって、広中は不機嫌そうにしていたのかも知れない。
「……うぅ……ぐすっ……」
「もう」
甲斐甲斐しく愛乃の世話をする広中の隣で、少しいたたまれなくなって、俺はコーヒーを一口飲んだ。
「ごめんね」
どのくらいそうしていただろうか。
泣き止んだ愛乃が、俺にそう言う。
「ん? ああ、気にするなよ」
同じ席に泣いている女子がいるというのは、だいぶ精神的に来るものがあったが、別に気にすることではない。
「うん、ありがとう」
そう言って、愛乃は愛想笑いを浮かべる。俺に心配を掛けまいとしているのだろう。
「でも、ほんとにいいの?」
愛乃が念を押してくる。
「あんまりくどいと怒るぞ」
いや、広中はもう怒っているか。
というか、そんなに信用出来ないかね。
「まあ、未来が見えるなんて、確かに普通じゃないかも知れないけどさ。別に、それが愛乃を嫌う理由にはならないだろ」
「そう、かな?」
愛乃はどうも納得がいかないようだ。やはり、このことでトラウマがあるのかも知れない。
「さっきも言ったけど、そのおかげで、俺は助かってるわけだしな。じゃあ、その力はいいものだってことだろ?」
「そうとは、限らないと思うけど?」
俺の言葉を否定したのは広中だ。
確かに、いいものだと決めつけるのは、早計だったか。しかし、話の腰を折ってまで、言わなければいけないことだっただろうか。
「ともかく、そんなの使う人間次第だと、俺は思う。それで、俺は愛乃のことを、その力を悪用しないと思ってる。それじゃあ駄目か?」
「棗くん……」
それで愛乃は納得したようで、また「ありがとう」と言ってくれる。それがなんとも恥ずかしくなって、俺はまたコーヒーを口に含む。
「それで、今見てる未来はそれだけ?」
そう言ったのは広中だった。
「え?」
「事故のこと以外に、見た未来は無い? また何かあるのなら、私も手伝うけど」
「ああ、そうだな」
頭に疑問符を浮かべる愛乃に、広中が詳しく聞く。俺もそれに同意する。
確かに、愛乃は他にも未来を見ているのかも知れない。もしそれが悪い未来で、彼女がそれを何とかしようとしているのなら、俺もそれを手伝うことに異論はない。
「えっと、悪い未来は見てなくって、あとは、私と、美空んが教室で話してて、そこに、えっと、鳥居くんが教科書借りに来て、その鳥居くんを、棗くんが呼びに来てって、ふ、普通の、ことくらいかな」
「普通」ということを妙に強調したのが少し気になったが、まあ、ここに来て嘘を言う理由も思いつかないので、気にしないことにする。
「あ、最初に棗くんの名前を知ってたのも、それで見てたからなの。あの、それで間違えちゃったんだけど」
「ああ、そうか」
昨日は噂でとかなんとか言っていたか。
(ん?)
そうなると、俺のことをいい人だと言ったのも、噂ではなく、愛乃がその場でそう思ったということになるのか? 広中が俺の話をするとは思えないし……。
そう思うと、なんだか妙に照れ臭くなって来た。
他意はないと思う、思うのだが、いや、意識しすぎか。
とはいえ、何もないのなら、別にそれでいいか。
そう思ったのだが、広中が更に突っ込んで聞く。
「それって、いつのことなの?」
少し難しい顔をして、広中はそう聞く。何か気になることがあっただろうか。
「えっと、見た日のことなら、入学式の日だよ。未来のことなら、五月九日。日付が見えたから、確かだと思う」
「その未来には林田もいたのね?」
「う、うん」
「事故のことが見えたのは、昨日だったわよね?」
「うん」
「そう」
何度か問答を繰り返した後、広中が考え込む。
「何だよ?」
話が見えず、痺れを切らして、俺は広中を問いただす。
一瞬、広中に睨まれて、怯みはしたが、別に俺に文句は言わず、一度大きくため息を吐いて切り出した。
「時系列から考えると、少しおかしくない?」
「おかしい?」
広中の言っていることが理解出来ず、俺はそう聞き返す。
察しが悪い俺を一瞥して、広中は気だるげに続けた。
「昨日、愛乃は林田が事故に遭う未来を見た。けど、それより前に、更に未来の光景を見ていた。そこでは、林田は無事だった」
「あっ」
広中の説明に、愛乃が何かに気付いて声を漏らした。俺も広中の言いたいことに気付く。
「最初に見てた未来では、俺は事故に遭ってなかった?」
俺がそう言うと、広中がこくりと頷く。
「見えた未来が変わることって、あるのか?」
「う、うん、現に、事故のことは変わってるから」
「そういえば、そうか」
愛乃に確認を取ると、少し戸惑いながらそう答えた。
少し考えれば分かることだ。そうでなければ、俺は今こうしていない。
「でも、一ヶ月くらいのことなら、ほとんど変わったりしないよ。断言は出来ないけど、私も、特に行動を意識するようなことはなかったから」
「ふむ」
五月九日なら、丁度一ヶ月くらいか。
何をして、何をしなかったかなど、愛乃にも分からないのだろう。
とはいえ、唯一未来を知っていた彼女が、何もしていないと言うのなら、未来が変わったという可能性は少ないように思える。
「事故に遭っても、それ程ひどいことにはならなかった、とか……、いや……」
自分で言って、それは無いと考えていた。
どう考えてみても、無事でいられるスピードではなかったと思う。
「…………」
完全にお手上げ状態だった。そもそも、俺には判断材料が少な過ぎる。
このことに関して、一番見識があるのは愛乃なのだろうが、その彼女にも分からないようで、口元に手を当てて、首を傾げていた。
「例えば、なのだけど……」
問題を提起した広中自身が、自分の考えを口にする。
「愛乃が林田を助けることまで含めて、最初に見た未来には含まれていた、ということは無い?」
「う~ん」
広中に言われて、何やら考え込む愛乃。
恐らく、今までにも同じようなことが無かったか、考えているのではないだろうか。
「あっ、でも……」
しばらく考えた後に、愛乃が声を上げた。
「それなら、説明がつくことがあるかも」
「何?」
広中が更に突っ込んで聞く。
「えっと、未来でも、棗くんのこと、名前で呼んでたから。その、普段の私なら、絶対にないことだから」
「なるほど」
俺の名前を間違えることも、含まれていたのではないか、ということか。
そういえば、愛乃は男子が苦手だと言っていた。
そんな彼女なら、普通は俺のことを、名前では呼ばないのかも知れない。
(それはそれで、寂しい気もするな)
しかし、それらしい仮説を聞いても、だからどうということは無く、ただ、そんなこともあるかと、思っただけだった。
聞いた本人の広中も、それ以上何かを言いはしなかった。単に矛盾が気になっただけなのだろう。
当事者である愛乃は、何か安心したように見えた。何を思っていたかは分からないが、愛乃と俺たちとの間に、意識の差を感じて、俺もそれ以上は何も聞けなかった。
「やあやあ、皆さんお揃いで」
その時、こちらの席に近づいて、おちゃらけた口調で、声を掛けてくる者がいた。
「集まるんなら、僕にも声を掛けてくれよ。寂しいじゃないか」
「よう、鳥居」
近づいてきたのは鳥居だった。厚手のトレーナーと七分丈のパンツ姿だ。
「えっと、いいかな?」
「あ、う、うん」
鳥居は愛乃に確認を取って、その隣に腰掛ける。
「ありがと。僕は鳥居翔。二人とは中学からの付き合いで、特に林田とは、同じサッカー部だった。まあ、紹介すべきことはそのくらいかな」
席に座ると、鳥居はそう自己紹介する。
「えっと、野々山愛乃、です。えと、他に紹介すべきことは……」
言いながら、愛乃はちらちらとこちらを見てくる。
鳥居のことを警戒しているようにも見えるが、少し違う。
ああ、そうか。未来視のことを話すべきか迷っているのかも知れない。
鳥居のことを信用していない訳ではないが、愛乃が言いたくないのなら、別に言う必要は無い。
俺は小さく首を振って、愛乃に合図を送る。
「えっと、美空んとは同じクラスで、あの、仲良くさせてもらってます」
そう言って、愛乃は鳥居にお辞儀をする。
なんか、結婚相手の両親に挨拶をしているみたいだな。
「あれ? 美空んって呼んでるの?」
どうやら、広中のことを「美空ん」と呼んでいたことに、鳥居も引っかかったようだ。
「う、うん」
「へえ」
鳥居は興味深そうに相槌を打って、広中の方を見る。
「いいでしょ、別に」
鳥居の視線に、広中が照れたように俯く。
「ああ、君がいいんならいいんだ。そうかそうか……」
鳥居は感慨深そうに、何度も頷く。
まあ、意外だろうな。俺も昨日、愛乃から聞いて、驚いたくらいだ。
中学の頃、広中のことをあだ名で呼んでいるなんて、同じ女子でも見たことは無い。「広中さん」とか、せいぜいが「美空ちゃん」とか。
それは、広中自身が、そうさせない雰囲気を出していたからだ。
友達であっても、距離があるというか、俺や鳥居でも、どう思ってくれているのか。
しかし、こうして愛乃のような友達が出来たことは、喜ぶべきことであろう。
「ふんっ」と鼻を鳴らして、広中はすねたようにそっぽを向いた。
鳥居が涼子さんを呼んで、コーヒーを頼む。
「それにしても、よくここにいるって分かったな」
一段落したところで、俺は鳥居にそう尋ねる。
今日ここに来ていることは、鳥居には言っていない。話の内容から察するに、それは広中も同じだろう。家族にも言っていないので、鳥居がこのことを知る術は無かったと思うのだが。
「いや、たまたまだよ。たまたまこの店に寄ったら、たまたま君たちがここに居た」
「そうか」
「何か、僕に聞かれたらまずい話でもしてたかい?」
そういう答え辛い質問を、何のためらいもなく聞いてくる。もっとも、そんな気遣いが必要な仲でも無いが。
「ああ、けど、もう終わった」
「そっか。じゃあ、よかった」
鳥居は、秘密にしていることを気にかけた様子は無い。基本的に、さっぱりした性格なのだ。
そうこうしていると、涼子さんが鳥居が頼んでいたコーヒーを持ってきてくれる。
鳥居はそれをブラックのまま口にして、一言「美味い」と言った。
「しかし、昨日は興味ないみたいなこと言ってたのに、随分手が早いじゃないか?」
少しして、鳥居がそう聞いてくる。
「何がだ?」
「野々山さんのこと。昨日は顔も名前も知らなかったくせにさ」
「いいだろ、別に」
面倒なことになった。
正直、鳥居にだけは知られたくなかった。昨日の話を考えれば、愛乃といることで鳥居が騒ぐことは、目に見えていたからだ。
「いやいや、人付き合いの苦手な林田が、女子と仲がいいだけでも驚きなのに、よりによって野々山さんだよ」
「よりによって……」
愛乃が唖然として、鳥居の言葉を繰り返す。
「ああ、ごめん、決して悪い意味じゃないんだ。まあ、それくらい意外な相手ってことさ」
「はあ……」
慌てて取り繕う鳥居だったが、愛乃はまだ引っ掛かりがあるのか、よくわからないような顔をしていた。
「別に、お前が思っているようなことは何もないぞ」
鳥居をフォローするつもりは無いが、話の方向を元に戻す。
こいつの言いたいことは分かる。
確かに、俺は人付き合いが得意な方ではないし、女子とも特に用がなければ、こちらから話すことは無い。そんな俺が、男子の人気学年一位(鳥居調べ)という愛乃と仲良くなった。鳥居からすれば、随分面白いだろう。
「愛乃とは、図書室でちょっと手伝っただけで、まあ、他にもいろいろあったが、お前から話を聞いたからとか、そういうことは全く無い」
「その『いろいろ』が気になるんだけど、まあいいや。言いたくないんなら聞かないよ」
そのあたり、あっさりと引き下がってくれるところが、正直助かる。
異例なことがあったことは認める。愛乃の話を聞く限り、未来視のことが、きっかけの一つになったことは否めないし、今日その秘密を知ったことで、結果として、距離が縮まったと言えなくもない。
しかし、それが無かったとしても、愛乃とは仲良くやっていけそうな、手応えのようなものを、俺は感じていた。
愛乃自身、人当たりはいい方だと思うし、きっかけさえあれば、誰とでもすぐに仲良くなってしまうだろう。別に、俺だけが特別なわけではない。
「あの、棗くん」
愛乃が横から口を挟む。
「私の話って、何?」
彼女にそう聞かれて、俺は頭が痛くなるような思いがした。
「ん? ああ、それは、だな……」
「あ、男の子が苦手っていう話?」
そう、昨日はそう言って誤魔化したのだが、俺が愛乃について聞いていたのはそれだけじゃない。
「ああ、それもだけど、男子に人気があるっていう話。林田から聞いてた?」
「え? あれ? ううん……」
愛乃がきょとんとして、首を横に振る。
話の流れで、俺から聞いていると思っていたのだろう。鳥居はそのことに、意外そうな顔をしたものの、すぐに話を進めた。
「野々山さんは、僕たち一年男子の間では、結構人気あるんだよ。だから、林田もお近付きになりたかったんじゃないかと思ってね」
「そうなの?」
鳥居に言われて、今度は俺の方に、愛乃は質問を投げかけた。
「だから、違うって言ってるだろ」
いい加減うんざりとして、俺はそう答える。
「そもそも、入学してまだ一ヶ月も経っていないんだぞ。そのデータも当てにできるかどうか」
正直、愛乃のことは、かなりかわいいと思う。しかし、人気一位というのはどうにも大げさに思える。
広中だって、愛乃とは別のタイプだが、かなりの美人だ。昨日鳥居が挙げた中に入っていないことに、違和感を覚えるほどには。
いや、人気というからには、容姿だけではないのか。
こう言っては何だが、広中は少々性格に難があるからな。悪い奴ではないのだが、向こうから心を開いてくれるのに、少し時間がかかり過ぎるのと、物言いのキツさから、普通は二・三度話しかけただけで、心が折れてしまう。
比べて愛乃は、男子に苦手意識があるせいか、すこしおどおどした印象を覚えるが、話してみると普通にいい子だし、人気がありそうというのも分からなくはないか。
「野々山さんはどうだい? 何か心当たりとか無いかい?」
「心当たり?」
「うん。例えば、告白されたとか、そういうエピソードは?」
「えっと、何度か」
「ふむ」
愛乃の回答を受けて、鳥居は何か考え込むような仕草をする。
何度か、か。まあ、一度や二度ではなさそうだが、一度もそういう経験のない俺からすれば、人気があることの根拠としては、十分過ぎるくらいだ。
「翔も、愛乃に興味があるの?」
不意に、広中がそう尋ねる。
「ん? まあ、たしかに興味はあるけどね。心配しなくても、僕は美空一筋だよ」
鳥居にそう言われて、広中は「ふんっ」と鼻を鳴らして、そっぽを向く。
鳥居は、中学の頃から、広中に好意を寄せている。
本人もそれを隠すつもりは無いらしく、ことある毎にアプローチを掛けているのだが、毎回すげなくあしらわれている。
広中の方も満更ではなさそうなのだが、本当はどう思っているのか、俺は聞いたことが無い。
そんな二人の様子を、愛乃が興味深そうに見ていた。機会があれば、今度教えてやろう。
「ところで、みんな、明日の予定って、どうなってるかな?」
話が一段落したところで、鳥居がそんなことを言い出した。
「明日は、私は予定があるから」
そう言った広中に対して、「そっか」と残念そうに、鳥居は声を漏らした。しかし、鳥居はすぐに表情を明るく切り替えて、口を開く。
「じゃあ、来週の日曜日はどうかな?」
「まあ、今のところ、予定は無いけれど」
「俺も、別に予定は無いな」
広中が言うのに合わせて、俺もそう言う。
「うん。林田はそうだと思っていたよ」
鳥居は当たり前だ、と言うように、声をあげて笑う。
いや、今回はたまたまそうだっただけで、毎回そうだという訳ではないのだが。もっとも、予定があることが稀なのも事実だが。
言うだけ無駄なので黙っていると、鳥居は俺から愛乃の方へ視線を向けた。
「野々山さんは、どうかな?」
「え? 私も?」
愛乃は予想外だったようで、そう聞き返す。
「もちろん、美空と、まあ、林田の友達だからね。僕も友達になりたいな、って思ったんだけど、駄目かな?」
「え? えっと、その、私からも、お願いします」
律儀にそう言って、愛乃は頭を下げる。それを確認して「じゃあ、よろしく」と、鳥居も頭を下げた。そして、互いにお辞儀を繰り返す。
すでに息が合っているようにも見えるが、逆に息が合っていないようにも見える。
「それで、予定の方はどうかな?」
「あ、うん、私も、大丈夫だよ」
「よし、イエーイ」
愛乃の答えを聞いた鳥居は、ハイタッチを求めて手を挙げる。愛乃は少し戸惑いながらも、「い、イエーイ」と、それに応じた。
鳥居が人に取り入るのが上手いのか、それとも、愛乃が受け入れるのが早いのか、今日初めて話したとは思えないほど、仲良くなってしまった。
「それで、何なんだよ?」
一向に話が進まないのにしびれを切らして、俺はそう尋ねる。
「ん? ああ、今年も、花見をしようよ」
鳥居の言葉を聞いて、俺は「ああ」と思い出した。
今年も、この季節が来たか。しかし、
「花見って……」
言いながら、俺は窓の外に目を向ける。それに釣られて、他の三人も同じように、窓の外を見る。
そこからは駅前の広場を見渡すことが出来るが、その周りに植えられた桜の木は、もうほとんど花を散らせてしまっている。
ここだけではない。ここに来る途中にも、何度となく桜の木を目にしたが、どれも似たようなものだった。おそらく、週末までは持たないだろう。
「いつも思うんだが、もっと早くにやろうとは思わないのか?」
鳥居の企画する花見は、いつも桜の終わる時期に行われる。
最初にそれをやろうと言い出したのは、中一のとき。まだ出会って間もない俺と広中を誘って、ほとんどなし崩し的に、桜の見れない花見を行った。
花見と言うのが、辞書に何と書いてあるのかは知らないのが、桜が咲いていないのなら、花見とは言えない気がする。
鳥居はそれを見て困ったような顔をするが、それも一瞬のことで、すぐにいつものにやけ顔に戻った。
「そうなんだよね。最初がそうだったからかな。いつもこの時期になると思い出すんだ」
特に悪びれる様子もなく、鳥居はそう言った。
鳥居にとっては、最初の一回も、その後の二回も、そして今回も、突然の思い付き程度のことでしかないのだろう。だから、桜も終わる直前になってからでなければ思い出せないのだ。
「あの、それなら……」
鳥居のせいで落ち込んでいた空気の中、口を開いたのは愛乃だった。
「うちの近くの公園はどうかな? 今もまだ、結構桜咲いてて、週末まで咲いてると思うから」
それを聞いて、鳥居はパチンと指を鳴らした。
「よし、じゃあそこで決まりだ」
「ふぇっ? そんな簡単でいいの?」
特に考えることもせずに決めてしまう鳥居に、愛乃は戸惑いの表情を見せ、確認するように、俺と広中を交互に見た。
鳥居の勝手には慣れている俺は、「問題ない」と手を振り、それを見た広中もコクリと頷いた。
それでも、愛乃は心配そうな顔をしていたが、既に、鳥居の心は決まってしまったらしかった。
「桜が咲いているのなら、それ以上の条件は無いさ」
桜も無いのに花見をしようと言っていた男が、何を言うか。しかし、言うだけ無駄なので、何も言わないでおく。
「野々山さんって、麻野中出身だったよね。じゃあ、そっちの方かな?」
「うん、そうだけど。何で知ってるの?」
「ああ、友達に、同じ麻野中の奴がいるからね。藤原って、知ってるだろ?」
「うん、二・三年のとき、同じクラスだったよ」
藤原は、俺と鳥居と同じクラスの男子だ。鳥居と同じか、それ以上のお調子者で、二人して絡んでくると、騒がしいことこの上ない。
鳥居が愛乃のことを聞いたのも、藤原からだろうが、愛乃からそれ以上情報が出てこないところを見ると、そう親しいわけではないらしい。
「よし、じゃあ、詳しいことは、また連絡するよ」
一応、予定が空いているというだけで、誰も行くとは言っていないのだが、鳥居の中ではそれは同じことなのだろう。もうすっかり決まったつもりで話を進めた。
「じゃあ、私はもう帰るけど、愛乃はどうするの?」
「あ、えと、じゃあ、私も……」
広中が席を立ち、愛乃もそれに続く。
「あ、じゃあ、僕たちも行こうか」
女子二人に続いて、俺と鳥居も席を立つ。
しかし、鳥居の言い方では、俺たちが一緒に行動するように聞こえるのだが、俺の気のせいだろうか。
「ありがとうございました~」
会計を終えて、涼子さんに見送られながら、店の外に出る。
「じゃあ、また……」
「ああ、またな」
「またね、美空」
広中が言うのに合わせて、俺と鳥居は手を挙げて別れの挨拶を交わした。
「愛乃、少し、二人で話せるかしら」
別れ際に、広中が愛乃に呼びかける。
「うん、いいけど、ちょっと待ってて」
そう言って、愛乃は俺と鳥居の方へ駆け寄る。
「あの、棗くん、ありがとね。ほんとに」
「いや、いいって」
そう何度も礼を言われるようなことではないと思う。いや、それだけ愛乃にとって、重要なことだということか。
まだ俺は、愛乃のことを何も知らないのだと、改めて痛感した。
「じゃあ、また月曜日に、えっと、鳥居くんも」
「ああ」
「うん、またね」
挨拶を交わして、愛乃は広中とともに、駅の方へと去っていく。
その後ろ姿を見送って、鳥居が口を開いた。
「いい子だね。野々山さん」
「そうだな」
「美空とも、上手くやってるみたいだし」
「ああ」
鳥居の言葉にそのまま同意する。
実は、広中との付き合い方について、中学の卒業前に、鳥居と話したことがあった。
広中に同性の友達がいないことを、鳥居が気にかけてのことだった。
「美空は気にしてないかも知れないけど、いざというとき頼れる相手が僕たちだけ、っていう状態は、よくないと思うんだ。女の子同士じゃないと、話し辛いこともあると思うしさ」
たしか鳥居はそう言っていた。
それに関しては、俺も同じように思っていた。
広中は、もともと誰かに頼る方ではない。付き合いだけは長い俺だが、頼られたことは無い。誰かに頼るところすら、俺は見たことが無かった。
だからといって、何でもできるという訳ではない。広中だって人間だ。
何かあったとき、頼れる者がいた方がいい。俺や鳥居で出来ることがあれば、協力は惜しまないが、女子同士の方が都合のいいこともあるだろう。
「実はさ、高校に入ったら、いい感じの女の子を、美空に紹介するつもりだったんだ。けど、そんなことするまでもなく、入学早々、野々山さんと友達になってて、ちょっと驚いたよ。まあ、それでも心配で、僕なりに野々山さんのことを調べもしたけどね」
ああ、それで女子の人気ランキングみたいなものを作っていたのか。
俺の中で、鳥居の行動が繋がる。
あのランキングは、愛乃のことを調べるのと、広中の友達探しの副産物か、いや、調査のカモフラージュとしてのランキングというのが濃厚か。鳥居は頭は悪くは無いが、不器用だからな。
「まあ、ともかく、これで一安心かな」
本当に、安心した、という表情で、鳥居が言う。
「『美空ん』は、さすがに驚いたけどね」
そう言って、鳥居は笑った。
それがとても嬉しそうに見えたのは、広中と愛乃のことが、自分の予想を超えて、いい結果になったからだろう。
「そうだな」と、俺も同意する。今日の二人を見ていても、いい関係であることは、誰の目にも明らかだろう。
と、それに対して、「ははっ」と、声を上げて鳥居に笑われてしまった。
一体何がそんなに面白かったのか、と思っていると、俺がそれを聞く前に、鳥居の方から口を開いた。
「呼び名に関しては、林田たちの方にも驚かされたよ」
鳥居の言葉に、少し面白くないような感じがする。
「まさか、君らまで、名前で呼び合ってるとは思わなかったよ」
「ほっとけよ」
鳥居に面白がられているのが、どうにも気に入らない。もっと普通に聞いてくれれば、普通に答えるのだが。いや、俺が意識し過ぎなのか。愛乃とのことを茶化されるのに、過敏になり過ぎているのかも知れない。
しかし、目聡い。今日、鳥居の前で、互いの名前を呼んだことなど、そう何度も無かったと思うのだが。
「別に、面白いことは何もないぞ。切っ掛けは、互いの名前の間違いだしな」
それだけで、鳥居は事情を察したようで、面白くなさそうに、「ふうん」と声を漏らす。
鳥居自身、俺に対して「苗字みたいな名前だね」とのたまったことがあるし、それに、俺が人の名前を覚えるのが苦手だ、ということも知っている。
同じく苗字のような名前の愛乃との間で何があったのか、想像は容易いだろう。
「なんか、林田だから起きたイベントなんだろうけど、それ程特別なイベントでもないよね。まあ、これからに期待かな」
別に、鳥居の期待するようなことは、何も起きないと思うのだが、言うだけ無駄なので何も言わず、俺は話題を変える。
「で、どうする? ゲーセンでも行くか?」
「ん? そうだね。久々に峠を攻めるかい?」
そう言って、鳥居はハンドルを切るような仕草をする。
鳥居は、峠の走り屋を描いた漫画と、それを基にしたレーシングゲームに凝っていて、
俺とゲームセンターに行くと、よく誘ってくる。俺はそれほど得意ではないのだが、付き合っている内に、それなりには出来るようになった。
実のところ、俺は未だに鳥居に勝ったことは無いが。
「いいぞ。今日は勝てる気がする」
冗談めかしてそう言うと、鳥居はまたも声に出して笑う。
「ははっ、そう簡単に勝たせてあげるつもりはないけど、まあ、期待しておくよ」
そう言い合って、俺たちはその場を後にした。
☆ ★ ☆
夜。ご飯を食べて、勉強して、お風呂に入って、明日の準備をしながら、この二日間のことを振り返る。
昨日今日といろんなことがあった。
ちょっと考えられないくらい濃密で、正直、かなり疲れた。出来るなら、もっと小分けにして欲しい。
それでも、今日はいい一日だった。それは間違いない。
棗くんと美空ん。私の秘密のことを理解してくれる友達が二人も出来た。
「ありがとね」
棗くんたちと別れたあと、駅の構内で美空んにそう言われた。
何にお礼を言われたのか分からなくて、思わず聞き返すと、美空んは少し恥ずかし気に、こう続けた。
「林田のこと、その力のおかげで助かったんでしょ? あんな男でも、一応、友達だから、ありがと……」
後半は不服そうに、ムスッとした表情で、美空んは言った。
それがなんだか可笑しくて笑うと、それに怒った美空んに叩かれそうになった。
こうして、一日に二人も、自分のことを理解してくれる友達が出来たのは、とても幸運で嬉しいことだった。
今まで、私自身隠そうとしてきたこともあるが、話しても大丈夫、また、聞いて欲しいと思えたのは、今日が初めてだったのだ。
もちろん、誰にでも話せるという訳ではないが、そういう気持ちに変化を与えてくれたのは、他ならぬあの二人だろう。
それから鳥居くん。
二人の友達だからと言って、未来視のことを話せるかと言うと、そうではない。悪い人ではないとは思うけど、私自身、今日初めて話をしたのだ。正直、まだ心を許せていないところはあった。
今週末、お花見をするのだし、これから先、仲良くなるチャンスはいくらでもある。その上で聞いて欲しいと思えたのなら、そのとき話せばいい。
これが今の私の精一杯だ。
花見といえば、今日の帰りに、ちょっと気になって件の公園を見に行ったのだが、私の考えていた通り、まだ桜が結構咲いていた。あの分なら、週末まで残っているだろう。
と、そのときだった。
突然、視界がブレた。
視界にノイズが掛かり、自室の風景から別の風景へと切り替わる。
次の瞬間、私は屋外にいた。
空はまだ明るいが、少し陰り始めている。
その場所には見覚えがある。今日も学校帰りに見てきたところだ。
まさに、週末に花見をしようと約束した、あの公園だった。
私は一本の桜の木の下に腰掛けていた。
花はまだ咲いている。今日見たときよりも散っているが、まだ見れる程度には残っていた。
そして、そこに腰掛けているのは私だけではなかった。
「いやー、それにしても、やっぱり花見ってのはいいもんだね」
「まともに花を見たのは、今回が初だけどな」
「まあ、翔にとっては、こうやって集まるのが目的でしょうから、それは問題では無いんでしょうけど」
「ははっ、さすが美空。僕のことをよく分かってるね」
そう言いあうのは、鳥居くんと棗くん、それから美空んの三人だった。
桜の木の下にレジャーシートを広げ、お菓子とジュースを囲んで四人で団らんしている。
どうやら、今見ているのは今週の日曜日、花見のときの様子らしい。
だとしたら、長居は無用だ。桜が咲いていることは確認できたのはよかったが、これでは当日の楽しみが減ってしまう。
私はそっと目を閉じる。その瞬間だった。
「きゃああああああ!」
突然聞こえた悲鳴に、私は再び未来に意識を戻した。
四人ともその悲鳴が聞こえた方へ顔を向ける。悲鳴が聞こえたのは私の後ろ側。周囲の人も何事かと、次々と同じ方向を振り返る。
その視線が集まるところ、公園の入り口付近で起きていた異変を、私の目が捉える。
蹲る一人の女性と、その傍らにたたずむ一人の男性。
女性はお腹を押さえ、苦しそうに呻いている。そして、その足元に敷き詰められたタイルが、赤く染まっているのを見て、私は目を疑った。
「え?」
私の意識と、私の口から、同時にそう声が漏れた。
血だ。
それを認識した瞬間、私の頭の中はパニックになった。
何で?
どうして?
何?
何?
わからない。
何で?
何で?
何で?
動揺しながらも、その原因を突き止める。
女性の側に立っていた男――迷彩柄のパーカーのフードを目深に被っているので、はっきりとは分からないが、体格が棗くんと同じくらいなのと、フードから無精ひげが覗いていたので、そう判断した――の右手に目をやる。
そこに握られていたのはナイフだ。女性が流すのと同じ、赤い血が刃から滴り落ちていた。
「あ、ああ……」
男がそう声を漏らす。どうやら、男の方も動揺しているらしい。脅しのつもりだったのか、それとも、今更ながらに後悔しているのか。
その男の焦点の合っていない瞳がこちらを向いたとき、もう一度ノイズが掛かった。