第二話
私は軽いパニック状態になっていた。
(はあ~、びっくりした~)
まさか、あんな所で棗くんと会うだなんて、思いもしなかったのだ。
最初に彼の顔を見たとき、私の中であの感覚が蘇った。
未来の私が感じていたドキドキだ。
今でも、思い出せば、私の心臓がはち切れんばかりの速度で、心拍を刻む。
(――落ち着け。これは未来の私のものだ。私のものじゃない――)
胸に手を当てて、自分に言い聞かせる。
未来の私がそうだったからといって、今の私までもが、棗くんのことを好きになる必要なんて、どこにもないのだ。
(っていうか、男の子のことを名前で呼ぶなんて、どうしちゃったんだろう、未来の私は)
今までであれば、男子のことを名前で呼ぶなどということは、ありえないことだった。
今日が四月二二日なので、二週間ちょっとで、そこまで仲良くなったということだろうか。
確かに、棗くんは優しい。下校途中、特に話すようなことがなく、棗くんの少し後ろを付いて歩いていたのだが、度々振り返って、私がちゃんと付いて来ているか、確認してくれていた。
未来の自分が好きになったのも、そういうところなのかも知れない。
恋をすると人は変わる、と聞いたことがあるが、ちょっと変わり過ぎではないだろうか。
一度、大きく息を吐いて、私は心拍を落ち着かせる。
「どうした?」
と、そんな私を心配してか、棗くんが声をかけてくれる。
(ほら、優しいじゃん。自分ではそんなことはないみたいなことを言って置いて、細かいところでちゃんと優しいじゃん!)
優しくされる度にドキドキが強くなるから困るのだが、そんなことを棗くんに言う訳にもいかないから、自分で何とかするしかなかった。
「ううん、なんでもない」
何とか心拍を間に合わせて、笑って見せる。
それだけで、棗はそれ以上の追及はしなかった。とりあえず、誤魔化せたらしい。
今、私たちは帰りの電車に揺られている。
棗くんとは、途中まで帰り道が一緒で、私の方が、一駅分長く電車に乗るので、そこまでは一緒に帰ろう、ということになったのだった。
電車の中は下校中の学生でいっぱいで、席は空いていない。仕方なく吊り革を掴んで、二人並んで立っていた。
会話はない。
棗くんはあまり喋る方ではなく、沈黙を気にしないタイプらしかった。
美空んもそうなのだが、対して私はそうではなく、この沈黙が耐えられずにいた。
「棗くんは、彼女、とかいるの?」
言って、自分でもびっくりする。
何か話さなくてはと思っていたが、こんなことを聞いてどうするのか。
(そりゃあ、好きな人に彼女がいるんなら、諦めるしかないのかも知れないけど。いや、別に好きとか、そういうんじゃなくて、単純に気になっただけっていうか、いやいや、何を考えてるんだか)
慌てて訂正しようかとも思ったが、しかし、それを気にした様子もなく、棗くんは口を開いた。
「別にいないけど」
「そう、なんだ……」
いないと聞いて、なぜか少し安心する。だからどう、という訳ではないが。
「じゃあ、好きな人、とかは?」
どうしてそんなことを聞いてしまうのか、自分でも呆れてしまうが、歯止めがきかない。
「いや、それもいないな」
そして、また少し安心する。
すると、私がホッと胸を撫で下ろすのと同時に、棗くんがため息を吐いた。「まったく」などと声も漏らしたりもする。
「どうしたの?」
それが気になって尋ねると、棗くんはもう一度大きくため息を吐いて、うんざりしたように口を開く。
「俺の友達、いや、知り合い、顔見知りに、鳥居っていうのがいるんだが」
関係がどんどん希薄になっていく。
鳥居くんのことは、私も知っていた。
一度、未来で見ているのと、よく、美空んと話しているところを見たことがある。もっとも、私自身は言葉を交わしたことはなく、どういう人物なのかはよく知らないが。
「そいつも、愛乃も、どうして恋バナをしたがるんだ? 高校生ってのはそんなに恋愛せにゃならんのか?」
「あはは……」
こういう話題は苦手だったようだ。
自分で振っておいてなんだが、愛乃もこの手の話題は苦手だった。好意の裏返しと分かっても、恋愛の対象とは考えることが出来ない。別に、相手が女子ならどう、という訳でも無いが。
しかし、私はそれに関する一つの答えを持っていた。
「駄目じゃないけど、でも、ちょっと憧れるかな。少女漫画の主人公とか、キラキラして見えるから」
恋をすると人は変わるとか、綺麗になるとか、そういうことだろうと、私は思う。そうなりたいという気持ちが、私にはあるのだ。
「それに、恋愛に限らず、充実した高校生活を送るなら、人との関わりは外せないんじゃないかな?」
それだけじゃないだろうが、それが一番の近道な気がする。
勉強や部活ももちろん大事だけど、友達と話したり、遊んだり、そして、いつかは好きな男の子と――。いや、まあ、そういうのも一つの形だということで。
「そういうもんかね?」
「棗くんだって、えっと、鳥居くんといるの、嫌じゃないんでしょ?」
棗くんは何だかよくわからない言い方をしていたけど、そういう言い方が出来るのが、かえって仲のいい証に思えた。
「まあ、そうかもな……」
どこか腑に落ちないようで、何やらいろいろ考えるようにしてから、うん、と深く頷いた。余程、鳥居くんとの仲を認めたくないらしい。
それともう一つ、チラリと私の方を見て、こちらは特に悩む様子も見せずに言う。
「愛乃も同じだからな」
「え?」
棗くんが何を言いたいのか分からず、私は質問を返す。
「えっと、単なる顔見知りってこと?」
「いや、たしかにまだ知り合ってばかりではあるけどな……」
私の言葉に笑いを堪えきれず、棗くんは吹き出してしまう。
「愛乃も、一緒にいて嫌な相手じゃない、ってこと」
「そう、なんだ……」
何のためらいも恥ずかしげもなく、棗くんはそんなことを言う。
あまりにも素直な言葉を向けられ、逆に私の方が恥ずかしくなってしまった。
「棗くん」
「ん?」
「あの、あんまりそういうこと、女の子に言わない方がいいよ」
「そういうことって?」
「えっと、一緒にいてもいいとか、そういうこと」
下手にそんなこと言われると、うっかり落ちてしまいそうだ。
私が言わんとしていることを、棗くんも理解したようで、今更ながら、恥ずかしげに頬をぽりぽりと掻く。
別に悪いことをしている訳でも無いので、強く咎める訳にもいかず、私は行き場のない感情を飛ばすように、あさっての方を見る。
「まあ、なんだ。愛乃も、俺の大事な友達だってことだよ。それだけだ」
「う、うん、そうだよね……」
取り繕うように棗はそう付け加える。
友達。それだけで何も間違っていないはずなのだが、少しだけ残念に思ってしまうのは、私が未来の自分の感情に、引っ張られているからだろう。
一度、小さく深呼吸をして、愛乃は心を落ち着かせる。
電車が停車駅で停車し、乗客を入れ替えてまた発車する。次の駅で棗くんとはさようならだ。
「菱山までってことは、中学は菱山中?」
「ん? ああ、そうだけど」
「じゃあ、美空ん、広中美空って子、知ってる?」
入学から二週間、美空んは私にとって、なくてはならない存在になっていた。
話すのはほとんど私の方だったが、遊びに誘えば付き合ってくれたし、相談に乗ってもらうこともあったし、課題も手伝って貰ったか。
たしか入学式の日、美空んは菱山中の出身だと言っていた。
「ああ、知ってる。っていうか、小中九年間、ずっと同じクラスだった」
思い出したくないものを思い出した、というような顔をして、棗くんは言う。
そこに一抹の不安を抱えつつ、私は思わず尋ねた。
「仲、良くないの?」
すると、棗くんは私に心配かけまいとしたのか、誤魔化すように笑みを作って言った。
「いや、仲が悪い訳じゃない、と思うけど、なんていうかな……」
どうにもはっきりしない。
もしかしたら、美空んの友達である、私のことを気遣っているのかも知れない。
そこで、私の方から、言葉を促してみることにする。
「美空んは、悪い子じゃないよ?」
「美空ん?」
思わぬところで言葉を返され、少し戸惑った。
「うん、美空ちゃん、だから美空ん。変かな?」
「変、っていうか、意外、かな。広中が、そんなふうに人に呼ばせるなんて」
そういえば、最初に美空んをそう呼んだときも、困ったようにしてたっけ。
「嫌だったのかな」
もしそうなら悪いことをしてしまった。
そう思って肩を落とすが、棗くんはすかさず訂正を入れた。
「それはないんじゃないか。嫌なら嫌って、はっきり言う奴だし、それを言わないってことは、そうじゃないってことだよ」
「そう、かな?」
「ああ、口数は少ないから、わかんないかも知れないけど、気にする必要はないとおもうぞ」
棗くんにそう言われて、私はホッとする。
同時に、少し考えも落ち着いた。
棗くんも、美空んのことを、私と同じように思っていたのだ。やはり、一緒にいた時間の差だろうか、棗くんの方が、美空んのことを分かっているのだろう。
と、話が逸れていることに気付き、慌てて修正を図る。
「えっと、だから、その、美空んは――」
言いかけて、やめる。
てっきり、棗くんは美空んを嫌っている、と私は思っていた。
しかし、棗くんは美空んの人となりを私以上に分かっているようだし、また、嫌っている風でもなかった。
ならば、どうして、あんな言い方をしたのだろうか。
「別に、広中のことが嫌いな訳じゃないよ」
私が何を言おうとしていたのか、わかったのだろう、少し経って、棗くんは口を開いた。
「どっちかって言うと、向こうが俺のことを嫌ってるんだ」
それっきり、何も言うつもりもないのか、棗くんは口を閉ざしてしまった。
だから、私も何も聞けずにいた。
二人の間で、何があったのかは気になるが、言いたくないのなら、聞くべきではないと思ったのだ。
丁度、電車が菱山駅へと着くところだった。
「じゃあ、俺はここで」
そう言って、棗くんは電車を降りる。
「うん、じゃあ、また」
私も手を振って挨拶を返した。
少し名残惜しく思いながらも、私は電車を降りる棗くんの後ろ姿を見送る。
と、そのときだった。
視界がブレる。ノイズがかかる。
次の瞬間、最初に私の視界に飛び込んできたのは、さっきと同じ、棗くんの後ろ姿だった。
しかし、その場所は駅ではなく、どこかの住宅街だった。
空はまだ明るいが、さっき見たときより、太陽は西に傾いている。
人通りは余り多くない住宅街。車道も余り広くなく、普通車がギリギリすれ違うことが可能なくらいだ。
その右側を歩く棗くんの後ろ姿を、私はただただ見つめていた。
自分の未来を見ることの方が多いが、今回のように他人の未来を見ることもあった。こういうときの私は、未来の自分の体を借りていないので、ある程度行動に自由がきく。
と言っても、実体はないので、触れたり声を掛けたりは出来ないのだが。
視界を動かすと、車道とは反対側に、小さな公園が見えた。
ブランコや、ジャングルジムにくっ付いた滑り台などの遊具と、それで遊ぶ子どもたち、その中心に、鉄柱に時計を付けただけの、簡易な時計塔が設置されていた。
時計の指す時間は、四時五〇分を少し過ぎたくらい。
もっとも、今日のこととは限らないか。
しかし、日の高さから察するに、それほど先のことではないようだった。
棗くんの様子は、特におかしなところはない。先程までと同じ制服姿に、同じ鞄。敢えて違うところを述べるなら、耳にイヤホンを付け、何か音楽を聞いているくらいか。
別に、それならそれで構わなかった。
何もない未来が見える、というのもよくあることだった。
だが、今回はそれだけで終わらなかった。
キィーーーー
不意に、耳が痛くなるような音が辺りに響く。同時に、前方から何かが飛び込んで来るのが見えた。
車だ。
五人乗りの、青いワゴン車。その車が、棗くんの方に向かっていた。
運転手以外には人は見えなかったが、その運転手は、思い切りハンドルを切り、ブレーキを踏んでいた。
棗くんも車に気付くが、しかし、間に合わない。
車は、スピードを殺し切れず、そして、そのまま彼を吹き飛ばした。
堪らなくなって、私はギュッと目を閉じる。
それだけで何も見えなくなるが、さっき見た光景は頭から離れなかった。
(……怖い)
こんな未来、見たくなかった。
私が見る未来は、いつもいいものだとは限らなかったが、決してそれに慣れることはなかった。
それどころか、それが本当に起きてしまったとき、一度見ていた分、余計に辛くなるだけだった。
「愛乃?」
静かな声音で、誰かが声をかける。
恐る恐る目を開け、顔を上げると、棗くんが心配そうな顔をして、こちらの様子を窺っていた。
当然のことだけど、目の前の彼には特に異変はない。
「どうかしたのか?」
やはり心配そうに、棗くんに尋ねられる。
「あ、あの、えっと」
何と言えばいい……。
未来が見える、などと言えるわけもなく、私は言葉を濁す。
棗くんはどうしたものかと、左手で頭を掻く。
「まあ、何だ、とりあえず、さ……」
どこかバツの悪そうに、棗くんは言う。
「手、離して貰ってもいいか?」
手、と言われて、私は自分の手に視線を落とす。
そこにある私の手は、棗くんの右腕をがっしりと掴んでいた。
「ご、ごめん!」
慌てて私はその手を放す。
自分では気が付かなかったが、かなり強い力で掴んでいたようだ。少し、手が痛む。
棗くんの方は、動作を確かめるように、右手を握ったり開いたりしている。やはり、痛かっただろうか。
しかし、それよりも伝えなければいけないことがある。
「あの――」
どうにか、棗に危険を告げようと、愛乃は口を開く。
プルルルルル――
同時に電車の扉が閉まろうと、ホームにアナウンスがかかった。
私は、左手首のミサンガを握りしめる。
(どうしたらいい。棗くんに、伝えなきゃ。でも、どうやって)
そうこう考えている内に、扉が閉まってしまった。
プシュー、と空気の抜けるような音(実際には何の音かは知らないが)を立てて、電車が発車する。
走り去る電車を見送って、棗くんは言った。
「何、で……」
思わず電車から降りてしまったが、どうするかを考えていなかった。
「え、えっと……、その、棗くんの家に、行ってみたかった、とか……?」
「はあ?」
うわ、凄い嫌な顔した。
まあ、今日初めて会った人に、突然、家に行きたい、なんて言われたら、私でも嫌だと思うけど。しかも異性だし、いろいろ気にすることもあるだろうし。
何の考えもなしにああ言ったけど、これは無理があったかな。
「愛乃」
そう思っていると、棗くんが口を開いた。
「俺を信頼してくれてるんなら嬉しいが、もうちょっと警戒しろ」
「警戒?」
思ってもみなかった言葉だ。
断られるだろうとは思っていたが、そんな風に注意されるとは思っていなかった。
「そう。警戒というか、もっと考えた方がいい」
「考える?」
「だから、男の家に行ってみたいなんて、気軽に言わない方がいい」
「どうして?」
全く分からない。
私の顔を見てどう判断したのかは知らないが、棗くんが深くため息を吐いた。
「もし俺が、今日は家族みんな帰ってくるのが遅いから、なんて考えてたらどうする?」
「…………?」
「男女が、密室で、二人っきり、いい加減分かれ‼」
そう怒鳴るように言って、棗くんはうんざりとしたように手で顔を覆った。
周囲にいた人たちがチラチラとこちらを見ているのに気付いて、私も少し恥ずかしくなってきた。
棗くんの言いたいことも理解した。恥ずかしいのは、それのせいもある。
つまり、私と棗くんが――、いやいやいやいや、
「ち、違くて、その、私、そういうつもりじゃ――」
自分が言っていること、また、それが棗くんにあらぬ誤解を与えているのではないかと考えると、すごく恥ずかしくて、泣きそうで、上手く言葉が出てこない。
と、それを見ていた棗くんが、向こうも恥ずかしいのか、目は合わせてくれなかったけど、口を挟む。
「分かってる。俺だって、そんなつもりはないしな。けど、そう思われるかもしれないから、気を付けろって話だ」
「う、うん」
分かってくれている。それだけで、少し安心した。
「…………」
「…………」
「それで?」
「え?」
なんとなく気まずくなって、二人して黙り込んでしまったところで、棗くんが口を開く。
「今日は母さんが家にいるし、妹もすぐに帰ってくると思うから、大声出せば大丈夫だと思うけど、来るか?」
一つ咳払いしてから、棗くんはそう言う。
ああ、そうか。
別に、私が家に来ることが嫌だった訳じゃなくて、単純に、私のことを心配してくれていたのかもしれない。言われてみれば、少し無防備が過ぎたかも知れない。
少し反省しつつ、私は棗くんの誘いを受ける。
「うん、行く」
☆ ★ ☆
さて、どうしたものか。
部屋は奇麗にしてあるはずだし、さっき言った通り母親もいるし、妹もすぐに帰って来る。つまり、愛乃の安全は保障されている。
しかし、女子を連れて帰って、あの二人が黙っていられるはずがない。
十中八九大騒ぎするに決まっている。
チラリと愛乃の方を振り返ると、彼女は左手首、正確には、手首につけたミサンガを握りしめ、キョロキョロと辺りを見回している。
何か珍しいものでもあったのだろうか?
正直、田舎なので、高校の近くや、それこそ、愛乃の住んでいる辺りでも、どこも似たようなものだと思うが。
「ん? え? 何かあった?」
俺の視線に気付いて、愛乃が慌てて言う。
「いや、俺のセリフなんだけど……」
「え? あ、ううん、何でもないよ」
そう言って、愛乃はあはは、と笑う。
怪しい。
怪しすぎる。
急に今日あったばかりの俺の家に来たいと言ったことといい、愛乃の行動はどうもおかしい。
(何が狙いなんだ? からかわれているのか? 罰ゲームか何かなのか?)
ぐるぐると考えが迷走していく。もう何を信じたらいいのか分からなくなりそうだ。
「あら?」
行きつけの本屋の前で、嫌な声を聞いた気がした。
よく知る女の声で、声の主のことは、別に嫌いという訳ではない。が、今は少し状況が悪い。
俺がうんざりして、声の方に顔を向けると、予想通りの人物がそこにはいた。
長い黒髪、整った顔立ち、まるでモデルのようなスラリとした体格。正直、俺の周りに、こいつ以上の美人はいないと思う。
名前は広中美空。
一度家に帰ったのか、広中は私服姿だった。
スキニーのジーンズと、グレーのパーカーというラフな格好だ。
「よう」
俺が声をかけると、彼女の釣り目勝ちの双眸が、こちらを睨みつけた。
「別に、あなたにどう思われていようとどうでもいいのだけれど、そうあからさまに嫌な顔をされると、私も気分が悪いから、止めてくれるかしら」
「……了解」
そんな嫌そうな顔をしていたつもりはなかったが、広中がそう言うのならそうなのだろう。まあ、誰だってそんな顔されたら嫌だしな。
「で?」
広中が両目をより鋭くさせて言う。
「愛乃を連れてどこにいこうとしてるの?」
「…………」
彼女の目には今、俺がどれほどのクズ人間に見えているのだろうか。
「いや、愛乃が――」
「愛乃?」
どこで引っかかってるんだよ。独占欲強いと嫌われるぞ。そんなこと、口が裂けても言えないが。
俺は一つ咳払いをして、仕切り直す。
「ああ、野々山がだな――」
「美空ん!」
次に話を切ったのは愛乃だった。
何なんだ。二人して俺に話させないようにでもしているのか。
愛乃は広中に詰め寄り、勢い良く言い放つ。
「私が棗くんに、名前で呼んでって言ったの!」
いや、弁明すべきはそこじゃねえだろ。
愛乃が俺のことを「棗くん」と呼んだことに、広中はまたもや引っ掛かりを感じたようだった。
「それと、私が棗くんの家に行きたいって言ったから、案内してくれてるだけ。棗くんは悪くないよ」
ついでみたいな言い方だが、弁明してくれるようなので、それに任せることにする。
「何で、林田の家に?」
心なしか、広中の声が優しくなる。愛乃と話すことで少し落ち着いたのだろうか。
「それは……」
しかし、逆に愛乃の声が小さくなってしまったことで、また広中から敵意を向けられる。
これはあれか、俺に何か弱みでも握られているんじゃないかと疑われているのか。勘弁してくれ。
愛乃も愛乃だ。何でそんなに理由を隠すのか。それのせいで面倒なことになっているのだから、正直、迷惑この上ない。
広中は依然としてこちらを睨みつけているし、俺はうんざりして溜息を吐く。
「そんなに心配なら、お前も来るか?」
俺のことが信用できないなら、それが一番手っ取り早い。
広中とは小学生の頃からの付き合いだし、うちにも何度か来たことがある。広中が懸念しているのは、帰り道のことだろうし、家に着いて、母さんと妹に会えば、少しは安心するだろう。
それに、広中の友達だと説明すれば、うちの家族も愛乃のことで騒いだりしないだろう。
「駄目っ!」
愛乃が叫ぶ。
「それは駄目。美空んは来ないで」
今までで一番強い声音で、そう言う。
一体何なんだ。何をしようとしている。何があったって言うんだ。
「理由を聞いてもいい?」
あくまで冷静に、広中がそう尋ねる。
何か理由がある。それは俺もそう思っていた。しかし、
「…………」
「何でだ⁉」
いい加減イライラしてきた俺は、つい声を荒げてしまった。
「俺の家に来たいと言うのは別にいい。理由もいらない。けど、広中が駄目なのは何でだ? 理由を言ってくれないと、こっちも納得できない」
「林田。私のことは、あなたには関係ないわ」
広中が食い気味に口を挟んで、俺を制す。
確かに関係ないかもしれない。そんなことは自分でも分かっていた。しかし、イライラしていたせいか、無茶苦茶なことを言ってしまった。
広中が愛乃の方へ向き直って言う。
「愛乃」
「う、うん……」
「私も行くから」
「で、でも――」
「行くから」
「……うん」
戸惑う愛乃を強引に言いくるめて、広中が方針を決める。
何と言うか、このことが原因で、二人の仲が悪くなったりしないといいな。
結局、広中を含めた三人で、俺の家へと向かう。
俺の少し後ろに広中、そのまた少し後ろに愛乃という風に並んで歩く。
正直、あんな風に言い合いになった後では、愛乃はもう来ないかと思った。
しかし、多少気まずそうにはしているものの、しっかりと付いて来ている。やはり、何か理由があるのだろう。
「なあ、広中」
すぐ後ろの広中にだけ聞こえるように、そっと声をかける。
「何?」
広中もそれに応じて、少し近づいて小声で話す。
隣に来ないのは、俺とそうしたくないからなんだろうな。
「愛乃って、どんな子なんだ?」
「どんな、って?」
俺の質問に、広中は顔をしかめる。そんなに変な質問をしたつもりはなかったのだが。
「俺は今日、愛乃に会ったばかりだからな。だから、愛乃がどういうつもりなのか、全く分からん」
チラリと愛乃の方に目をやると、また彼女は辺りを気にしていた。
いや、気にしているのは車か。それも、後ろ側から走って来る車を気にしているようだ。しかし、何がそんなに気になるのか。
「…………」
広中は、しばらく俺の様子を窺うように、じっとこちらを見つめていたが、やがて小さく息を吐いて口を開いた。
「正直、私にも分からない。こんなこと、初めてだから」
申し訳なさそうに、伏し目勝ちに広中は言う。
高校入学以来とはいえ、俺よりも付き合いの長い広中でも分からないなら、俺に分かるはずはないな。
が、広中は何かを懇願するような目で、更に続ける。
「けど、あの子は、悪い子じゃないから。とても素直で、嘘がつけなくて、人を傷つけるような子じゃないから。だから、信じてあげて。お願いだから」
元から小声なのに、最後の方は更に小さくなってしまって、ほとんど聞こえなかったが、確かに広中はそう言った。
それは、彼女の中でも、疑念があるからなのか。信じてあげてと言いながら、まるで自分に言い聞かせるように聞こえた。
だが、俺は広中に嫌われている。その理由はいろいろあるが、そんな彼女に、「お願いだから」などと言われてしまっては、まあ、無理だとは言えなかった。
「愛乃」
振り返り、今度は愛乃に声をかける。
「…………」
愛乃は、一度俺の顔を見て、すぐに気まずそうに顔を伏せた。さっきのことが、後を引いているのだろう。
(これは俺が悪いのか? いや、俺だよなあ……)
愛乃の態度にイライラしていたとはいえ、怒鳴ることは無かった。広中とも反発して、針の筵だったに違いない。
「さっきは悪かったな」
「え?」
愛乃が驚いたような顔をしてこちらを見る。
「何か言えない事情があるんだろ? だったら、もう聞かないからさ。まあ、なんだ、怒鳴ったりしてごめんな」
かっこ悪いなあ。
勝手に怒って、勝手に謝って、本当に自分勝手で、かっこ悪い。
しかし、他にどうしたらいいのか分からなくて、そのまま黙り込んでしまう。
「あの」
少しして、おずおずと愛乃が口を開く。
「全部終わったら、ちゃんと話すから」
「ああ」
それだけ言って、俺たちはまた歩き始めた。
しかし、愛乃は距離を詰めては来なかった。まあ、そんなすぐには切り替えられないだろう。まあ、彼女の考えが分かっただけでも、よかったと考えるべきか。
「ありがとね」
そう言ったのは広中だった。
何だか、広中らしくない。
いつになくしおらしい、というか、弱っているように見える。少なくとも、俺が知る限りでは覚えがない。
もしかしたら、愛乃と言い合いになったのが、応えているのかも知れない。
とは言え、広中がこんな調子では、俺の方も調子が狂う。
「別に。一応、お前のことは、まあ、何だ、信じてるからな。お前が信じろって言うなら信じるさ」
「そう」
それだけ言って広中は黙り込む。が、少しして、また口を開いた。
「あなたにそんな風に言われると、なんだか気持ち悪いわね」
「うるせえ、もう二度と言わねえよ」
俺はそう返して、明後日の方を向く。
やはり、調子が悪い。普通ならこんなこと言わないのだが。
「ふふっ」
俺たちの後ろで、愛乃がクスリと笑う。
二人して彼女の方を見ると、その視線に気づいた愛乃は「ごめん」と謝る。
「二人とも、仲いいんだな、って思って、何の話してたのか分かんないけど、なんか、面白くて……ふふっ」
堪え切れなくなったのか、笑い出してしまう愛乃を見て、俺と広中は目を合わせる。
そうしてみると、なんとなく、毒気が抜かれたと言うか、さっき言い合いになったこととか、調子の悪さとか、もうどうでもよくなった気がして、二人して深くため息をついた。
道はやがて、かつて俺や広中が通っていた菱山中学校の前を通る。フェンス越しに見えるグラウンドを覗くと、部活動に励む生徒たちの姿が見えた。
グラウンドを使っている部活は三つ。野球部、サッカー部、陸上部。
俺と鳥居も、このサッカー部に所属していた。
そんなに強かったわけではないし、俺自身も技術は人並でしかなかったが、まあ、嫌ではなかったな。
「頑張ってるわね」
つい足を止めて様子を見ていると、広中にそう声をかけられる。
「ん? まあな」
「今年は一回戦くらい突破できるといいけど」
菱山中のサッカー部は、強くはない。はっきり言って弱小だ。
しかし、それを分かっていても、関係ないやつに言われると少し傷つくのはなぜだろうか。まあ、別に怒りはしないが。
「今年の三年は上手いやつが多いからな。いいとこまで行けるかもしれないぞ」
少し身内贔屓が過ぎるような気がするが、そう言ってしまう。それに対して広中は「ふうん」とさほど興味なさそうに声を漏らしただけだった。
そっちから話を振っておいて、その反応はないんじゃないか?
そのまま、部活を見ているのも、なんとなく憚られたため、俺たちはまた歩き始める。
そのすぐ後、愛乃が声を掛けてきた。
「棗くんはサッカー部だったの?」
どうやら、さっきの話に興味があるらしい。
「ああ、まあ。つっても、そんな上手かった訳じゃないけどな」
「高校でも続けるの?」
「どうかな。中学の時は、強制ってこともあったからな」
「そっか」
言いながら、帰宅部という選択肢もあることに気付く。放課後、今日のように誰かの家に行ったり、どこかへ遊びに行ったりというのもいいな。
そのためには一緒に遊ぶ相手も、帰宅部である必要があるが。
「でも、棗くんのサッカーしてるとこ、ちょっと見てみたいかも」
そう言って、愛乃はあどけない笑顔を見せる。
その笑顔を見て、俺はなんとなく、嫌な感じというか、面倒臭そうな気配を感じた。
「まあ、来週から、鳥居と仮入部してみるつもりだし、それ次第かな」
「翔もサッカー部なのね」
そう言ったのは広中だった。
「ああ。そう言ってたな」
「そう」
広中が短く声を漏らす。
興味があるのかないのか、よくわからないが、心なしか、声のトーンはいつもより高い気がする。
「み、美空んは、部活、どうするの?」
愛乃の声音は少し固い。さっきのことで、まだ緊張しているのかも知れない。
広中は愛乃の方を一瞥し、また前へ向き直る。
「別に、特に考えてないけど、何か、新しいことがやってみたいわね」
対して広中は、いつもと同じ声音でそう返す。
広中とは付き合いは長いが、こいつのテンションは未だに読めない。小学生の頃は、もっと表情豊かな奴だったのだが。
「えっと、中学では何やってたの?」
「美術部」
「あれ? 前に聞いたっけ?」
「そうかもね」
「絵、上手いんだ?」
「別に、私より上手い人は、いっぱいいるから」
広中はそう言うが、少なくとも俺は上手いと思った。校内の展示でしか見たことはないが、他の生徒より群を抜いていたように思う。
まあ、所詮素人目線なのかも知れないが。
それにしても、せっかく愛乃が話を振ってくれているのだから、もっと話を広げてやればいいのに。
これでは少し可哀想だ。
そんな俺の思いが通じたのかは分からないが、今度は広中が口を開く。
「愛乃は、どうするの?」
そう言った広中の口調から、どこかたどたどしさが感じられた。
(ああ、広中も緊張してるのか)
広中の方も、愛乃との距離を測りかねて、何を話せばいいのか分からなくなっていたのだろう。
「えっと、中学のときはバレー部だったんだけど、私も、その、新しいこと、したいなって……」
「そう」
広中が相槌を打つ。そうして、愛乃が言葉を選ぶのを待っているのだろう。
「うん。それで、今は、演劇に興味があって……」
「ええ」
「それでね。美空んも、よかったら、一緒にどうかなって……」
「そうね」
そこで、二人の会話は途切れた。
広中は顔に手を当てて、考えるそぶりを見せる。愛乃も、広中の回答を黙って待っていた。
少しして、広中が口を開く。
「別に、構わないけど」
「ホント⁉」
「ええ」
「ありがとう!」
広中が肯定すると、愛乃はそう言って笑う。
なんとなく、二人の関係が分かった気がする。
一見、全然テンションの違う二人だが、それはそれでバランスが取れているのだろう。
それに、多分、根っこのところが似ているから、一緒にいられるのだろう。
「それから……」
広中がまた口を開く。
「その、さっきは、ごめんなさい……。空気を悪くしてしまって……」
「美空ん……」
ばつが悪そうに謝る広中に、愛乃が目を見開く。
「ううん。私もごめん……」
そうして、二人して顔を見合わせ、二人して笑う。
どうやら、収まるべきところに収まったらしい。
そうこうしている内に、自宅が見えてくる。
一五階建てのマンション。その一室が俺の家だ。
すぐ側には公園があり、そこでは何人もの子どもたちと、その母親たちが談笑している。
「あっ……」
背後で愛乃が短く声を上げる。
その声に振り向くと、彼女は何かに怯えているような表情をしていた。
愛乃は一度背後を、やはり後ろから来る車のことを気にして、またこちらに向き直って言う。
「二人は、ここで待ってて!」
そう言って、愛乃は公園の方へ駆け出して行く。
広中に「駄目」と言ったときと同じ声音に、俺は一瞬時間が止まったような錯覚を覚えるが、目の前を走り去る愛乃の姿に、ハッと我に返る。
「おい!」
「愛乃!」
俺と広中が、同時にその後ろ姿に呼びかけるが、愛乃は振り返りもせずに行ってしまう。
「何なんだよ……」
☆ ★ ☆
棗くんを助けるだけなら、どこかに連れ出せばよかった。
お茶にでも誘って、適当に時間を潰せば、それだけで棗くんは助けられる。
けど、他の人はそうじゃない。
棗くんが撥ね飛ばされたのが見ていられなくて、目を閉じてしまったが、そのあとも誰かが被害に合ったのかも知れない。
だったら、棗くんだけ助けても駄目だ。何の関係もない、赤の他人だからって、見て見ないふりは、私には出来なかった。
けど、件の公園の場所を私は知らない。だから、棗くんに連れてきて貰った。彼が帰り道にここを通ることは見ていたのだから。
棗くんと美空んは、離れた場所で待たせてある。これで二人は安全なはずだ。
後は公園で遊ぶ人たちだが。
「ここから離れて!」
公園の入り口で、私は叫ぶ。
その声に、その場にいた全員の視線がこちらに集まるが、すぐに、何事も無かったかのように、遊びに戻り、会話に戻り始める。
当然だ。今から何が起ころうとしているか、誰も知らないのだから。
(どうすればいい……)
これでは何を言ったって無駄だ。
赤の他人である私の言葉なんて、誰も耳を貸してはくれない。
車道を確認。まだ事故車は見えない。しかし、公園の時計は四時五〇分を過ぎている。
もういつ車が突っ込んで来てもおかしくない。
私は公園の左側に目をやる。
そこでは砂場で遊ぶ三人の子供たちの姿がある。
角度的に、この子たちが一番危険な筈だ。
「すぐにそこから離れて!」
私は子供たちに駆け寄り、そう叫ぶ。
しかし、子供たちは私のことを怪しむばかりで、その場を動こうとしない。そればかりか、私の大声にびっくりして、泣き出してしまう子までいる。
「あ、えっと……」
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
時間がないのに、このままじゃあ、誰も助けられない……。
「うえぇぇぇぇ~ん!」
泣き出してしまった子と、その後を追ってもう一人が、少し離れた大人たちの方へ駆けていく。
とりあえずこれで、残った子を逃がすことが出来れば大丈夫なはずだ。
「一緒に来て!」
私は残った子の手を取り、その場を離れようとする。が、
「…………」
その子は頑なに、その場を動こうとしない。
やはり、私のことを怪しんでいるからだろう。
「ちょっと、あなた!」
後ろから、一人の女性に声を掛けられる。恐らく、この子の母親だろう。
「うちの子に何して――」
「駄目です! 離れて下さい!」
言いながら駆け寄ってきた母親に、そう言い返す。
「お願いです……」
もう何もかも上手くいかなくて、泣いてしまいそうになるのを我慢して、私はそう言う。
その思いが通じたのかは分からないけど、母親は足を止めた。
「お母さぁ~ん!」
子供が私の腕を振り払い、泣きながら母親の方へ駆け寄る。
(よし……)
これで大丈夫。
そう思った瞬間だった。
「愛乃!」
棗くんの声だ。
声のする方、公園の入り口の方を振り向くと同時。
キィーーーー
耳が痛くなるような音を上げて、あの青いワゴン車が、公園の中に飛び込んで来た。
車は私がいる方よりも少し内側、さっきの子どものいる方へ走って行く。
車に気付いた子どもは、恐怖からかそこから動けずにいる。
「――――っ!」
考えるよりも先に、体が動いた。
私は子どもに駆け寄り、その背中に跳びつく。
そのまま抱き抱えるようにして、二人して地面を転がった。
「愛乃!」
もう一度、棗くんの声が聞こえる。
「うえぇぇぇ~ん」
恐怖から解放されて泣き出した子どもを、その母親が抱きしめる。
見たところ、大きな怪我はなさそうだ。
車が走って行った方を見ると、砂場を乗り越えて、奥に植えられていた木にぶつかって止まっていた。
運転席から出てきた男性が、こちらに駆け寄ってきて平謝りを繰り返す。
頭を押さえているのは、ぶつけでもしたのか、それとも精神的なものだろうか。
「愛乃!」
また、棗くんが私の名前を呼ぶ。
「ん?」
そこで初めて、彼が私の名前を呼んでいたことに気付く。
「え、あ、うん」
私が反応したことで、棗くんは少し安心したように見える。
「大丈夫かよ?」
「うん。大丈夫――、痛て」
言いながら、自分の体を確認する。
腕を動かしてみたり、体をひねってみたり。最後に立ち上がろうとして、足に違和感を覚えた。
見ると、右膝を大きく擦りむいていた。
意識し始めるとじんじんと痛むが、我慢出来ないことはない。
「うん、大丈夫」
そう言って私が笑って見せると、棗くんは大きくため息をはいてこう言った。
「……馬鹿」
「あはは……」