第一話
人生とは選択の連続である。
誰が言ったかは知らないが、それを聞いたときには、成程と思ったものだ。
と言うのも、俺にとっての一五年とは、ことごとくそういうものだったからに他ならない。
例えば、小学四年のとき、母親に薦められて入ったサッカークラブ。俺自身はそれほどサッカーに興味はなかったが、丁度、四年に一度の世界大会の年と重なり、世間がサッカーブームだったこともあって、母親に言われるがまま、半ば強引に入ることになったのだった。結果として、中学まで続けてきたサッカーだが、辞めたいと思ったこと、そもそもやらなきゃよかったと思ったことも何度かある。
もし、サッカーを始めなければ、途中でやめていたなら、俺はどうしていたのだろう。
あるいは中学に入ったばかりのとき、「親睦を深めるために花見をしよう」、と誘われたときのこと。特に断る理由も無かったので、同行したのだが、もし断っていれば、その後三年間にわたって、その男に煩わされることはなかったかも知れない。
そして今日、ついさっきのことだ。
午後一の体育は男子と女子に別れ、俺たち男子は陸上競技ということで、一〇〇メートルのタイムを二人ずつ計っていたのだが、俺はスタートで大幅に出遅れてしまった。
理由は明白。直前で下らないことを考えていたせいだ。
選択とは少し違うかもしれないが、時を選ぶということもあるはずだ。
と、まあ、このように、思い返してみれば、ああしていれば、ああしなければと思うことがいくつもある。
いや、きっと誰にでもそういうことはあるのだろうが、自分の場合にはそれが特に多いような気がしていたのだ。それこそ、誰でも同じなのだろうが。
計り終った生徒たちは、適当に腰を下ろして休憩している。
入学式から早二週間。オリエンテーション合宿も経て、クラス内のグループにも、「お決まり」というものが出来てくる。
同じ中学のグループ。別の中学のグループ。あるいは、両方混ざったグループ。不良で知られるグループに、アニメ好きのグループ。――etc.
それらのどのグループにも混ざらず、いや、全てのグループに顔を利かせて、行ったり来たりしている男が一人いた。
短髪をワックスでツンツンに立てた、へらへらした笑みを浮かべた男子。
名前は鳥居翔と言った。
鳥居は俺に気付くと、他のグループには目もくれず、一直線に近づいてきた。
「どうだい、林田」
俺の肩に手をかけて、鳥居が言う。
そのまま促されるように、俺はその場に腰掛ける。
鳥居とは中学からの付き合いだ。同じサッカー部員で、何を隠そう、花見に誘ってきた張本人でもある。
しかし、なんだかんだ言いつつ、気はよく合う方だった。高校入学から二週間が経つが、鳥居といるだけで、中学とあまり変わらないような、そんな気すらしてくる。
「微妙だな。スタートで少し遅れた」
そう言うと、鳥居はハハッと笑って、隣に腰掛けた。
「まあ、後でもう一回計るらしいから、次は気を付けるんだね」
「そうだな」
へらへらと笑う鳥居を見るだけで、疲労が増すような気がした。
この上機嫌な様子では、鳥居の方はベストを尽くせたのだろう。
「僕もスタートはイマイチだったからね、次は頑張るよ」
そうでもないようだった。
鳥居はいいときでも悪いときでも、笑顔を絶やさない。というと聞こえはいいが、単に能天気なだけだ。
鳥居の場合、何があっても、なんとかなる、なるようになる、で全て済ませてしまう。それでいつも怒られていたりするのだが、中学の三年間治らなかったものなので、恐らく今後もそのままなのだろう。
「女子は走り高跳びか」
トラックを挟んで向こう側を眺めて、鳥居が言う。俺もそちらを見ると、女子が一列に並んで、バーを飛び越えるべく順番に駆けていくのが見える。
ちなみに、体育は二クラス合同で、今の時間は、俺たち一組と隣の二組が一緒に授業をしている。
そのため、初めて見る生徒も多くいた。
「この学校ってさ、かわいい子多いよね」
「そんなこと言ってると、またあいつがうるさいぞ」
「いやいや、美空よりいい子はなかなかいないよ」
広中美空は、俺や鳥居と同じ中学出身の女子生徒だ。
同じ星成高校に通う以上、また付き合いもあるだろう。
「でも、別に美空とは付き合ってるわけじゃないから、どうということはないんじゃないかな」
鳥居は笑ってそう言った。
実はそんなつもりもないだろうに、よく言うものだと思う。
「林田の方こそ、誰か気になる子とかいないのかい?」
「気になる子?」
俺は女子の方に目を移す。
気になる子、と言われても、棗はあまり恋愛感情というものがよくわからなかった。言葉の上ではわかっているつもりだが、そういう体験をした記憶は無い。
例えば、中学のとき。仲のいい男子の間で、何組の何とかという女子がかわいいとか、こっちの子は性格がいいとか、そういう話で盛り上がることはあったし、共感もしていた。しかし、それだけだ。付き合いたいとか、そういう風に思ったことはない。
「白石さんとか、林田の好みのタイプかと思うんだけど?」
「すまん、名前と顔が一致せん」
「ははっ、君はホントに名前を覚えるのが苦手だね。白石花梨。我がクラスの委員長くらい、覚えておいてあげなよ」
鳥居に言われて、ああ、と思い出す。
いつも髪をお下げにした、かわいらしい感じの女の子だ。
「真面目で、思いやりのある子だよ。人のやりたがらないことを進んでやってくれて、同じ中学の奴の話じゃあ、大抵の頼み事は、軽く引き受けてくれるらしいよ」
どこから仕入れたのか知らないが、鳥居は得意気にそう言った。
「押し付けられてるんじゃないのか、それは」
俺の印象では、あまり気の強そうな感じではなさそうだった。委員長に決まったのも、友人に薦められるまま、断りきれずに決まっていたように思う。
「それがそうじゃないみたいだよ。本人にも聞いてみたけど、頼られるのが好きなんだって。委員長だって、本当に嫌だったらちゃんと断ってるってさ」
「へえ」
確かに、推薦を受けながらも、最後には自分で手を挙げていた。それに、委員長だって面倒なだけの仕事ではない。文化祭などのイベントでは、中心になって進行をすることになるだろうから、充実した学校生活を送りたいのなら、魅力的な役職ではある。内申点も上がるだろうし。
「そんな子だけに、抱え込んじゃうことがよくあるみたいだよ。ときどき危うい感じがするから、守ってあげたくなるんだってさ」
「成程ね」
頼られるのは好きだが、自分が頼るのは苦手な訳か。
「ああいう守ってあげたくなるような子、林田は好きだろ?」
そんなこと、俺は一言も言った覚えはないのだが、うんざりとして答える。
「嫌いなタイプじゃない。けど、まともに話したことなど無いからな」
「成程ね。じゃあ、藤崎さんは? 同じ中学だし、話も合うでしょ」
藤崎は、中学時代は同じサッカー部のマネージャーをしていたこともあって、仲良くしていた子だ。いつもポニーテールを振り乱し、元気が取り柄という表現がぴったりな女子だった。
「話は合うが、付き合いたいとか思ったことはないな」
そもそも、藤崎は誰とでもよく話すタイプなので、棗と特別仲が良かったわけではない。むしろ、棗とは話すことは少ない方だったと思う。事実、高校でクラスが離れてしまってから、彼女とはまだ一度も話したことがない。
「ふうん、まあ、いいけどね。ちなみに、僕のリサーチでは、白石さんと藤崎さん、それに、二組の野々山さんも入れて、この三人が一年の三大美女だね」
「へえ」
いつの間にそんなことをしていたのか、疑問は残るが、なんとなくその調査結果を分析する。
てっきり、そこに広中も入って来ると思っていた。贔屓目を無しに見ても、彼女はトップクラスの美人だ。その広中が入らないのは、鳥居なりに、何か思うところがあるのか。あるいは、美人過ぎて、逆に避けられているのか。
「二組の……何だっけ?」
「野々山さんだね。気になるのかい?」
「いや、顔を確認したいだけだ」
知らない子だからな、と続けると、ふうん、と、鳥居は面白いものを見るような顔をしていたので、俺はその肩を軽く小突いてやった。
少し大げさに痛がってから、鳥居は女子の方をキョロキョロと見回す。
「ああ、丁度今から跳ぶとこだね。ほら、あの子だよ」
鳥居の指差す先、一人の女子生徒を俺も見る。
肩に当たるか当たらないかくらいの、短い髪の小柄な女の子。
バーの高さがいくらかはわからないが、彼女は綺麗なフォームで跳躍し、そして見事に引っ掛けて行った。
俺も中学のときに経験があるが、体は越えても、足は上手く上がらないものだ。
その様子を見ていると、鳥居が解説を始めた。
「野々山愛乃。小動物的なかわいさで男子の人気も一位。どうだい、気に入ったかい?」
どうも鳥居は、そっちの方向に話を持っていきたいらしい。
「まあ、人気があるというのはわかる気がするな」
「でもあの子、大の男嫌い、って言う噂だよ。そこに惹かれる奴もいるみたいだけどね」
「自分は大丈夫だってか?」
余程の自信家だな、そいつは。
「まあ、今まで誰も例に漏れることなく、記録を伸ばし続けてるらしいよ」
「そいつは結構なことだな」
いったい何人玉砕したのか、鳥居がはっきりと言わないのは裏が取れていないのか、尾ヒレがついて、とんでもない数字になってしまっているのか、何にせよ、鳥居はよくわかっていないことは言わない奴だ。
「差し当たっては、この三年間でその記録が途切れることがあるのか、それだけが楽しみだね」
「もうちょっと実のある学校生活を送ろうぜ」
一人の女子高生の恋愛事情に密着するより、部活に精を出すとか、鳥居の方こそ、意中の相手と仲を深めるとか、もっと有意義な時間の使い方があるだろうに。
ホームルームを終え、皆が続々と教室を後にしていく中、鳥居に声をかけられる。
「今日はどうする? どっか部活でも見ていくかい?」
「いや……」
特にやることがある訳でも無いので、本当ならすぐに帰るつもりだったのだが、生憎と、外は雨が降っていた。体育の後少ししてから、急に降りだしたのだ。
聞くところによると、降水確率は五〇%だったらしいのだが、家を出るときは晴れていたので、俺は傘を持って来ていなかった。
「傘なら持ってるよ。入っていくかい?」
「いい。男の傘にお邪魔する趣味はない」
差し出された折り畳み傘を、手で制する。
そんな小さな傘、鳥居と入ってられるか。もっとも、大きさの問題でもないが。
「図書室で、止むか弱くなるまで待ってるよ。お前は先に帰っていいぞ」
「ふうん、じゃあ、そうさせて貰おうかな。林田も、遅くならないうちに帰りなよ」
そう言って、鳥居はショルダーバッグを肩にかけ、教室を後にする。俺もその後に続いた。
「鳥居は、部活はどうするんだ?」
昇降口に向かう途中、鳥居にそう聞く。
「う~ん、特に決めてないけど、やっぱサッカー部かな。他にやりたいことも無いしね。今度見学にもいくつもりだよ。林田もそうだろ?」
「そうだろ、ってのは、サッカー部に入ることを言ってるのか? それとも、他にやりたいことが無いことを言ってるのか?」
「じゃあ、大穴で、今度見学に行くことかな」
鳥居は大きく笑ってそう言った。
そのニヤケ顔、一度思い切り殴ってやろうか。
「冗談だよ。でも、実際さ、どれにしても合ってるんじゃないかい?」
「そう思うか。じゃあ、順番に答えてやる。入るつもりだ。勝手に決めるな。見学にも行く」
鳥居のへらへらした態度に、少し熱くなってしまったのを自分でも感じる。それにしても、他にやりたいことがあると、言えないことが悔やまれた。
しかし、鳥居の方はそれを気にした様子もなく、話を続けた。
「ほら、だいたい合ってたじゃないか」
そう言って笑う。
「でも、よかったよ。林田が入らないんなら、僕のモチベーションは半減だからね」
「そんなことはないだろ」
鳥居は人当たりもいいし、サッカーも上手い。俺がいなくとも、上手くやっていけると思うが。
「そりゃあ、上手くやってく自信はあるよ。でも、モチベーションとなれば別の話さ。重要なのは面白いかどうか。その点に関しては、君以上の面白さは見出せないね」
「何だそりゃ」
面白いという言葉に見合う活躍をした覚えはない。日常生活はもちろん、サッカーでならもっとだ。
「自分じゃわかんないかもね」
「はあ」
どうにも納得いかないが、鳥居は詳しく話す気はないらしく、陽気に鼻歌を歌って歩を進めた。
「それじゃあ、また明日」
生徒玄関に着くと、鳥居が手を振る。
目立つからやめてほしいのだが、俺は右手を挙げてそれに応えた。
鳥居が玄関を出るのを見送ってから、俺も図書室に向かう。歩き出してすぐに、ふと思い出した。
(明日は土曜か……)
まあ、何か約束していた記憶はないので、単なる間違いだろう。
俺は特に気にすることも無く、図書室へ向かった。
図書室には、以外にも多くの生徒がいた。
この知性の領域に、こんなにも足を踏み入れる人間がいるとは、この学校には、勤勉な人間が多いものだ、と思ったが、仕方なくここに来ることになった間抜けのことを思い出し、一種の仲間意識のようなものを感じた。
適当に一冊の本を手に取り、空いている席に座る。
選んだのは、少し前に話題になったミステリー小説だ。
なんとなく気になってはいたのだが、今まで読めずにいたものだった。
読み始めると、これがなかなか面白い。
とある高校生が、周りで起きた怪事件を解決するというもので、事件と言っても殺人などではなく、日常で起こる少し不思議なことくらいなものだ。
そういう刺激のある高校生活を期待しないでもないが、しかしながら、そういう不思議に、とことんまで踏み込もうという気概は俺にはなく、また、その手の事象に巻き込んでくれる友人もいない。
鳥居なら何か持ってくるかもしれないが、俺は面倒だと突っ撥ねてしまうだろう。義理立てするほどの何かがあれば別だが、鳥居相手ならばその程度だった。
もう一人、頼まれれば断りきれないだろう、という人物もいるが、今度はそいつから頼まれごとをされる場面を想像できなかった。
どうやら、俺がこの小説の主人公みたいな働きをすることは、当分なさそうだ。
――バタバタバタ。
一〇分くらい経っただろうか、一章を読み終えたところで、何かが崩れ落ちるような音がした。
音の方に目を向けると、すぐ近くで、一人の女子生徒が倒れている。更に、その周りには大量の本が散らばっていた。
さっきの音は、その本が落ちた音だろう。
恐らく、本を運ぶ途中で、バランスを崩して転んだのだ。
「大丈夫か?」
とっさに、声を掛けると、女生徒が顔を上げて答えた。
「うん、大丈夫だよ」
目が合う。
肩に当たるか当たらないかくらいの、短い髪の小柄な少女。制服のリボンの色が赤いので、同じ一年生だとわかる。
しかも、彼女の姿には、見覚えがあった。
体育のとき、鳥居が話していた、一番人気とかいう女子だ。
遠くで見ていたときは気付かなかったが、左目の下のホクロがあるのが特徴的だった。
名前は、確か……、ヨシノ。そう、ヨシノ何とかさんだ。
「ヨシノ、さん、だよな」
思わず、口に出してしまう。
それを、自分に聞かれたのだと、思ったのだろう。何やら思案顔で、ヨシノさんは口を開いた。
「え? うん、そうだけど……えっと、何で、名前……」
そう聞かれて、しまった、と思う。
恐らく、話したことも無い相手に名前を呼ばれて、不審に思っているのだろう。
「ああ、その、噂になってたから」
と、少ししどろもどろになりつつも、俺は何とか言い訳をする。
その言い訳すらも、間違いだったと気付いたのは、その直後だった。
「はあ、えっと、どんな?」
まさか、学年で一番人気だとか、そんな俗っぽいことを言う訳にもいくまい。しかし、他に何かあるとすれば。
「大の男嫌いだとか」
「ああ、そう、なんだ」
ヨシノさんは少し複雑そうな表情をするが、特に何も言わずに、いそいそと本を拾い始めた。
俺もそれを手伝う。
さて、この拾った本はどうするべきか。
「これは、どうするんだ?」
「えっと、返却された本だから、元の場所に戻そうと思って。その、図書委員だから」
成程、ヨシノさんは図書当番だったのか。
それにしても、持てなくなる程、一度に持たずともいいだろうに。
「手伝うよ。大変だろ」
「え、でも……」
「まあ、ここまでしといて、そのままっていうのも、少し気が引けるからな」
持ちきれなくて落としてしまったヨシノさんに、それをあっさりとそのまま預けてしまえるほど、俺は図太い神経をしていない。
それに、乗りかかった船ということもある。
しかし、図書委員としての仕事を押し付けるのは気が引けるのか、ヨシノさんは少し戸惑うようにしていたが、やがて観念したように口を開いた。
「じゃあ、お願い」
「うん、了解」
そう言って、俺はヨシノさんから本をいくつか受け取る。本当なら男である俺の方が多く持つべきなのかも知れないが、それでは図書委員であるヨシノさんの方が、立つ瀬がなくなってしまうだろうと思い、丁度半分くらいのところで折り合いをつけた。
作業中、考えていたのはヨシノさんのこと。
顔は確かにかわいい。体格も小柄で、性格も真面目そうだから、人気があると言うのはわかる気がする。
しかし、付き合いたいかと聞かれると、どうも違う。
まあ、ああいう子と付き合うのなら、文句はないだろうが、もし彼氏がいるとしても、特にショックは受けないだろうとも思う。
(何考えてんだか……)
鳥居のせいで妙に考え込んでしまったが、気を取り直して作業に戻る。
途中、近くに来たヨシノさんが、こんなことを言い出した。
「ホントは、嫌いって言うより、苦手なんだよね」
「…………?」
「あ、えっと、男の子が嫌いって話」
俺が何のことを言っているのかわからずに黙っていると、ハッとしてそう付け加えた。
そこで俺も、直前に話していた内容を思い出す。
そういえば、ヨシノさんが男嫌いという噂が流れている、と話したのだった。
「小学校のときにね、仲が良かった子に、意味もなく叩かれたり、悪口言われたりしたから、それっきり」
ヨシノさんは、当時のことを思い出しているのか、少し陰鬱そうな雰囲気で語る。
「意味もなく?」
「うん、何でそんなことするの、って聞いたら、別に、って」
仲の良かった男子に、叩かれた。悪口を言われたりした。それも意味もなく。
そのことに、俺は違和感を覚えた。
いじめられていたのだとすると、意味もなく、というのは違うだろう。
何かしら変なところ、例えば、勉強ができないだとか、運動が苦手だとか、あるいは、変わった趣向の持ち主だったとか、そういう原因が。
もちろん、俺がそれらを悪いと思っている訳ではなく、いじめの原因として、考えられる例を挙げているだけだ。
また、いじめだとするのならば、そもそも、仲良くなどするだろうか。
最初は仲が良かったが、後に何かが露見して、いじめになった、というのならわからなくもないが、果たして、その場合、ヨシノの中に「仲が良かった」という印象で残るのだろうか。
その心理はヨシノ自身にしかわからないが、恐らくそうはならないだろう。
小学生のヨシノ。見たことはないのであくまで俺の想像だが、当時からかわいい子だったのだろう。そして、それを叩く男子。
「何でそんなことをするの?」と聞かれ、「別に」と答えた。
というか、誤魔化した。
(……まったく……)
俺は大きくため息を吐く。
「ヨシノさん」
「愛乃でいいよ。なんか、年上みたいだし」
俺としては、そこに違和感は覚えなかったが、しかし、本人がそれでいいというのならば、と言われた通りにする。
「じゃあヨシノで。その男子のことだが」
「うん」
「多分、ヨシノのことが好きだったんだと思う」
「へ?」
ヨシノさんは、信じられない、というように、素っ頓狂な声を上げる。
「小学生くらいの男子ってのは、好きな女子にちょっかい出したくなるものなんだ」
実際、俺にもその手の経験はあった。
好きと言っても、恋愛感情というよりは、もっと仲良くなりたい、あるいは、構ってほしいというものだったと思う。けど、女子と仲良くしているというのが、妙に照れ臭くて、上手いコミュニケーションの手段も知らなくて、つい手を出したり、悪口を言ったりしてしまったことがある。
その辺り女子は上手いから、分からないかも知れないな。
「ちょっとストップ」
ヨシノが少し慌てたようにして口を開く。
「えっと、あんまりこういうこと言いたくないんだけど、一つだけ言わせて?」
「ああ、どうぞ」
「馬鹿なの?」
呆れた表情で、ヨシノは言った。
「そんなの嫌に決まってるじゃん」
「だよな。ホント、馬鹿だよ、男なんて」
ヨシノの言う通りだ。今考えてみれば、何であんなことをしたんだろうと思う。
それで男嫌いになった人間が、ここに一人いるというのに。
と、そこで俺はあることに気付いた。
「でも、ヨシノは、俺とは普通に喋れてるよな」
男嫌いと聞いていたから、俺はもっと取っ付き難い人物を想像していたのだが、話して見れば、人当たりもいいし、ヨシノはあまりそういう素振りは感じさせない。
「えっと、一旦話し始めると大丈夫なんだけど、それまでが長いというか」
少し困ったように、ヨシノは言う。
そう言われると、妙に納得できた。確かにそれは嫌いというよりも苦手だ。
「それに、棗くんは、なんか、初めてって気がしない、みたいな」
少し恥ずかしそうにヨシノは言う。
よく分からないが、相性がいいみたいなことだろうか。
しかし、気を付けなければならない。
ここで勘違いして、玉砕記録に名を残し、鳥居の楽しみに花を添える形になるのだけは、絶対に避けなければいけないからだ。
とは言え、いきなり名前で呼ばれて、少しドキリとしたのは確かだ。
俺の場合、男同士ならば初対面でもそうすることもあるが、相手が女子の場合は、専ら、名字で呼ぶことがほとんどだった。
初対面の異性を下の名前で呼ぶというのは、ちょっと距離が近過ぎる気がするのだ。
しかし、それよりも気になることがあった。
「あれ、名前教えたっけ?」
ついさっき、似たような問答があったような気がするが、それは気にしないことにする。
ヨシノに名前を教えたかどうか、その記憶が、俺には曖昧だった。
もっとも、今更過ぎる問題であるが。
「あ、えっと、私も噂で……」
と、何かを誤魔化すように、ヨシノはそう言う。
しかし、それが逃げ道でないことを、棗は身を以て知っていた。
「どんな?」
噂されていると聞けば、どういう噂なのか気になるものだと、過去の自分にも教えてやりたい。
「え、え~っと、いい、人、だね? とか」
「ほう」
自分のことが、女子の間で、そんなふうに話題に上がってるとは思わなかった。
何だろう? 嬉しいような、少し照れ臭いような心持がする。
それを誤魔化すためにも、俺は口を開いた。
「別に、そんなことはないと思うぞ」
いい人、というのがどのレベルかはわからないが、正直、俺は根っからの善人って訳ではない。
「そう見えるなら、それは、俺がいい人ぶってるからだよ」
計算でも動くし、見返りも欲しい。
ヨシノを手伝うのだって、自分に悪い印象を持ってほしくないからだ。
しかし、俺の言葉に、ヨシノは首を横に振る。
「ううん、そう見えるのは、それが棗くんの本質だからじゃないかな。どんなにいい人ぶったって、元になるものがなくちゃ、いい人だなんて思えないと思うよ」
そう言って、彼女は弾けるような笑顔を見せた。
「……どうだかな」
その笑顔が眩しくて、俺は顔を背ける。
しかし、ヨシノの言葉に、少し、胸が熱くなるような気がした。
「ありがと、棗くん」
片付けを終えると、ヨシノに礼を言われる。
窓の外を見ると、雨はすっかり上がっている。いい時間潰しにはなったか。
「じゃあ、俺は帰るから」
カバンを取り、ヨシノに付いて、受付の前で別れを告げる。
「うん、ホントに、ありがとね」
またも礼を言うヨシノに、片手を挙げてそれを制す。
と、その彼女の後ろから、司書の先生が声をかける。
「野々山さん」
「は、はい」
(……野々山さん……?)
二人のやり取りを怪訝に思うのと同時に、ある記憶が、俺の脳裏に過った。
「僕のリサーチでは、白石さんと藤崎さん、それに、二組の野々山さんも入れて、この三人が一年の三大美女だね」
「野々山さんだね。気になるのかい?」
「野々山愛乃。小動物的なかわいさで人気も一位」
思い出したのは、五限の体育での鳥居の言葉。
愛乃の名前を間違えて覚えていたことを知って、俺は頭が痛くなるような気がした。
それならそうと言ってくれればいいのに、と思うが、こっちが勝手に勘違いしたのだ。それを愛乃が知るはずもない。
「もう時間だから、あなたも帰っていいわよ」
「あ、はい、わかりました」
時計を見ると、時刻は四時を回っていた。図書委員の業務終了時間だ。
愛乃の帰り支度を待ってから、一緒に図書室を出ることにする。
その間に、俺の方も、読みかけの本の貸し出し手続きを済ませておく。
司書の先生に挨拶をして、図書室を出ると、俺は改めて彼女の名前を呼んだ。
「野々山さん」
すると、愛乃はクスリと笑って言う。
「どうしたの、急に、改まって」
「いや、何と言うか、どうも俺は、名前を間違えてたらしい」
俺がそう言うと、ヨシノはぽかんと口を開けて、何を言っているのか分からないような顔をしていた。
少しして、ようやく理解したらしい彼女は、もう一度笑って口を開く。
「ああ~、よく苗字みたいな名前、って言われるんだよね~。なんか、いきなり名前で呼ぶなんて、正直馴れ馴れしいと思ったんだ~」
「そ、そうだよな……」
あまりにも直球な愛乃の言い方に、俺は少しショックを受ける。
もっとも、俺自身、愛乃に下の名前で呼ばれて、距離が近すぎる、と思ったのだ。男子が苦手という彼女なら、尚更だろう。
「あ、でも、私のことは、もう名前でいいよ。今更苗字で呼ばれるのって、なんか変な感じだし」
「ああ」
それなら俺もそのままでいい、と言うよりも早く、愛乃が口を開く。
そして、妙なことを言い出した。
「だから、棗くんも、下の名前を教えてよ」
「……ん?」
一瞬、愛乃が何を言っているのか、俺には理解できなかった。
思考を巡らせ、やがて一つの可能性に辿り着く。
「林田」
「……ん?」
「林田棗って言うんだ。俺の名前」
「……へえ~……」
しばし沈黙。
そして、どうやら、彼女も自分の過ちに気付いたらしい。
「……は、林田、くん……?」
確かに変な感じがする。
「棗でいいよ」
「……はい……」
恥ずかしいのか、消え入りそうな声で、愛乃はそう答えた。