日常の風景
青白く光る本、成長した苗木、そしてその洞……立て続けに起きた私に好意的な現象に、自然と頬がほころぶ。疲れていたのだろう。ここ最近、私の身に降りかかった不思議な現象は恐ろしいものばかりであった。
今回のこれはかなりわかりやすい。洞に入ればいい、たったそれだけのことなのだから……
なにをしていいかわからない状況は、筆舌に表せられない苦痛であった。余裕がなくなっていたのだろう。おとぎ話は読むのに限る。
上機嫌で洞のなかに入っていく。降りていけるようだ。しばらく進むと、少し開けた空間に出た。久しぶりに目にする、苗木のあった部屋以外の光景が嬉しい。そこには、登り階段と降り階段があった。
上からは懐かしい気配がする。
きっと日本だ。
下からは恐ろしい気配がする。
きっとダンジョンを作るのに必要な何かなのだろう。
ふと後ろを振り返る。当然、私が降ってきた通路がある。そこから感じるのは幻想的な気配。どうやら、この場所はあの世界ではないらしい。
自分のなかに意識を向ける。感覚で、そして本能でわかる、私はもう人間の姿に戻れる。そう、ここでなら。
翼をぐっと中に押し込むように動かす……
体から力が抜ける。あふれていた神秘が霧散する。そこにはただの私がいた。
さぁ、それでは日本に帰ろうじゃないか!
そうして私は階段を登って行くのであった。
そこは私の部屋だった。何の変哲もないアパートの一室。
ありふれた光景がひどく懐かしい。
私が死ぬ前との差異は、部屋の中央に生える木のみ。ここが階段の出口になっていた。ダンジョンよりも天井が低く、窮屈そうに曲がっている。
あたりまえに過ごしていた日常の光景が、帰ってきたと視覚から訴えかけてくる。
そして……私は泣き崩れた。
死んでしまったという事実が恐ろしかった。
気を抜けば消えてしまう気がして。
次々と起こる不思議な現象が恐ろしかった。
慣れると戻れなくなる気がして。
ずっと堪えていたものが決壊して、私は感情のままに泣き続け、いつしか寝てしまうのであった。
§
あれから5日たった。その間、食事とお風呂以外はずっと布団で寝ていた。
自分でもわからないほど、精神的に参っていたようだ。
今では、夢をみていただけだと思えるようになった。
ふと、視界に幻想樹が写る。(幻想的で綺麗なのでこう呼ぶことにした)
現実逃避を咎められたようで居心地が悪い。
そうだ! 大学に行こう! きっと楽しいに違いない。
久しぶりに外に出た気がする。頬を撫でていく冷たい風が心地よい。
もうじき冬になる。今度、新しいコートでも買いに行こう。
とりとめのないことを考えながら大学への道をだらだらと歩く。
だいぶ休んでしまった。今日はとっている授業はないが、誰かいないだろうか?
知り合いのいそうな場所を見て回る。
食堂、談話室、パソコン室……誰もいない。
いつものメンバーに連絡をとってみようか? いつでも会えるのだ。そこまでするほどではない。もう少し探してみよう。
図書館、購買、近くの喫茶店……誰もいない。
毎日のように顔をあわせていたのに、探すと見つからない不思議。どうやら本当にいないようだ。仕方ない、今日は諦めよう。
良い気晴らしになった。お昼ご飯でも食べて帰ろうか。
既に日は傾いている。いろいろあって生活習慣が乱れてしまったようだ。
喫茶店から食堂に戻る道すがら、夕焼けに燃える空を眺める。幼いころから何度も見ているはずの空。それなのに、何故こんなにも心が奪われるのだろうか?
今日はなにを食べようか? 食べなくても生きていけるようだが、どうも食べた方が調子がいいようだ。
食堂で今日のメニューを見る。微妙な時間なせいか、あまり選択肢がない。
ネギトロ丼定食にしよう。好きなのだ。今日はネギトロ丼の日だったか。すっかり忘れていた。
食券を買って、定食を受け取りに行く。かなり空いている。並ばなくていいのは楽でいい。その反面、お喋りする学生で席はだいぶ埋まってしまっている。今日は隣の談話室で食べよう。
談話室の片隅。カウンター席に定食を持っていく。テーブルはだいたい誰かが座っているが、カウンター席はいつも空いている。ひそかな穴場だ。
うちの大学の談話室にはテレビがある。隣の席にカバンを置きながらちらりと見るとニュースがやっていた。そういえば、世間の情報をぜんぜん知らないな。最近は大変だったから仕方がないが、よくない。
味噌汁をすする。何故だか安心する。自分で作るよりも人が作ったものの方がおいしく感じるのは何故であろうか?
味噌汁をすすっていると、臨時ニュースを告げる独特の音が聞こえた。
どうしたどうした? どこかで地震でも起きたか?
どこか他人事のような感覚で今度はネギトロ丼を食べようと醤油をかける。真ん中を少しくぼませて、そこに入れるのがコツである。
ニュースの音が聞こえてくる。
「臨時ニュースです。先ほど、新宿区で仮装をした集団と頭に牛の被り物をした男が争っているのが目撃されました。集団は男を刺したあと逃亡しました。白昼堂々の犯行です。居合わせた通行人に多数の被害がでております。」
箸がとまる。意味が分からない。いや、頭が理解することを拒否している。
急に自分だけこの世界から切り離されたかのような不安。アナウンサーが興奮したかのようにまくしたてる。
「警察が男の死体を調べたところ牛の被り物ではなく、頭部が確かに牛であることが確認されました。男の死体は大学の研究施設に搬入されました。」
理解せざるをおえない。膝から崩れ落ちるかのような衝撃。アナウンサーの声が遠くに聞こえる。
「大発見です。空想上の生物の死体が発見されました。大学はこの生物は今まで確認されたことのない未知の生物で、ミノタウロスと呼ばれる空想上の生物と酷似していると発表しました。」
完全に理解した。
もう、はじまっている。
本を取り出して確認したい衝動を必死に堪える。
“ダンジョンの主を10人殺せば、強制的に戻されることはなくなる”
戦場は、あちらの世界だけではない。
ダンジョンを攻略する必要がない、こちらの世界の方がむしろ楽だ。
表情を変えてはいけない。焦ってはいけない。必要以上に反応してはいけない。
どこで誰が見ているかわからない。
もし、私がダンジョンの主であることがばれたら、次は私が狙われる。
急がず、けれど素早く定食を食べる。大好きなはずのその味がまったくわからない。
私は、いったいどれだけの時間を無駄にした?
「なにこのニュース? まじなの?」
「なはずないじゃん、きっとデマだよ。」
「でも、真面目なニュースだよ?」
談話室が喧噪につつまれる。みんな、非日常的な感覚を楽しんでいるのだろう。本気にしている様子の声は少ない。
5日間、私は5日間もなにもせずにいた。
大したことがないとは言えない。
“地球で1時間過ごしたら、こちらの世界では1日経っている”
向こうでは120日たっていることになる。
ゆっくりと、しかし確実に死神の鎌が私に近づいてくる様を幻視した。
他のダンジョンマスターは私よりも4か月分強くなっている。
まだ半分は残っている定食を返却台に持っていく。きっといま、私は酷い顔をしている。
はやく帰らなければ。一分一秒が惜しい。
食堂のおじさんが怪訝な顔をしていた。きっと、私が毎週あの定食をおいしそうに食べていたのを知っていたのだろう。
早歩きで大学をでる。帰り道を歩く。歩く。歩く。
焦燥感が募っていく。我慢できない。ついに走り始める。
なにかに追われるように必死に、なにかを追いかけるように焦りながら走り続ける。
逃げ込むように部屋に飛び込む。息が切れる、休みたい。体が酸素を欲している。
私はそれを無視して、倒れこむように洞に飛び込むのであった。