辛く生きづらい世界
どのくらい気を失っていたのだろうか? 部屋の中には苗木しかなく、時間を確認することができない。軽い倦怠感が心地いい。長い眠りから目覚めたとき特有の感覚に、それなりに時間がたっていることだけはわかる。
正体不明の頭痛もいつのまにか治まっている。調子を確かめるように頭をコツコツと片手で叩きながら起き上ろうと手をつき……私は見知らぬ本を持っていることに気が付いた。
その本を見ると、何故か心が落ち着いた。
明らかな異常なのに。
その本は神秘的だった。
まるでこの世のものではないかのように。
もはや、不思議なことが起こりすぎてこの程度のことでは驚かない。
真っ白のハードカバー、わずかに青く発光していて、月のように青白く見える。
表紙には、私の知らない文字で「追憶の書」と書かれていた。
取りあえず情報が欲しい。真ん中あたりからペラペラと本をめくってみる。
普通、本には様々な英知が記されている。私が期待するのも当然であろう。この本を読めばどうにかなる、私はこのとき確かにこの本に活路を見出していた。
……白紙であった。何枚めくっても、変わらず純白の可能性が私を出迎えた。次第にページを捲る手が速くなっていく。こんなはずはない、期待と現実のあまりの剥離に、湖面のように穏やかだった私の心は石を投げ込まれたかのように波立ちはじめる。
そんな時であった。本のページが勝手に捲られはじめたのは。
まるで強風に吹かれるように、パラパラとページが捲られる。
青白い光と相まって幻想的に見えるこの光景に、ただただ圧倒されてしまう。
それは長くは続かなかった。
ここを見ろと言わんばかりに、開かれたのは一番初めのページ。
安堵する、ようやくあった白紙ではないページに。
見開き2ページ両方に文字が書かれている。ひとまず私は、情報の少ない右側のページから目を通した。
***
名前:リン
種族:天使族(下級天使)
位階:1
***
全て、タイトルと同じ種類の文字で書かれていた。
どうやら私は天使らしい。やはり人間ではないようだ。一抹の寂しさを覚えるが、今は悲しみにくれている場合ではない。
いろいろと思うことはあるが、今度は左側のページを読んでみる。
そこには、タイトルとはまた違った趣の文字で次のように書かれていた。
***
1. ダンジョンコアを通して日本に帰ることができる
2. ダンジョンコアが破壊されたらダンジョンに強制的に戻される
3. ダンジョンコアが壊されている状態では、日本に帰ることはできない
4. 地球で1時間過ごしたら、こちらの世界では1日経っている
5. ダンジョンコアは壊れてから5日(地球換算、こちらでは120日)で修復される
6. ダンジョンの主を10人殺せば、強制的に戻されることはなくなる
7. 人を1万人殺せば、ダンジョンの主を1人殺したことと同じ扱いになる
8. 日本では元の人間の姿とモンスターの姿の両方の姿をとることができるが、ダンジョンのある世界ではモンスターの姿にしかなれない
9. 日本のものをこの世界に持ち込むことはできない
10. 30日後(地球換算、こちらでは720日後)にダンジョンは開放される
11. 全てのダンジョンの主は同じ時間にダンジョンで目覚めていて、ダンジョンが解放される時刻も同じ
***
……なんだこれ? 書かれている内容を少し吟味してみるとしよう。
まず、一番の魅力的な情報は1、つまりは日本に帰れるということであろう。私は死んだ。それにも関わらず、もう一度失ったはずの日常を送れるのだ。これを幸運と言わずしてなんと言おう? 未練のあったあんなことをして、後悔していたそんなことをする。もうできないと思っていた事ができ、二度と会えないと思っていた人たちと会えるのだ。
しかし、世の中そんなに甘くはない。問題になるのは2と3である。この二つの制約によってダンジョンを育てざるをおえない。ダンジョンを攻略されたら強制的にこちらに戻され、しばらく日本に戻れないのだ。日常を送っていたハズが、侵入者にコアを壊されればいきなり命の危機である。これでは落ち着かないし、定職に就くのも難しいであろう。さて、ここまでは誰でもすぐに思い到り、そして次のことも思い到るであろう。そこがまた嫌らしい。6である。10人殺せば、この状況から完全に解放され、日常に帰還を果たすことができる。
日本でまっとうな人生を歩みたかったら、これを利用するか難攻不落のダンジョンを作り上げるしかないであろう。難航不落のダンジョンを作ったとしても、(狂気的と言っても過言では無いほどに)楽観的な人物でなければ、不安で眠れぬ夜を過ごすことになる。それこそ発狂しそうなほどに。確実に殺し合いになる。
日本に帰れる喜びと、今後の不安の間で揺れ動く……なにかがおかしい。
……
……
……何故、私はこの文字を読める? そして、ここがダンジョンであることをなぜ知っている?
気づきは突然だった。私は、ここが私のダンジョンで苗木がダンジョンコアだとなぜか知っていた。自分が自分でなくなったように薄気味が悪い。落ち着き払っていた心が再び荒れ始める。
いつからだ? いつから私は知っていた?
考える。私は思考を加速させる。
苗木を触ったときからだ……
そのときから私は、ここがダンジョンで私がダンジョンマスターであることを知っていた。どうやら、ある程度の知識を植えつけられたようだ。
必死に思い出す。この世界の常識を……
私の記憶が、敵は他のダンジョンの主だけではないと告げている。
いったい、どのくらいの時間を寝ていたのだろうか?
私は焦っている。何故なら、頭に直接植えつけられたこの世界の常識に、「ダンジョンは害悪、直ぐにダンジョンの主を殺すべき」「ダンジョンは宝の山、殺して奪え」などという碌でもない情報があったからだ。
日本に帰れるという情報がひどく空虚に思えてくる。この世界はダンジョンに優しくない。
「しかし、なんて陰湿な……」
そう、陰湿なのだ。植えつけられた常識の中に「ダンジョンの作り方」は存在しない。あくまで一般人が知り得る情報しかないのだ。信じがたい不親切さ、しかしご丁寧にダンジョンを作らなければ命が危ないことは情報からわかる。
わかることは、本を使うことと、コアに魔力を注ぐことのみ。本に書かれていた、日本への帰り方もわからない。
魔力というファンタジー特有の不思議な力に興味が注がれるが、今はそれどころではない。なんとか、ダンジョンを作り上げる目処をたてなければ。
おそらく種族の本能なのだろう、魔力の使い方は不思議とわかる。手のひらに意識を集中し、力を込めれば何かが放出されるのがわかった。苗木に触れてそれをやれば、苗木に魔力が溜まるのもわかった。
「溜めてどうすればいい?」
そう、溜め方はわかるがその後どうすればいいかがわからない。どうしろと? 先ほど得た常識から魔力は休息をとることや、時間経過で回復することがわかっている。多く溜めておいたほうがいいことは明白なので、取りあえず全ての魔力を木に入れてから考えよう。
§
十日たった。なにもわからず、ただただ魔力を木に入れるだけで十日たってしまった。もちろん何も試さなかったわけではない。魔力がきれる度に休憩がてら色々なことを試した。壁に向かって「通路よ、できよ!」と叫んだり、苗木に「苗木さん苗木さん、お願いします、通路を作ってください」と話しかけたり、苗木を蹴っ飛ばしたりした。
しかし何も起こらない。魔力が足りない可能性もあるが、十日溜めて通路一つ作れないのならば、それはそれで絶望的だ。まともな迷宮になるまでに、一体どのくらいの時が必要だというのだろうか?
壁に生えた苔は夜になると光が弱くなるようだ。初めは焦ったが、苔のおかげで大体の時間がわかる。
何もできずに三日間が過ぎ去ったときはものすごい焦燥感に襲われたが、十日たった今となってはもはやなにも感じない。
取りあえず日本にいったん帰って、一息つきたいがそれさえできない。
人間を辞めてからお腹が空かなくなったのが唯一の救いだ。もし人間のままダンジョンの主になっていたら、餓死待ったなしであったかもしれない。大事と評判のこの苗木も食べてしまったことだろう。
今日も今日とでひたすらと苗木に魔力を込める。勤勉さは日本人の美徳である。勤勉なふりをすることが得意な私も、外国人からみたら典型的な日本人である。「もう、手でダンジョンを掘ってしまおうかな?」などと考えていたら、近い将来への不安と憂鬱な気分から軽く眩暈がしてきた。
魔力をこめていた手をひっこめ、大きく伸びをする。今日はもうやすもうか……などと考えていると、本を持っていたもう片方の手が苗木にあたった。
本と苗木が触れ合う。瞬間、苗木に青白い光が移り光輝きはじめた。
神話の1ページのように幻想的だ。青白く輝く苗木は、早回しのように成長をはじめた。
先ほどまでは私の腰程度の高さしか無かったハズの苗木が、今では私の身長の倍以上の高さがある、立派な木に成長していた。天井すれすれの高さである。しかも、根元にはいつの間にか立派な洞ができている。ここにはいればいいのだろうか? ようやくファンタジーらしくなってきた。なんだかウキウキするじゃないか!