異常が日常となった日
普通とはなんであろうか? この問いに答えることは、前述の通り容易ではない。しかし、誰からみても普通ではない人間がいることは事実なのではないだろうか? 例えば、初対面の人間にいきなり不躾にも「頭がおかしい」と暴言を吐きかけるような人間は、異常であるといっても過言ではないと思う。
徒然なるままにいろいろ考えているが、そろそろ現実をみるべきであろう。人だかりの中から私の死体を見る。ここからでも、その命の灯火が消えたことは疑いようがない。つまり、私は疑問の余地もなく死んでいる。
それでは、私の耳元で話しかけてくるこの声はいったい何者なのだろうか?
偶然、私のすぐ後ろにいる人が誰かに話しかけた?
ありえない、先ほどまでそこには誰もいなかった。
偶然、死者をみることができる人がいて近づいてきた?
ありえない、とてもこれが人間であるとは思えない。
意識をした途端に、恐怖に動悸が激しくなる。死後という極限状態であるにも関わらず、さらに体調が悪くなる。
耳元で囁くその声はそのくらい常軌を逸していた。
死亡直後の死者に話しかけるもの……
それは死神ではないだろうか?
本能的に逃げようとするが、体が恐怖で動かない。足がまるで借り物のように言うことを聞かない。
背後に居る邪悪に私が私でなくなったような錯覚を覚える。
根源からくる恐怖が、その邪悪について思考することを拒否する。
そんなときであった、パチリと指を鳴らす音が背後から聞こえたのは。
たったそれだけのことに過剰に驚き、ギュッと目を閉じてしまう。
……1秒……2秒、なにも起こらない。
おそるおそる目をあけると、…………全ての色がなくなっていた。
明らかな異常に頬が引きつる。私の真っ赤な血はただの黒にしか見えず。紅葉が鮮やかであった木々はモノトーンになっていた。あれだけ騒がしかった喧噪もなくなり、今では静寂が耳に痛い。
眼だけ動かし周りを見る。……いない、誰もいない。
視界にあるのは、今では私の死体だけ。
「…………」
背後から愉快そうな息遣いが聞こえた。
その邪悪をなんとか思考の外に追い出そうとする。
考えると、何かが起こってしまう気がして。
再度、パチリと指を鳴らす音が聞こえる。
瞬間、私の死体が蠢く。
まるでビデオの逆再生のように折れていた手足が治り、死体が空中に浮く。
私の体も死体に引き寄せられる。そこが私のあるべき場所であることを、ようやく思い出したかのように。
ぐんぐんと私が私に近づいていく。
加速した意識の中、確かに私と目が合う。
気が付くと、私の意識は私の体のなかにあった。
そして、まるで微睡むかのように、私の意識は闇に落ちていくのであった。
§
夢をみていたかのような感覚に、ゆっくりと目を開いた。自分の身に降りかかった不幸を思い出し、慌てて体を起こす。あんな危険な状況で気を失うとは、私はどこまで暢気なのだろうか。
邪悪の気配は既にない。ひとまずは安心していいようだ。
死後の世界にしてはあまりに無味乾燥な周りを見渡す。私はいつの間にか何もない四角い部屋の真ん中に立っていた。
地面も壁も土のようなもので出来ており、ちょうど学校の教室と同じくらいの広さ。壁には光る苔のようなものが生えている。
この無味乾燥さはある意味では死後の世界に相応しいのかもしれないが、棺桶のなかに小人になって入ったような落ち着かなさを感じる。
こんな部屋にどのようにして入ったのだろうか?
ドアのない部屋に恐怖すら覚える。壁に近づき苔を調べる。苔は簡単に剥がれたが、壁から剥がすと光らなくなってしまった。大切な光源をわずかに失ったことに若干の焦りを覚えるが、今はこの状況を把握することこそが重要である。
「なんで!? さっきまでは確かになにもなかったのに……」
部屋の中心には一本の木が生えていた。木とはいっても苗木程度の大きさしかないが、確かにそこに生えている。先ほどまではなにもなかったというのに……
背中の違和感、意識を向けてみる。そこには翼があった、結構大きい……手足のように動かすことができてしまい、嫌でも自分の体の一部であることを自覚してしまう。
私はまだ人間なのであろうか?
取りあえず、木を調べてみる。
先ほどの邪悪とは正反対の、ある種の神々しさすら感じるその苗木に触れ……
瞬間、頭に激痛が走り私は再度意識を手放した。