(プロローグ)日常の終わり、異常の始まり
普通とはなんであろうか? 私は横たわるそれを眺めながら、現実逃避気味にそんなことを考えていた。
自分で自分のことを頭のおかしい人間であると思っている人は稀であろう。誰もが己の基準で自分は普通の人間だと思い、自分の常識から大きく外れる人間を異端者、或いは変な奴とみなす。本当に誰もが納得できる絶対の基準など存在せず、みな思い思いの基準で他人のことを判断する。
誰かにとって普通であることも、他の誰かにとっては普通であるとは限らず、そのため誰からみても普通の人間などきっと存在しないのであろう。みんなどこかおかしな所をもっている、それが普通なのだから。
ザワザワと、徐々に喧噪が大きくなる。集まってきている人も自分だけは絶対に普通の人間だと思っていると想像すると、なんだか面白い。
ザワザワザワザワと、どんどん人が集まってくる。なかには携帯電話を取り出して皆がみているそれを撮っている人もいる。そんな非常識な人でも、自分は普通だと思っているのだろう。非常に面白い。
ザワザワザワザワザワザワと、人だかりができる。人は何故こんなにも好奇心旺盛なのだろうか? その能天気さが鬱陶しくもあるし、羨ましくもある。かくゆう私もその喧噪にまじり、この人だかりの原因であるそれを眺めている。今の私ほど悲壮感が漂う顔つきをしている人はそうはいないだろう。自分と周りの温度差が、笑い転げたくなるほど面白い。
さて、自己紹介をしよう。私の名前は小鳥遊凛、一時期は(私の中で)存在を危ぶまれていた普通の大学生だ。どこにでもあるような普通の人生を歩んできた。周りに流されて漠然と大学に進学したし、適度に遊び適度に勉学に打ち込む、私の中では普通の大学生活を過ごした。三年の終わりには(楽園の終わりを感じつつも)リクルートスーツに身を包み就活へ身を投じた。ここまでの私の人生は、多くの子供が思い浮かべる自分の将来だろうし、付け加えるなら多くの人はその後、サラリーマンになり結婚をして地味だが幸せな人生を送ることを思い浮かべるだろう。
しかし私は失敗した。圧倒的で取り返しのつかない失敗だ。大きくはないが小さくもない会社にやっとの思いで内定を貰い、余裕をもって卒業することができるだけの単位もとった。しかし、一人旅を計画したのが間違いだった。結論から言おう。私は今、自分の死体を眺めている。
切っ掛けは些細なことだった。一人旅でとある寺を訪れた私は気ままに散策をしていた。その寺は、古都と呼ばれる日本でも有数の観光地にあり、多くの人で賑わっていた。私は暢気にも修学旅行の思い出を回想しつつ、あの時の自分と今の自分を比較していた。
嬉しかった、まだ幼さが残るあの頃からの成長が……
懐かしかった、友達との意味のない会話が……
そんな取り留めのないことを考えながら、諺にもなっている有名な舞台を歩いていた。そこから一望する景色は本当に綺麗で、思い出と相まって思わず顔が綻んでしまった。無表情、ポーカーフェイスと友人に揶揄される自分がこんなにも感情豊かな人間だとはじめて知り、それが無性に嬉しかった。そんなときだった。視界の端に舞台から身を乗り出している女の子が映ったのは……
初めは「危ないな」と思う程度のことだった。そう、その少女がバランスを崩すまでは……
その光景を見た瞬間、助けなきゃと思った。否、思ってしまった。順風満帆に進む人生に自惚れて、虚偽の万能感を感じ、柄にもなく舞い上がっていたのだろう。少女の手を引っ張りこちら側に引き戻す、そして、当の私は自明に向こう側に投げ出される。一瞬の浮遊感。生存率は85%という雑学を思い出すどこまでも暢気な私を殴りたい。咄嗟のことに体制を整えることもできず、私は頭から落ちてしまった。
そして、今にいたる。先ほどまでの楽しかった気分は霧散し、絶望感しかない。己の不幸を嘆きながら、自分の死体を眺める。この人だかりの中の人にとってはちょっとした話のタネでしかなく、少し経てば忘れる程度のことだろう。しかし、当事者の私にとってはあまりにも致命的すぎる出来事。絶たれた未来、もう会えないであろう友人、悲しみ嘆くであろう家族、それらのことになんともいえない気分になり、己の運命を呪っていた。永遠に続くとすら思える喧噪、人の不幸を喜ぶ普通の人々、憤りすら覚えたそのとき、誰かが人の波を突き破って私に縋り付いた。血まみれで、私ですら触りたくない私の死体にである。
「ごめんなさい……」
私の助けた少女だった。走って来たのであろう、息が荒い。急いで来たのであろう、靴が脱げてしまっている。うるさい喧噪のなかでも、その少女の声は何故か私によく聞こえる。
「助けてくれてありがとう……未来をくれてありがとう……」
その言葉を聞いて私はハッとした。私は何を腐っているのだろうか? 平凡な私の人生だったけど、私は最後に偉大なことをした。私によってつながれた未来。「私にはすごい友達がいた」と自慢げに話す友人。「あれは俺の子供なんだ!」と自慢げに話す両親。そんな光景を幻視することができた。私は最後に一人の女の子の英雄になれた。現金で単純な自分に苦笑しつつ、悲壮感も絶望も明後日の方向に投げ飛ばす。この誇りを胸に、潔く死んでやろう。私はくるっと踵を返し、歩き始めた。死後の世界でもなにかすごいことをしてやろう。不敵に笑いそんなことを考え、風をきって歩く。
そして、その声が聞こえる。やけにはっきりと聞こえる、その声が……
「君、いい感じに頭がおかしいね。最後の一人は君に決めたよ。」
思い返してみれば、私の日常が終わり異常な日々が始まったのはこのときだったのかもしれない。