脅迫状
夢を見た。
ずっと昔の、今まで思いだしもしなかった古い記憶。
「おにいちゃあん」
呼ぶ声がする。
まだ幼い頃のローが、妹をふり返って手を差し伸べる。
「ほら、もうすぐだよ。イェニ」
追体験ではなく、少し離れた所からただ眺めているだけの夢だ。
(ここは……)
二人は手をつなぎながら、港の船の停泊地を仲良く歩いている。
視線を少しずらせば、はるか彼方に水平線が見える町。故郷のゴータに吹く潮風は、夢の中でさえ鮮明に思い出せる。
「おとうさん、また船にのって行っちゃうの?」
妹の言葉に、幼いローはにっこり笑ってうなずく。
「そうだよ。大きな仕事が入ったんだって。しばらく帰ってこないんじゃないかなぁ」
(そうだ。これはあの時の……)
父は貿易商だった。
ゴータの港に入ってくる品物を、海路から各町に送り届けるのが父の仕事だ。
小さな会社だから名前も有名じゃないけれど、船に積んだ荷を無事に送り届けることに父は誇りを持っていた。
ローはそんな父を尊敬し、いつかは自分も、と当時から言ってはばからなかった。
忙しいのは分かっていても、弁当を届けるという名目で父の仕事場にこっそり忍び込むのがローの日課だった。
難しい話はさっぱり分からなかったが、父と同じ場所に立てるのが嬉しくて仕方なかったのだ。
この日も、同じ船乗り仲間たちと最終的な航路の調整をしているはずの父のもとへ向かっていた。子どもにとっては大きな荷物を抱えて。
妹がぎゅっとローの手を握る。
「どうしたの?」
突然立ち止まったので、ローはうつむく妹の顔を覗きこんだ。
妹は涙を目にいっぱいためていた。
ローは慌てる。
「心配なのは分かるけど、仕方ないだろ。それが父さんの仕事なんだもの」
「でも、海はあぶないんでしょ? カーサのおとうさんも海で……し、しんだんでしょ?」
「イェニ……」
「近所のトッドも、こないだ海でおぼれたって言ってたよ。おとうさんも……おとうさんもいつか……」
海が危険なことは、ゴータの子どもなら誰でも知っていた。
貧しい船乗りや漁師の家が多かったからだ。どんなに万全の態勢を整えても、大時化で航路を外れ遭難する可能性は決して低くはないのだ。
ましてや、金がかかると設備を整えずに古い船を使い続ける者も多い。
漁や航海に出て、帰らぬ人になることは珍しくなかった。それでも家族を養うため、ゴータの人々は海へと向かうのだ。
夢の中だから、幼いローが次に何を言い出すのか分かっている。
「じゃあさ、お守りつくろう」
幼いローは明るい声で言った。
妹を泣かさないために。
「お、ま……もり?」
「そう。父さんがちゃんと次の航海もぶじで帰ってくるように。二人でちゃんとお願いしたら大丈夫だよ」
「ホント?」
「だって二人分だもん。絶対!」
根拠なんてない。
だけど兄の自信に満ちた言葉に、妹は安心してやっと笑った。
「……うん!」
夢の中だからだろうか。
満面の笑みを浮かべているはずの妹の顔も、姿も、蜃気楼のようにかすんではっきりと見えなかった。
◇
エンテルの屋敷に滞在して、もう五日目になる。
『そこ、もうちょっと左ですわ』
トラメ夫人の指示に従い、やや左にずれる。
「この辺ですか?」
『そう。そこの戸棚、開けてご覧になって』
言われた通り、戸棚をそうっと開ける。
ぴぎーっ!
「マルチナさんっ! 見つけました!」
戸棚の中からかさこそと根を動かして逃亡を図る人面花に飛びついた。
茎の部分を押さえこみ、捕獲に成功する。
始めの内こそ慣れない環境と特殊すぎる屋敷の事情におっかなびっくりだったローだが、五日もするとずいぶん動じなくなってきた。
人面花は見かけの割にかなりすばしっこいので、ひとたび見つけようと思うと屋敷をひっくり返すような大騒動に発展する。
おまけに。
「こっちも捕まえたよ。骨が折れる花たちだよ、まったく!」
片手に人面花をわしづかみにしたマルチナが、応接室に入ってきた。
なんと、エンテルの屋敷には人面花が二匹いるのである。
ローは手の中で暴れる人面花を押さえながら、さりげなく葉っぱの一枚をめくってみる。
〈マリアンヌ〉
女の子だったらしい。
「一体どこから入ってくるんでしょうね……窓も開けてないのに」
人面花たちは普段屋敷の庭にて放し飼いにされているが、いつの間にやら建物内に侵入し食料庫をあさることがしばしば。
マルチナに発見され次第、こうして即席に人面花捜索隊が組まれるのである。
ちなみに太い根っこ一本をヘビのようにくねらせて移動するのがマリアンヌ。根っこが複数に分かれ、タコのように歩く方はステディというそうだ。
マルチナはうんざりしたように息をつく。
「さてねぇ。どこからか入ってくるんでしょ。『魔法』とやらにはとんと疎いからさ!」
二匹の人面花たちも誰かの『魔法』によって生まれたものだという。飼い主の手にあまった二匹をウェルフが引き取ったのだ。
ステディやマリアンヌという名前も、恐らくもともとの持ち主がつけたのだろう。
『そもそも存在自体に品がなくてよ。目障りだから燃やしてしまったらよろしいのに』
「いや、それはちょっと」
トラメ夫人の恐ろしい発言に、人面花たちが震えあがる。
確かに潔癖なトラメ夫人にとっては、口だけしかない人面花は美意識に反するのだろう。
ローは苦笑する。
「ご協力感謝します、夫人。助かりました」
『次がないことを祈っておりますわ。わたくし、食い意地しかない無遠慮な花になど時間を割かれたくはございませんから』
どうせ壁にかかっているだけだから、時間など有り余っているだろうに。
と思ったことはこっそり胸の内にしまいこんだ。
「そういや、さっき若旦那様に会ったんだよ。あんたを呼んでくれってさ」
ぴたりとローは動きを止めた。
「ぼく、ですか?」
何の用だろう。
ここ数日、何やら領地問題でトラブルがあったらしくウェルフはずっとそちらにかかりきりだった。会話はおろかまともに顔も合わしていなかったのだ。
「執務室にいるんじゃないかねぇ。こいつらは私が外に放り出してくるから、あんたは先行きな」
「は、はい!」
ローはトラメ夫人にやりこめられてすっかりしぼんでいるマリアンヌをそのままマルチナに託し、執務室へ向かった。
階段をのぼり、使用人たちの寝室や客間の前を横切る。この廊下もようやく歩きなれた。何せ部屋数が多いので、始めの三日は何度も迷ったものだ。
何度か突当たりを曲がり、やがて一枚の扉の前に立つ。
ノックしかけたが、ローは躊躇して隣の扉の方へ向かった。別に部屋の位置を間違えた訳ではない。執務室の入口は二つあるのだ。
「失礼します」
中からの返事を待ってから、そっと入室する。
昼なのに薄暗いのは、窓という窓のカーテンを引いてしまっているからだ。古くなった紙の匂いに、ほんの少し埃っぽさが混じる。扉から入って正面に木製の重量感あるデスクが据えられ、机上のたくさんの書類の向こうにウェルフはいた。
青年は顔も上げないままローに声をかけた。
「呼び出してすまないね。すぐに終わるから、ちょっと待っていてくれるかい?」
「あ、はい。どうぞ、ごゆっくりなさってください」
ローはそう答えて、執務室の中をぐるりと見渡した。
ウェルフが仕事場としている執務室は書斎を兼ねている。
驚くべきはとにかく本の所蔵数が多いことだ。部屋中の壁には本が所狭しと並べられ、それでは足りないと隣の部屋の壁をぶち抜いて新たに本棚を整列させているほど。
執務室に扉が二つある謎は、つまりはそういうことである。
その時、ウェルフが声を上げて大きく伸びをした。長い足で机を蹴っ飛ばしてしまい、「おっと」とつぶやく。
机が揺れたはずみに書類の上に積まれた封筒から便箋が一枚、ひらりと舞ってローの足元に落ちた。
拾い上げてみると、簡潔な文面が目に飛び込んできた。
『あなたとあなたのまわりに不幸がおとずれますように』
ひっと悲鳴を飲み込んだ。
なんとも分かりやすすぎる怪文書だった。みみずののたくったような字が余計におどろおどろしさを醸し出している。
「あぁ、それか」
ローの顔色で何が落ちたのか分かったのだろう。ウェルフはくすくすと肩を震わせた。
「今朝、郵便受けに入っていたんだよ。斬新な脅迫状だと思わないか?」
「きょ……っ」
脅迫状。
言わずもがな、脅迫する文書のことだ。
だが、ウェルフはまったく意に介さない様子である。
「差出人は分かっているんだ。最近恒例のイベントだから気にしなくていい。そいつに『魔法』はかかっていない」
「あの、そういう問題じゃ、ない気が」
彼が言うと全く冗談に聞こえなかった。
さて、と立ち上がったウェルフは、ローの手から手紙を取り上げた。
「私が君を呼んだのは、ちょっと付き合ってほしいからだ」
「付き合うって、どこに……?」
久々のまともな会話。
ウェルフが忙しかったせいもあるが、先日の事件の後、ローは意図的に彼に会わないようにしていたのだ。
突如、狼男に変貌した人間。
初めて知る『魔法』。
それをいとも簡単に解いてしまった青年の姿。
正直混乱していた。そして何より、恐ろしいと思ってしまった。
自分がこの屋敷に呼ばれた意味を、知るのが怖い。
そこへ、ずっと不干渉を貫いてきたウェルフが数日ぶりにローを呼びだしたのだ。ウェルフの言葉を身構えて待った。
「うん。下町まで買い物に」
…………。
ローは数秒たっぷり考えて、ようやく答える。
「……はい?」
「いや、いくつか行きたい所があったんだが、ずっとばたばたしていたからな。
……実は、君にロトトアの町を案内していないだろうと、さっきマルチナに怒られたんだよ。ずっと屋敷に閉じ込めていたら可哀想だとね」
ずいぶん呆けた顔をしているのは自分でも分かった。
この五日間のローのやることといえば敷地内の散歩や庭園での日向ぼっこ、厨房係のマルチナや執事のマーシャルに頼み仕事の手伝いをさせてもらうことくらいだった。
マーシャルを始めとした使用人たちの配慮のおかげでローの生活は快適だった。不満などない。
「どうかしたかね?」
ウェルフはローの顔を見て、眉根を寄せて尋ねる。
「いえ……あまりに予想外だったもので」
答えながら、肩の力が抜けるのを感じた。
本当、この人は他人のペースを乱すのが上手すぎる。
彼に自覚はないのだろう。だからこそ、変わり者などと巷で呼ばれているのだろうから。
「いつ出発しますか?」
「昼前には出たいな」
「分かりました」
きっと、自分はウェルフに救われている。
それだけは確かだと思うのだ。
次回は19日の23時に投稿します。