狼男
次の日の朝、ローは屋敷の慌ただしさに目を覚ました。
ベッドで寝がえりをうっている内に知らず眠ってしまっていたらしい。カーテンを払うと、まだ外は薄暗かった。日の出前なのだろう。
こんな早い時間にも関わらず、階下で使用人たちが走り回っているのがかすかに聞こえた。
寝なおす気にもなれず、のそのそと着替えていると扉をノックされた。
「グロウディア様。起きておられますか?」
「は、はいっ」
昨日案内してくれた執事の声だった。確か、名前はマーシャルといったか。自分の幼い頃からの世話役なのだ、とウェルフが教えてくれたのだ。
「朝早くに失礼いたします。すぐに居間にお連れするよう、ウェルフ様よりことづかっております」
「居間……?」
なぜこんな時間から、という質問は飲み込み、ローは分かりましたとだけ返事をした。
ため置きの水で顔を洗い手早く身支度を整えると、廊下で待っていたマーシャルといっしょに屋敷の中央にある居間へと向かった。
ふかふかとした絨毯に、暖炉の前の安楽椅子、談話するためのソファやテーブル。
居間は、客を招き入れるためのきらびやかな応接室とは雰囲気が変わって、居心地の良さと機能性を最優先に考えた部屋だ。窓からのぼったばかりの朝日が差し込み、早朝にも関わらず室内は明るかった。
しかし、ローはそんな居間の様子など意識に入ってこなかった。部屋に入った瞬間、とある一点にだけ目が釘付けになる。
獣がいた。
とにかく巨体で、三人掛けのソファをほぼ一人で占領する形で身体を丸めている。
全身が堅そうな毛におおわれ、指には鋭い爪が伸びていた。頭を抱えるようにうつむいているが、ぬらりと光る牙が確かに覗いている。
巨体をまとう服を見て、ようやくこれは人だったのだと分かる有様だった。
獣から発されるグルルッ……と地に響くうなり声に、ローの腕が粟立つ。
「おはよう、グロウディア君」
こんな時でさえ、ウェルフは落ち着きを払っていた。
応接室と似た素材のソファの上で長い足を組み、青年は堂々と獣の前に相対している。否、観察しているという方がふさわしかろう。
恐怖も不安も、緊張感さえウェルフは持ち合わせてはいなかった。
ただ彼の顔に浮かんでいるのは好奇心だけだ。
「そんな顔をしなくても、彼は人を襲ったりはしないよ。グロウディア君もこちらへおいで」
招かれるままウェルフのかたわらに立つ。その時ようやくローはソファの上の獣以外に来客者があるのに気が付いた。
獣によりそうように若い娘が、そしてその隣に白衣姿の男がたたずんでいる。
ローを見て反応したのは、白衣の男の方だった。
「おっ。その子が、前に言ってたお客さん?」
「あぁ」
どうやらウェルフの知り合いらしい。もしかしたら歳も近いのかもしれないが、ぼさぼさの銀髪とあごの無精ひげでずいぶん老けて見える。
しかしそんな容姿を裏切って、白衣姿の男は少年のように人懐っこそうに顔をほころばせた。
「こんな時間にごめんよ。ホントはもう少し日が高くなってからお邪魔しようかと思ってたんだけど、見ての通り緊急事態で」
「はあ……」
つられて会釈し隣を窺うと、ウェルフは彼を紹介してくれた。
「カイ・ノスカー。下町で診療所をやっていてね。見てくれはこんなだが、腕はそこそこ良いから安心していい」
「いろいろひどくないか?」
カイの苦情を無視し、ウェルフは続けた。
「で、こちらのソファの方はカイの患者だ。医学では説明のつかないような不可解な症状を持つ患者は、時々カイが私のところに連れて来るんだよ。そういう知識は私の方が詳しいからね」
不可解な症状。
ローはソファに座る獣を見て、不可解どころじゃないと思った。こんな症状聞いたこともない。
ウェルフはずっと、こういう人たちを相手にしてきたのか。
「状況は?」
ウェルフに尋ねられ、カイはドクターらしく表情を引きしめる。
「時間は昨日の深夜。お二人とも居酒屋〈リンゴの木〉で働いていて、昨晩も遅い時間に帰路についたんだな。んで、その帰り道に突然、こっちの彼が」
カイは獣の方を指し示した。
「いきなり狼男に変身しちゃった、と。夕べはきれいな満月だったし、狼男が出てもおかしくない状況だった訳だけどねぇ」
「くだらん冗談はよせ。それで?」
「現場がちょうどうちの診療所に近かったからさ。駆けこんできた二人を中に入れて落ち着かせた。しばらく様子を見てみたけど戻る気配もないから人が集まる日の出前に君の所へ連れてきた。以上。精密検査をするまでもない。ほぼ間違いなく『魔法』だよ」
魔法、という言葉にローは息を飲んだ。
昨日、ウェルフは『魔法』とは現象だと言っていた。人の望みが力を持つ現象だと。
この獣も、何らかの望みを『魔法』に叶えられてしまったのか。
ふむとウェルフは考え込む。おもむろに獣へ声をかける。
「意識はあるね? 話せるか?」
グルルルル…ッ
ずっと毛むくじゃらの手の中に顔をうずめていた獣は、応えるようにうめいた。喉の奥底から鳴るそれは、とても人の声帯から出せるような音ではなかった。
「何度かしゃべろうとしたのです、彼」
たまりかねて隣の娘が代わりに喋り出す。
「でも、ダメなんです。それどころか二本脚で立つのもつらいらしくて、わたしとドクターが二人がかりで抱えてやっとこちらへ辿り着いたんです。若旦那様ならきっと何とかしてくださる、そう伺って」
ひょろりと細いカイと小柄な彼女では、巨体を引きずるのも大変だっただろう。
ウェルフは代わりに娘の方に向き直った。
「せっかく来てもらってなんだが、彼を治せる保障はどこにもない。私は『魔法』についての知識は持っているが、『魔法』そのものをどうにかできる訳ではないのだよ」
「そんな……」
「『魔法』をどうにかできるのは、『魔法』を使った本人しかいない」
厳しくウェルフは断じた。それが現実だと突きつけるように。
「まずはこのようになった原因をはっきりさせたい。もう一度君の口から、昨夜のことを詳しく聞かせてくれ。一から全てだ」
「それが彼を戻すのに重要なのですか?」
「とても重要だ。『魔法』を解くのに必要なのは、〈誰〉が〈なぜ〉そのような『魔法』を使わなければならなかったのかを知ることだよ。話してくれるね?」
動揺を隠せないまま、娘はこくこくと頷いた。
『魔法』を解く、とウェルフは言った。自分には『魔法』そのものをどうにかできる訳ではない、と言いながら、しかし確かに『魔法』を解く術はあると告げたのだ。
ローは知らず、痛むほど手を強く握りこんでいた。
「彼の名前はランシス・ハートウッド。わたしはビオ・ジョーンズといいます」
娘、ビオは必死に自分の記憶の糸をたぐり寄せる。
「ドクターノスカーの言う通り、わたしたちはロトトアの南地区にある〈りんごの木〉という店で働いていて、ランスは店のシェフをしています。お客様に満足していただくためにいつも新しいレシピを考えているような、真面目で誠実な人なんです。
昨夜も閉店後に、自分が考えた料理をオーナーに見てもらっていて……いろいろ相談し合っている内に夜が更けてしまって。
オーナーは店に泊まっていくよう勧めてくれたのですが、次の日が非番だったこともあって家に帰ることにしたのです」
「ちょっと待て。じゃあ、なぜ君は残っていたんだ?」
続けようとした彼女を制止し、ウェルフは質問をはさむ。
ビオは力なく笑った。
「今回の料理は、わたしの発案でもあったんです。彼、最近は新しい案が浮かばないって落ち込んでいたので……それなら女性向きの料理はどうかって持ちかけたんです。居酒屋といえば男性の方が多いけれど、ロトトアの畑で採れる野菜やフルーツを使った、美容にいい料理なら女性のお客様も喜ぶんじゃないかと思って。
ランスも、それはいい考えだって言ってくれました。ランスが料理を作って、わたしが味見をして。
二人で考えた創作料理だったんです。だからオーナーに見ていただく時も、二人で一緒に……」
くしゃりとビオの顔がゆがむ。
「こんなことになるなら、余計なことを言うんじゃなかった。わたしのせいです。大人しく帰っていれば、ランスもこんなことには……」
泣くのではないかと思ったが、気丈にもビオは泣かなかった。
涙を押さえこむように長く息を吐き、「すいません」と断った後、話を再開する。
「昨日は満月でした。夜道も明るかったのでわたしは一人で帰るつもりだったのですが、道が途中まで同じだったのでランスが送ってくれることになりました。
二人とも仕事の後で疲れていたので、早く帰れる裏道を通ることにしたんです」
「ちなみに、彼女たちが通ったのは〈青旗通り〉のはずれの路地だよ」
今度はカイが緊張感を欠いた様子でのんびりと付け加える。
それを聞いてウェルフが眉をひそめた。
「またずいぶん物騒な所を通ったんだな。あそこは人通りが少ない上、月明かりも届かない。満月とはいえ、ずいぶん暗かったはずだ」
「ランプを持っていましたし二人だったので、あの時は大丈夫だと思ったんです」
か細い声でビオは弁明した。
「でも、仰るとおりです。ほんの少しなら、という油断がいけなかったんです。裏道を通りかかった時、三人の男たちにからまれて……。皆さん、ひどく酒を飲んでおられました。逃げようとしたのですが、男の内一人がナイフをふりかざして……」
これにはさすがにウェルフも、そしてローも驚いた。
よほど怖い思いをしたのだろう。ビオの声は震えていた。
「男に腕をつかまれた時は、もうだめかと思いました。ランスも抵抗しましたが、他の二人に押さえこまれて、どうしても逃げられなくて……。
目の前にナイフがちらついた時、わたし、怖くて目をつぶってしまったんです。あぁ、ここで自分は死ぬんだ。そんなことを思いました。その時、でした」
ビオの視線が一瞬、揺れる。
「すさまじい、声が聞こえたんです。町外れに時々出てくるアオグマの鳴き声に似ていました。
びっくりして目を開けると、ランスを押さえていた男たちが吹き飛んでいくのが見えました。そして、ランスがいた所に、とても大きな、その」
「君の隣にいるような獣がいた、と」
ウェルフの言葉に、ビオはためらいがちに頷く。
「襲われた時にランプを取り落してしまっていたのですが、ちょうど月の光が差し込んでいたので、かろうじて見えたのです。明かりに照らされる、大きなシルエットが……。
男たちは大けがはしなかったようで、その影を見てすぐに逃げ出してしまいました。わたしは情けない話ですが、腰を抜かしてしまって。『魔法』なんて信じていませんでしたし、あの時はかなり混乱していましたが、でも分かったんです。その影は、ランスなんだって」
獣の広すぎる肩を抱き、ビオは毅然と言った。
なんて強い人なんだろう。
きっとランシスという人を信じているからだ、とローは思った。強く強く信頼しているからビオさんは泣かないんだ。
「僕の診療所を訪ねてきたのはその直後ってわけだ」
振り返ると、カイはあくびをかみ殺していた。昨夜の騒ぎであまり寝ていないのだろう。
「夜中に扉を叩く音に起こされて、扉を開けたらもうびっくりだよ。大きな狼男が女の子を抱いて立ってるんだもん。彼、ビオさんが動けないのを、怪我してるからだって勘違いしたんだね」
「なるほど」
眼鏡を指で押し上げ、ウェルフは思案の表情を崩さない。
「ジョーンズ嬢、いくつか質問しても?」
「は、はい」
緊張した面持ちで身構えるビオに、ウェルフは予想外の質問をくりだした。
「君たちが考案した新メニューは、結局採用にいたったのかね?」
「えっ……、ええ。いろいろ香辛料を変えてみて、しっくりくる味が決まったんです。来週から、試験的に店に出してみようって」
「ほう、それはよかった。町に出た折にはぜひ寄ってみたいね」
穏やかにほほ笑む顔から真意は窺えない。
ビオは不安げに表情を曇らせる。
「あの……」
「帰り道、君とランシス・ハートウッド氏はどういう会話をしたのだね?」
今度こそビオはうろたえた。
「……何も」
「何?」
「何も、話しませんでした。ランスは普段から黙々と仕事をする人ですから……。あと、あの、疲れていたんだと、思います」
「あまりお喋りはしない質だと?」
「えぇ」
「道中は会話が途絶えて、無口だった」
「えぇ、そうです」
またもやウェルフはふむ、と考え込む。
「プライベートでは、あまり話したことがない?」
「はあ」
「なるほど、分かった」
ようやくウェルフは頷いた。
何か分かったのか、と身を乗り出すビオやローの前で、青年は優雅に足を組み直す。
「思ったよりシンプルな事情で安心したよ。上手くいけば、今日中に元の姿で帰れるんじゃないかな」
「本当ですか!」
ビオは手を叩いて、我がことのように喜んだ。
あぁ、と首肯し、ウェルフは意味ありげな笑みを浮かべた。
「本当だとも。エンテルの名において、約束しよう」
次回は16日の23時に投稿します。