ミウリ
時は少し遡る。
「どこへ行くというんだ、あのひつじは!」
ハイルは地団駄を踏んだ。
宿屋から飛び出してどれぐらい経ったか。
黒いひつじのぬいぐるみは道を、壁を跳ね回り、まるでハイルをどこかへ連れて行こうというように逃げていた。
疲れてハイルが立ち止まれば、ひつじも止まる。
観念したかと捕まえようとすれば、嘲笑うように飛び上がる。
「毛玉の分際で図が高いぞ!!」
ムキになって指を突きつける。
ひつじは相変わらずボールのように弾んでいる。一体何を考えているのか、何も考えていないのか。
ハイルは息をついて周囲を見回した。
裏路地から裏路地へと渡り駆け、高級住宅地の区画へと足を踏み入れてしまったらしい。
立派な門や庭付きの家が整然と並んでいる。
人影はなく、静かな道だった。
「新しい町だとは聞いていたが……ふん、なかなか綺麗な所ではないか」
ハン・デリーとその周辺は王国が滅びてから後に栄えた町だ。
しかしその歴史はかなり特殊である。
ある町から、忽然と人が消えた。
徐々に寂れたのではない。ある日、気が付いたら町に住んでいたはずの人々が消えたのである。
そしてその町は閉鎖され、風化し、今の遺跡へと姿を変えた。
なぜ人々は消えたのか。
消えた人々はどこへ行ったのか。
歴史の闇に消えて行った謎が、学者達の探究心を大いにくすぐった。
また遺跡は、長らく立ち入りを禁じられていたため当時のまま手付かずで残っており、王国時代の暮らしを窺い知ることができる歴史的建造物としても価値が高い。
だからこそ研究を進めるために人が集まり、やがて遺跡周辺が開拓され、研究者たちの町ができた。
これがハン・デリーの成り立ちである。
現在は遺跡の一部のみを一般公開しており、他は瓦礫が危険だからと未だに立ち入りを制限している。
しかしその一部の区画だけでも見てみたいと観光客が多く訪れる。
ハン・デリーは今なお急成長を続ける北地方有数の新興都市なのであった。
同時に、この地を守る旧時代の伯爵家ミケーレが今なお絶大な力を保っているという象徴でもある。
家族や周囲の人々の口から何度かハン・デリーの名は聞いたことがあった。
まさか自分がお忍びという形で訪れる事になるとは思っていなかったが。
「いっ!?」
町を眺めていると、横から黒い毛玉がすっ飛んできた。
もふっ!と側頭部に命中する。
「貴様…っ!」
はよ来い、とばかりに着地した黒いひつじがこちらを見上げていた。
「覚悟しておけ、貴様は後で必ず丸刈りにしてやる!」
足音荒くハイルはひつじの後を追う。
高級住宅地の合間を歩くこと数分。
黒いひつじは突然止まった。
さっきまで当然のように町を闊歩していたのが嘘のように、こてんと地面に転がる。
「なっ!?ど、どうした」
拾い上げるのは容易だった。
ひつじは完全にぬいぐるみになっている。
動かないのが普通であると分かっていながら、突然動かなくなると心配になってくる。
「一体なんだというんだ……」
住宅地のど真ん中である。
ハイルはひつじを抱え、動かなくなった原因を探していると。
「あ、危ない!」
「……は?」
少女が落ちてきた。
◇
どこの恋愛小説の展開であろうか。
いや、残念ながらそんな甘ったるいものではない。
ハイルはその全身をもって、少女を受け止める羽目になった。
着地の瞬間、少女の膝が鳩尾に突き刺さる。
「ぐはっ!?」
悶絶するハイルを余所に、少女は素っ頓狂な声を上げる。
「クロイス!」
少女が手を叩いて呼ぶ。
すると再び地面にころがっていた黒いひつじはぴょこりと跳ねて少女の手の中に飛び込んだ。
「よかったぁ。捨てられたって聞いて心配してたのよ。今までどこに行ってたの?」
「その前に貴様が下敷きにしてしまったこのぼくに何か言うことはないのか!?」
「きゃっ」
ハイルが押し退けると、少女は慌てて立ち上がりこちらを窺う。
「さてはあなた、誘拐犯ね!!」
「違う!!!」
少女はひつじを庇うように隠す。
警戒心をむき出しにされ、ハイルは諦めて息をついた。
「捨てられたと言ったな。貴様、もしやそのひつじの親か?」
「…………」
「そっぽを向くな!?」
「うっさいわね!誰が作ったって別にいいでしょ!このオールバック頭!」
「なっ……」
絶句。
温室育ちの彼は面と向かって「うっさい」と言われることに慣れていなかった。
頭を抱え、ハイルはよろりと後退した。
「貴族として身を整えるのは当たり前だろう!それを、お、オールバック頭とは何事だ!」
「貴族?あなた貴族なの?」
少女はきょとんとする。
ハイルの頭から足先までじっくりと眺めた。
「なんか、イメージと違うなぁ。貴族の御曹司って、もっと爽やかで優しそうな人だと思っていたわ。こんな神経質な感じじゃなくて」
「神経質!?」
「もっと線も細くて、白い歯を見せて笑うの。そして倒れた女の子に向けて、手を差し伸べるのよ。『お嬢さん、大丈夫ですか』って。あぁ、ロマンチック!ロマンチックだわ!」
きゃーっと気恥ずかしげに両頰を押さえる。
ハイルは眉間を指で揉んだ。
「妄想がひどい娘だ」
「最低!せめて夢見がちと言って!?」
「このぼくに言わせれば、どちらも同じだぞ。それより質問に答えろ。そのひつじを作ったのは貴様か?」
「貴様じゃないわ!私の名前は……」
言い返そうとした少女が、はっと後ろに視線を巡らせる。
「大変!」
少女は驚くハイルの手を引っ掴む。
「な、何を」
「いいから逃げるの!」
後ろからガチャガチャと金属音がいくつも追いかけてきた。
「いたぞ!」
「早く応援を……!」
「そこの君、止まりなさい!」
「ぜっったいイヤ!!」
少女は背後に向かって吠える。
左手に黒いひつじ、右手にハイルをつかみ、全速力で駆けだした。
「ななな、なんだあれは!?」
「騎士よ!」
「見れば分かる!」
追いかけてくる男たちは皆一様に簡易の鎧を身につけている。
その胸には岩に突き立つ剣の紋章が輝いていた。
「貴様、一体何をやらかした!?」
「父さんの鼻っ柱叩き折って逃げてきただけよ!!」
「たたっ……!?」
「あんた達、いい加減しつこいわっ!あたしは家に戻らない!!父さんに伝えなさい!」
きっと背中越しに睨みつけ、吐き捨てる。
「おばあちゃんを殺したあんたを、あたしは絶対許さない!!!」
少女の腰のポーチから、ばさりと白い翼が羽ばたく。
近くにいたハイルには、その羽が綿でできているとすぐに分かった。
「シズー!お願い!」
心得たとばかりにポーチから出てきたのは、フクロウだ。
白い綿の羽毛を羽ばたかせ、ブリキの爪で少女の肩をわし掴んで飛び上がる。
剥製ではないかと疑うほど精巧なフクロウは、少女とハイルの体をいとも容易く宙へと舞い上げた。
「ひッー!」
足元でぽかんと口を開ける騎士たちが小さくなり、屋根を越えて見えなくなる。
その光景を見送って、ようやくハイルは自分が空を飛んでいるのだと気が付いた。
いくつかの路地を越え、高級住宅地を抜けた辺りでようやくフクロウは降り立つ。
「な、な、な」
「これで撒けたらいいけど……」
フクロウの首回りを少女が指で掻いてやると、嬉しそうにブルリを身を震わせる。
そして少女を包み込みそうだった翼をたたみ、ひと抱えほどのぬいぐるみへと姿を変えた。
「ちょっと、立てる?早くここから離れないと」
「待て、待て貴様!」
「待たないわ。あたしは捕まる訳にはいかないもの。それにあたしの名前は貴様じゃない」
ひつじとフクロウを胸に抱えた少女は言い放った。
「あたしはミウリ。ミウリ・パーロよ」
次回更新は未定です。
→11月23日23時に更新します。




