前兆
ユイダは物心ついた時からミケーレ家の使用人だった。
捨て子であった自分を養ってくれたミケーレに返しきれないほどの恩がある。
幼い頃から使用人としての心得を叩き込まれた彼女は、若くからその人生の全てをミケーレ家に捧げようと決めていた。
彼女の忠誠心は当主であるミケーレ候も感心するほどであった。
まだ小さな長兄の世話をユイダに任せるほどに、彼女はミケーレ候の信頼を得ていたのだ。
「ユイダ」
はっと我に返り、しかしその素振りを見せぬよう平常を装ってユイダは返事をした。
「はい。なんでしょう、坊ちゃん?」
ずっと机で勉強していたハイルが、こちらを振り返っていた。
ユイダはハイルの外套を整えていた手を止め、ハイルのそばに傅く。
昔、ハイルがまだ小さかった頃から変わらないやり取り。
出会ったばかりの頃はハイルはこうしてユイダが頭を下げて命令を待つだけで満面の笑みで喜んだものだった。
「その、だ。……色々心配をかけていたようだ。悪かった」
あの頃より大人びたハイルが、気まずそうに切り出した。
ユイダは驚いた。
ミケーレの使用人として、こちらの感情の機微は見せないように振る舞うのが常だ。
まさか、主人に勘付かれてしまうほど自分は露骨に動揺していただろうか。
「坊ちゃん、何かユイダに至らない点がございましたでしょうか」
「は?」
「坊ちゃんが心労をおかけしてしまったのならば、ユイダが未熟だったのでしょう。どうぞ、折檻でもなんでもお受けします」
「あぁ、違う!そうじゃなくてだな……あぁ、くそっ」
ユイダの勘違いを慌てて否定し、ハイルは頭を掻きむしった。
ゆっくり言葉を選ぶ。
「その、このぼくの体調不良が続いただろう。それでお前に迷惑をかけたのではないか、とな」
「迷惑など。ミケーレ家のお役に立つのがユイダの務めです。どうか私めなどに謝罪の言葉をおかけにならないでくださいませ」
「そ、そうか」
頷きながら、ハイルの顔は少し気を落としたようだった。
ユイダは更に困惑する。
「……何か、あったのですか?」
思い浮かぶのは、あの飄々とした様子の少年だ。
ハイルの友達を自称しているが、果たして信用できるものか。
あの男が敬愛する坊ちゃんに何かを吹き込んだ可能性もある。
「あのご友人から、何かを言われましたか?」
今度はハイルが驚く番だった。
すぐに苦々しく笑う。
「かなわんな、ユイダには」
内心、歯噛みする思いだ。
あの正体の知れぬ少年がエンテルの回し者である疑いはまだ消えていない。
彼自身はあり得ないと断じて見せたが、ユイダは信じてはいなかった。
何よりハイル自身が、ユイダに何か隠し事をしている素ぶりがある。
それだけならまだいい。
問題は、ユイダにも告げていない秘密をあの得体の知れない少年と共有している節があるのだ。
自分の知らぬ間に、坊ちゃんに何かあったら。
そう思うだけで恐怖で叫びたくなる。
「坊ちゃん」
ユイダは胸に手を当て、ハイルの顔を覗き込む。
「ユイダに何でも話してくださいませ。坊ちゃんが気に病んでおられることを、何でも。このユイダで良ければ、力になりますわ。そのために貴方のお側にいるのですから」
坊ちゃんを守る。
坊ちゃんの役に立つ。
それこそがユイダの今の存在意義だ。
真摯に訴えるユイダに、言葉を詰まらせたハイルは視線をそらした。
「このぼくが三つの頃から、ユイダはそばにいるものな。タムバートに進学することに決まった時も、ユイダだけはこのぼくについてきてくれた」
ユイダはミケーレのメイドであり、同時にハイルの従者である。
「ユイダが本気なのは知っている。気持ちは、嬉しい」
「……」
「だが、すまない。全てを話すことは、まだできない」
やんわりとした、しかしはっきりとした拒絶であった。
これ以上詮索するな、と。
そう命じれば、ユイダには成すすべがないことをハイルは知っている。
「左様、ですか」
どうすれば良かったのか。
いつの間にか遠くへと離れてしまった主人を、どうすれば引き止めることができたのか。
ユイダのやるべきことは変わらない。
それでも。
ハイルとユイダとの間にある隔たりが、確かに大きくあって。
「どうすれば、いいんだろうな……」
ぽつり、呟くハイルの横顔は途方に暮れていた。
下手に隠すぐらいなら、もう全てぶちまけてしまえば良いのではないか。
そう思っていた矢先にかけられたユイダの言葉に、ハイルは思わず口を閉ざしてしまった。
『ミケーレ家にお役に立つのがユイダの務めです』
そうだよな。
こいつは、ミケーレ家に仕えているのだ。
このぼく個人に忠誠心を捧げる義理など彼女にはないのだ。
このぼくは偉大なるミケーレ一族の末端でしかないのだから。
「……少し、疲れているだけなんだ。医者からは睡眠障害などと診断されているが、悪いところはどこにもない」
嘘ではなかった。
身体的に悪いところはない。それはカイ・ノスカーに診てもらったので間違いない。
ただ、ハイル自身が迷っているだけだ。
自分の弱さを、不甲斐なさを、『魔法』を通して目の当たりにしてしまった。
完璧を求めていたはずの自分の心の闇に、まだどう向き合って良いか分からずにいる。それが『魔法』を更に不安定にさせている原因なのだろう。
自分は、完璧なんかじゃない。
嫌になるほど分かっている。
ただ、完璧でない自分を認められない。
今だって学校を休んでいても、少しでも参考書を開いていないと落ち着かない。努力を少しでも怠ればたちまち凡人に落ちてしまうのが目に見えてしまう。
特別でなければならない。
幼い頃から刷り込まれた強迫観念が、不安と焦りをあおってハイルを責め立てる。
「このぼくに異変があったとするなら、それはこのぼくの弱さのせいだ。ロスキーも、エンテルも関係ない」
「坊ちゃん……」
「この程度しか話せなくて申し訳ない。だが、大丈夫だ。病気ではないのだから、その内良くなる。それでいつも通りだ。何も問題はない」
大丈夫。
そう心で繰り返す。
あの少女にもう一度会いたい。
暗い暗い夢の淵で、こんなに惨めな自分を大丈夫だと笑いかけてくれた彼女に。
カタン…ッ
二人は弾かれるように音の方を振り返った。
廊下ではない。
部屋の中、二人にほど近いところで何かが動いたように聞こえた。
「まさか……」
ハイルは黒いひつじを凝視した。
そんな馬鹿な。
ひつじは彼らが見ている前でひょこりと動き始めたのである。
「……っ!」
黒いフェルト玉が一人でに跳ねる。
ハイルの身長ほどに飛び上がったひつじはそのまま床を蹴り、わずかに開いていた窓の隙間から外へと吸い込まれるように消えていった。
「なっ……!?ま、待たんか!」
「坊ちゃん!?」
泡を食って部屋を飛び出したハイルの背後からユイダの声が聞こえる。
階段を駆け下り、宿屋を出て見回すとひつじが路地の角を曲がるところだった。
『いやぁ、案外手がかりの方がこっちに来そうな気がするんだよね』
能天気な笑い声を思い出して、ハイルは腹の底からの叫びは路地に響き渡った。
「あの…っ、ろくでなしがぁぁぁぁぁぁぁ!!」
◇
ざわり
ざわざわ
ざわり
「まだ怒っているのか、ミザリー」
「当たり前ですの!あの人使いの荒いヒゲ支部長、棒に当たって死ねば良いのだわ!」
ハン・デリーの商店街を抜け、寄り合い馬車の乗り場へ向かう道でミザリーは声を荒げていた。
フラウは苦笑を漏らす。
「まあ、今回の指令には解せぬ点はあるがな」
「解せぬ点ばかりですわ!大隊に少数精鋭での市街地派遣を命じたり、騎士団のはぐれ者を同行させたり!
挙げ句の果てに、追加命令!?あの上司はわたくしたち第一大隊を舐めてくださっているのかしら!?」
任務完了の報告をする前に電報に乗ってやってきたのは『アラタナ マジョ アリ チョウササレタシ』の無愛想な命令書であった。
ようやくヴィクタ・リクタの北方支部に帰れると思った矢先の出来事である。
ミザリーの怒りはよく理解できる。
彼女はフラウを敬愛しているが、もともと他人に指図されるのを嫌う性格だ。
「良かったじゃないか。ミザリーは可愛いものが好きなのだろう?」
「先日のアレのせいで、もう当分ぬいぐるみは見たくありませんわ……」
ミザリーは嘆いた。
商店中に並ぶ土産のぬいぐるみを横目に身震いする。
無機質な目に囲まれるのは、しばらく夢に見そうだ。
「調査と言いましても、どうします?事前情報が少なすぎて手をつけようがないのだわ」
「確かにな。だが、この近くに協力者の施設があったはずだ。まずはそちらで目撃情報がないかを確認してみる」
「……だから馬車に向かっているんですのね」
ミザリーはうんざりした様子を隠そうともしない。
ざわり
ざわざわ
おもむろにフラウは柄に手をかけた。
ぎょっとミザリーが飛び上がる。
「だ、だってあまりに不親切じゃありませんか。こちらは金羽の姐様がいらっしゃいますのに……」
「いや」
短く否定し、フラウは注意深く通りを見渡す。
群れをなした観光客、通りのど真ん中で学説を戦わせる研究者らしき人、忙しなく動き回る行商人たち……。
変わり映えのないハン・デリーの街並み。
「気のせいか」
剣から手を離し、ピンと張り詰めた緊張を緩める。
ほっとミザリーは肩の力を抜いた。
「寿命が縮みますわ……」
「はは、すまんすまん。私も知らずピリピリしていたようだ」
二人は露店に挟まれた道を通り切り広場へと出た。
正面には一台の馬車と、その傍らには黒い影がのっそりと立っていた。
影はこちらに気が付き、胸に手を当て恭しくこうべを垂れる。
彼を見た途端、ミザリーは嫌そうに顔を歪ませた。
「ディンレイン。仕事が早いな」
「そろそろ遺跡へ向かわれる頃かと、至極当然」
黒ずくめの瘦せぎすの男はボソボソと早口に言った。
フラウより頭一つ背が高いながら針金のように細く、骨だけしか入っていないのではと思うほどに黒い外套の肩が余ってしまっている。
ボサボサの前髪の間から落ちくぼんだ目ばかりが爛々と輝いていた。
『死神』ディンレイン・フォル。
王都ガネルより派遣された騎士が一人である。
「その口ぶり、命令をあらかじめ知っていたかのようですわね」
刺々しくミザリーが問い詰めると、ディンレインは骨張った肩をすくめる。
「不確定要素と伺っていましたので、容赦嘆願」
「はあ!?貴方、ほうれんそうという言葉を知っていて!?」
「茹でるのが一番という程度なら、大変美味」
「報告義務の話をしているのだわ!!」
「やめろ、二人とも」
主にミザリーをなだめ、フラウはディンレインを見やる。
「支部長殿はハン・デリーに第二の魔女がいると予見していたということか?」
「この地は魔女にとって特別な意味を持つ場所。支部長殿だけでなく団長もハン・デリーには注意を払っていました、要警戒」
「だが、なぜ今?」
「永きにわたり潜伏していた魔女が動き出したのではないかとの情報があったのです。しかしながらこちらに気が付かれればまた雲隠れされる可能性も、隠密行動必須」
「だからこその少人数精鋭か。情報を伏せていたのも漏洩を防ぐためか?」
「本部からの指令ゆえ、謝罪」
「かまわん。上からの命令なら、私から何も言うことはない」
「姐様!」
非難めいたミザリーの声を無視して、フラウは続けた。
「ただし、私の指揮圏から勝手にいなくなるのは問題だな」
「……」
「ただ今、この時の貴殿の上官は誰だ?」
「……フラウ・チャルスオーク大隊長です、明解」
「その通りだ。私に隠して密命を果たすのは結構。しかし私の命令に反する理由にはならん」
「御意」
「分かれば良い。任務ご苦労」
「は…」
ディンレインは深々と頭を下げた。
文句の言い足りないミザリーだが、その様を見てなんとか溜飲を下げることにしたようだった。
「さて、先回りして馬車を手配してくれていたほどだ。先方には当然連絡を入れているな?」
「保護区の責任者がお会いになるそうです、至急」
「十分だ」
三人を乗せた馬車は門をくぐり町から出る。
その背後で、商店に並んだぬいぐるみ達がさざめいた。
身を寄せ合うように。
ざわり
ざわざわ
ざわり
そのぬいぐるみの頭をポンポンと叩く手があった。
「ずいぶん、荒れてんなぁ」
小さな子どもをあやすような手つきでざわつく彼らを撫で、ニコルは目を細めた。
「どこのどいつがバカやったかは知らねーが、穏やかじゃないな。とっとと町出た方が良さそうだぜ、これ」
くるり、と指を回すと身を寄せ合っていたぬいぐるみ達の動きが一瞬ぴたりと止まる。
しかしすぐに、ざわざわと身を揺すってはニコルに抗議の目を向けた。
ニコルが『魔法』干渉を試みても抵抗されるのだ。
ジーナの炎に黒いひつじが焼かれなかった時から嫌な予感はしていた。
ピリピリと肌が痺れる感覚。
ニコルでなくても分かる。先程から鳥の声が聞こえない。風すらそよがない。
町はこんなに喧騒に包まれているのに、世界は静まり返っていた。
ニコルはガリガリと頭を掻く。
「町から出たいけどなー。イェニを先に拾わないとなー。つか、あいつこの町に入れんのか?」
その時、不意に空が重くなった気がした。
いや、錯覚だ。晴れているのに、空気が歪んだように見えたのだ。
「んあ?」
バザーの屋根の下から外に出て、ニコルは目を凝らす。
「おぉ」
その時、空を見上げていた者しか分からなかっただろう。
ニコルは手を目の上にかざし、それを見て首を傾げた。
「ハイルじゃん。あいつ、何やってんの?」
昼間にも関わらず悠々と飛ぶ真っ白なフクロウと、
そこにぶら下がる同級生が確かに視認できたのである。
次回の投稿は19日23時です。




