『ニコル・ロスキー』
おれの人生が変わった日。
確かあの日は、とても天気の良かったのを覚えている。
「愛とはね、痛みなのよ。愛しいものが生まれる時はとても痛いの」
そう語るあいつは、とても無邪気だった。
真っ白で、透明で、こちらまでつられてしまいそうな笑顔を満面に咲かせていた。
「だからきっと、誰かを慈しむことはすごく辛いことなのね。愛すれば愛すほどに、自分さえ傷付いていくの。
でもそれは素晴らしいことだわ。痛みは私が愛した証明なのだから」
彼女は歌うように喋り続ける。
ひたすら愛を説くその姿に、おれは何と返したか。
彼女の足元には、石があった。
おれがそこにいる事をようやく思い出したかのように少女はおれを見やり、そして微笑んだ。
「あなたが初めてなの。ねえ、あなた。私とお友達になりましょうよ。そうしたらきっと寂しくないわ。私もあなたが気に入ったもの」
足元の石が自重に負けて割れた。
きっと石灰に似た脆い素材なのだろう。
石の腕が砕けて風に流されていく。
気付けば顔の半分をヒビが覆っていた。
石の話だ。
その石は大通りいっぱい転がっていて、強い風が吹くたび乾燥でパキリパキリと音を立ててヒビが広がっていく。
足がないものがあった。
胴で真っ二つに割れ果てたものがあった。
もう原型を留めていないものもある。
重ねて言う。石の話だ。
つい数分前まで人間だった、無惨な石像達の話だ。
「ねぇ、あなたは私を愛してくださる?」
あの日のことは、忘れもしない。
よく晴れた昼下がりの青空が、とても澄んできれいだった。
まるで、地獄みたいに。
◇
ニコルが目を覚ますと、ハイルはとっくに身支度を済ませて机に向かっていた。
「おはよ。あれ、今日は早いじゃん」
ハイルはじろりとこちらを一瞥した。
「寝坊とはいいご身分だな、ニコル・ロスキー」
「いいじゃん、学校休みだし」
「休んでいるんだということを少しは自覚しろ、この劣等生め」
聞き流し、ニコルはんーと伸びをする。
窓から覗くと、日はもう高い。昼前まで寝てしまったらしい。
ジーナの家をお暇してからすぐにハン・デリーへ向かい、彼らを乗せた馬車は日が落ちてから町に入った。
それから宿を探す羽目となったため、最高級を所望するハイルの希望叶わず、中の上ぐらいの宿の一室を借りることになったのだった。
貴族の客と見た主人は大部屋を融通してくれたもののハイル、ニコル、ユイダの三人が入ればやはり狭い。
ぶちぶちと文句を垂れるハイルを見て厩で寝ると申し出たユイダを、女性相手にそれはマズイと引き止めて数十分。そもそも従者が主人と同じ部屋で寝るなどあり得ないと当然のように反論する彼女を説き伏せ、おれがソファで寝るから!と半ば強引にベッドの1つに放り込むという一幕を経てようやく就寝した三人であった。
「しかし、坊ちゃんのご友人をソファで休ませるなど……」
「問題ない。この劣等生など床で十分だ」
「それは酷くね!?」
ユイダの厩で寝る発言に、さすがに悪いと思ったのかそれ以上ハイルが部屋の狭さに文句を言うことはなくなった。
件のユイダは部屋にはいなかった。
聞けば、馬の世話と馬車の整備に向かったという。
「昨日は眠かったからあんま気にしてなかったけど……野郎二人と同じ部屋たぁ、ちょっと悪いことしちゃったよな」
自身の荷物をあさりながらニコルが呟くと、ハイルが目を丸くした。
「驚いた。貴様、そんな配慮ができたのか」
「あったり前だろ。タムバート1の紳士っていやおれのことだぜ。あれ、替えのシャツどこやったっけ」
「適当なことを。それより、イェニとの待ち合わせはどうなっている。この町で合流のはずだろう」
「んー、そうなんだけどなぁ。出る前にウェルフに確認したら、イェニの乗っているキャラバンが街道の落石で迂回ルートを通ってるってよ。今日到着予定だったが、明日以降になるんじゃねぇかな」
「ふん。ということは、今日一日は予定なしか」
ハイルは荷物の傍に置いている黒いひつじを見やった。
ジーナは返して欲しいと言っていたが、そもそもこのぬいぐるみを作ったのが誰なのか定かでないのだ。
手早く着替えたニコルは、
「じゃ、おれちょっと出てくるわ」
さっさと部屋を出ようとする。
「待て。どこへ行くつもりだ」
「いや、適当にぶらぶら」
「ふざけるな!このぬいぐるみの件を忘れたのか!?」
「やだなぁ、覚えてるって。2人で連れ立って探し回ることもないだろ?手分けした方がどう考えても早いじゃん」
「どこをどう手分けしようと言うのだ!?手がかりなどないんだぞ!」
「じゃあ、ヒツジ片手に歩き回ってみる?」
「ふざけるな!」
イライラを募らせるハイル。
しかしニコルはどこ吹く風だ。
「いやぁ、案外手がかりの方がこっちに来そうな気がするんだよね」
「適当なことを抜かすな!」
「まあ、勘だけどなぁ。こういう時のおれの勘は結構当たるぞ?」
だからあんま焦ることないって、と楽観的に述べる。
言い募ろうとしたハイルに、しかしニコルは続ける。
「それに、おれは気を遣ってるつもりなんだけど?」
「なに……」
「ユイダっちに何も話してないんだろ。おたくを気にしてるの、傍目で見ててもわかるぜ」
「……!」
「隠してりゃ余計に詮索されるぞ。誤魔化すにしたって、ちゃんと言い訳考えておけよ〜」
ひらひらと手を振り、ニコルは部屋から意気揚々と出て行った。
部屋に1人残されたハイルは、愕然と呟く。
「……信じられん。あいつ、このぼくに全て押し付けて行ったのか」
黒ヒツジのボタンの目が同情するようにハイルを見つめていた。
ニコルが階下に降りると、廊下でユイダと鉢合わせた。
「ロスキー様。お出かけですか?」
「まあな。悪いな、自分ちの馬車でもないのに」
「エンテルの所有物といえども、坊ちゃんがお乗りになるのでしたら万全の備えをするのが従者の務め。この程度、なんでもありません」
ユイダは淀みなく答える。
表情の薄い顔からは本心は読み取れない。
ハイルよりは少し年上ぐらいか。それとも実は若く見えるだけで使用人としてはベテランかも知れない。青みを帯びた灰色の髪が余計に彼女の年齢を錯覚させてしまう。
妙齢ながらメイド用のワンピースを着こなした彼女は、しかし愛想の抜け落ちた瞳でニコルを見つめる。
ニコルはこのメイドが少し苦手だ。
「それに、ロスキー様のお心遣いは存じておりますわ」
「あり?なんかしたっけね、おれ」
「ミケーレの家紋はこの地では目立ちすぎます。その点、ウェルフ・エンテルの馬車には家紋がない。坊ちゃんがお忍びでハン・デリーに出入りするにはうってつけです」
ハン・デリーはミケーレ家が治める地。
ロトトアやタムバートのように、エンテルの権力はここへは届かない。
ハイルにとっては自分の領地に帰ってきたも同然だが、それ故に彼の行動は制限される。
彼の一挙一動がミケーレの言葉となるのだから。
ユイダの目がすっと鋭く細められる。
あ、やばい。
不穏な空気を感じて、ニコルはたじろぐ。
「ロスキー様。貴方は何をご存知のなのですか」
「な、なんのことかな〜」
「しらばっくれないでくださいませ」
退いた一歩を詰め、ユイダは逃すかとばかりにニコルの目を覗き込む。
「なぜ、ハイル坊ちゃんをここへ連れてきたのです」
「なぜって。おれが誘って、あいつがついてきた。そんだけだ」
「ハイル坊ちゃんをわざわざ誘った理由を問うているのです。
ハイル坊ちゃんは心身ともに疲弊している。それを知ってなお、貴方はハイル坊ちゃんを連れ出した。
存じておりますよ。貴方はハイル坊ちゃんが倒れられた時、いつもそばにいるそうですね。なぜ?貴方は一体、ハイル坊ちゃんに何をしようというのです」
あー。なるほど、そっちにとられてんのね。
ニコルは天を仰いだ。
「つまり、あれか。おれがエンテルからの刺客だとか、そういう風に疑ってんのかおたくは」
「ハイル坊ちゃんの体調不良と共に、貴方との親交が深くなった。疑って当然ではありませんか?」
「なるほど」
はっはっは、とニコルは乾いた笑いを漏らす。
「あり得ねーわ」
「……何ですって?」
「おれがウェルフに雇われるとかあり得ねーよ。あいつに忠誠誓うくらいなら舌噛んで死んでやる」
ニコルとウェルフは決して仲が良い訳ではない。
むしろ逆だ。お互いがお互いのことを嫌悪している。
ニコルがウェルフに構っているのはただ少しの恩と、そして利害が一致したからに過ぎない。
ウェルフにしても似たようなものだろう。
彼らの間に友好関係などカケラもない。
「その調子なら、おれのことも調べてんだろ」
「それは……」
「でも、何にも分かんなかった。おれがクロだという確証も、おれの情報そのものさえ。違うか?」
「なぜ、それを」
「おれを嗅ぎ回ってるってことを、おれが知らないと思うか?」
一度は驚いたユイダは、しかしすぐさま平静を取り戻す。
「バレているなら仕方がありません。えぇ、そうです。ミケーレの情報網を惜しみなく使って貴方とその背後関係を洗いました。
結果は貴方の仰る通りです。貴方の経歴、素性、出生記録に至るまでどこにも見つからなかった。まるで……」
そこでユイダは顔をしかめる。
「まるで三年前、どこからか突如湧いて出てきたみたいに」
「……口の悪さはハイルに似てんな、おたく」
三年前、ニコルはタムバートへやってきた。
エンテルを後見人として、領地内の学校へ入学し下宿で暮らし始める。
それ以前の情報は彼にはない。
ユイダからしてみれば、ニコル・ロスキーという名すら嘘ではないかと感じてしまう。
むしろ今の今まで、こんなに得体の知れない人物を大事な坊ちゃんのそばに置いていたのかと戦慄する思いだ。
「安心しろよ。おれは別に、ハイルをどうしようってつもりはない」
「信じられるものですか」
「ホントだよ。おれは今、面白おかしく平和に暮らせればそれでいい」
両手を上げて敵意がない意思を見せる。
そんな少年を、ユイダはじっと見つめた。
「良いでしょう。ただし、もしハイル坊ちゃんに傷一つつけてご覧なさい。その時は」
「その時は?」
「……後悔させて差し上げましょう。この世に生まれてしまったことを」
どす黒く冷たい声で告げ、ユイダは身を翻した。
「……あの姉ちゃんこえぇ」
じっとりと冷や汗をかいた手を握ったり開いたりしながら、ニコルは身震いした。
あれでは従者でなく、まるで番犬だ。
「どこかから突如湧いて出てきたみたいに、か」
口の中で転がし、ニコルは苦笑した。
「そうか。そう見えんのか、他人には」
気を取り直したニコルは宿屋の外、大通りへと足を向けた。
「さて、と。とりあえず、花屋だな」
次回投稿日は未定です。
→2月16日23時に更新します。




