真夜中のお茶会
道を歩けば悪意をささやかれた。
そらきた、化物だ、と。
違う、とその度にローは心の中で言い返す。そんなはずない。自分はふつうだ。
だけど自分を囲う視線に耐えられなかった。近所の人々の好奇と嫌悪ならまだ良い。
自分に恐れを抱きながら、それでも必死に隠そうとしてくれる家族の優しさに叫びたくなる。
つまり、ローは逃げたのだ。
故郷からも。家族からも。
何より、自分からも。
「どうして、こんなことになったのかな……」
ローは鏡の前に立っていた。
全身が映る大きさの姿見。
ローが覗き込むその先に、しかしローの鏡像はどこにもなかった。
細やかな装飾が施された縁の奥、本来なら少年の姿を映し出さなければならない鏡面は、ただ部屋の内装を投影するばかりだ。
鏡がおかしいのではない。
鏡に映っていない方が異常なのだ。
ローは自分の体を見下ろす。
浅黒い肌。短く切りそろえられた黒い髪。鏡が顔を写せば、そこに同じ色の大きな目があるはずだった。
どこにでもいるような少年の姿。それがロー・グロウディアだ。
「ぼくはふつうだ。そうだよね……?」
誰もいない部屋に言葉がぽつりと浮かぶ。
ここは昼間、ウェルフに案内された客間である。
すっかり日の暮れた部屋は暗く、火をともしたランプだけがこうこうと揺れる。わずかな明かりに照らされた姿は途方に暮れた顔をしていた。
屋敷の侍女がベッドメイクをほどこしてくれたが、なんとなくそこに横たわる気分にもなれず、ぼんやりと壁にかけられた鏡の前に立ちつくしていた。
ローは首を振り、嫌な考えを払う。
ウェルフの言葉が頭の中で繰り返されていた。
(君は、自分のことをもっとよく知るべきだ)
何を知れというのか。
ぼくはどうしようもなく、ぼくなのに。
ローは大きくため息をついた。
本当は、ウェルフに断りを入れた後帰るつもりだったのだ。
何の問題もなかった。
みんなの思いすごしだった。
そう笑ってごまかせば、きっと両親も安堵して元通りに接してくれるようになる。ローはそう信じていたのだ。
それなのに機会を逃した。
自分の優柔不断さにはほとほと嫌気がさしてくる。
ローは自分を映さない鏡の前を離れ、ひっそりと静まり返った廊下に出た。
ひんやりとした冷気が身体を包む。侍女から渡されたガウンをしっかり羽織って、音を立てぬように歩き出す。
屋敷の間取りはウェルフから教えてもらったので頭に入っている。遅い時間ではあるが、使用人の何人かはまだ起きているだろう。
気晴らしでしかないが、温かいミルクでも飲めば少しは落ち着くかもしれない。
そう思って厨房に足を向けたローは、そこではち合わせた人物に驚きの声を上げた。
「わ、若旦那さま」
なんと厨房に自ら立っているウェルフ・エンテルがそこにいた。
青年はローを見て一瞬目を見開いた。
「ウェルフでいい。新しい寝床は寝付けないかね?」
なんて間の悪い時に会うのだろう。
ローはあいまいに頷いて、ウェルフの手元に目を向けた。
「わ……ウェルフさんは、こんな時間に何を?」
「うん? いや、仕事の合間に一杯ね。夜はさすがに冷えるから」
そう言って慣れた手つきでティーセットを用意するウェルフは、「君もどう?」とローに勧めた。
「じゃあ、一杯だけ」
遠慮がちにお願いする。
かまどで燃えさかる火の上に、コトコトと音を立てる鍋。ちょうどお湯を沸かしているところらしい。
ウェルフは棚から小さな瓶をいくつか抱えて持ってきた。乾燥させたものなのか、それぞれに黒ずんだ葉がたっぷり入っている。
「好きな香りはあるかい?」
「あの、あまり種類を知らなくて……」
おや、とウェルフは片眉を器用に上げた。
「それはもったいない。紅茶は香りが重要なんだよ。
そうだな……初めてならウィークドバーグはどうかな? 南国アークの特産品で、最近では女性の間で流行っているそうだ。初めてでも飲みやすいだろう」
たくさんある瓶の内の一本を、ふたをゆるめてローに差し出した。
途端に、ほんのり甘みを含んだ香りが鼻孔をくすぐる。
「わ」
濃厚なフルーツの香りというよりは、風に乗ってかすかに感じる花の香りによく似ている。確かに、ローの好みの香りだった。
茶葉を入れ、沸かしたばかりの湯をポットにさっと注いでしばし蒸らす。
ローの見ている前でカップに薄赤い紅茶が注がれた瞬間、ポットにずっと閉じ込められていた茶葉の香りが一気に外に広がった。
「はい、どうぞ」
砂糖もミルクも混ぜない、ストレートをそのまま勧められた。
おそるおそるカップに顔を近付けると、かぐわしい匂いが口いっぱいに広がる。だが思い切って口に含むと、思ったより甘さはなくむしろあっさりと喉元を通りすぎた。
冷えた身体にぬくもりが染みわたる。
「おいしい、です」
素直に感想を述べると、ウェルフはにっこりと笑った。
「それはよかった。本当はブランデーやジャムでも混ぜると美味しいんだが、これは個人の好みでね。私はもっぱらこちらだ」
ウェルフが手に取ったのは砂糖だ。
スプーンにさんすくい、よんすくい……ごすくい。
ローの視線に気が付いて、ウェルフはちょっぴり気恥ずかしそうに肩をすくめた。
「甘党なんだよ。……控えようと努力はするんだけど」
ばつの悪そうに目をそらす様子が可笑しくて、ローは思わず声を上げて笑ってしまった。
笑ってから、そういえばロトトアに来て初めて笑ったのだと気が付く。
いや、そんな短期的なものではない。この数年間ずっと心の底から笑ったことなどあまりなかったのではないか。
そう思い至って、ローは口を閉ざした。
「どうかした?」
隣で問われて、ローはようやくかすれた声で「いえ」と答えた。
目を伏せるローの前に、ミルクピッチャーが置かれた。おそらくこの近くの農場でしぼったものだろう、濃厚なミルクが中に満ちている。
驚いて顔を上げると、ウェルフの深緑の目が優しげに細められていた。
「ウィークドバーグはロトトアのミルクとよく合うんだよ。少し混ぜるとまろやかになる。試してみると良い」
ウェルフは本当に何も聞かなかった。
ローのことも。家族のことも。故郷のことも。……ローが抱えている問題のことも。
親切なようでいて、乱暴なくらい無関心。
確かにこの人には、人を助けているという意識などまるでないのだろう。
本当に助けようとしているのなら、なんとかして事情を聞き出そうと根掘り葉掘り聞いてくるはずだから。ローの両親がそうであったように。
それぐらいでいい。
気が楽だ。
「あ! もう、若旦那様! また勝手に火をつけて!」
とがめる声が厨房にずかずかと入ってくる。
エプロンにほっかむりをしたふくよかな女性が、小さなどんぐり眼をきりりと吊り上げている。
「就寝時間後はご遠慮なさってとあれほど申し上げたでしょう! そうやって、またすぐに徹夜なさるんですから!」
「おや、マルチナ。まだ起きていたのか」
ウェルフの悪びれない態度に、マルチナと呼ばれた厨房係は口をとがらせる。
「どこかの若旦那様が夜な夜な徘徊しなければ、私も枕を高くして眠れるのですけどね! ほら、紅茶は召しあがったのでしょ! 早くお休みになってくださいな!」
「はいはい」
マルチナに適当に相槌し、ウェルフはローに向き直る。
「私は執務室に帰るよ。君も一杯飲んだら休め。長旅で疲れているだろう」
「あ、はい」
ローには休めと言いつつ自分は寝る気はないらしく、まだ湯気の立つカップとポットを手にウェルフは厨房を出て行った。
代わりにマルチナがローのそばでぷりぷりと愚痴をこぼしている。
「まったく、困ったもんだよあの若旦那はさ! ちっと頭が回るんなら、毎夜の後片付けを一体誰がしているのか考えて欲しいもんだ」
「あの、す、すいません」
紅茶のおこぼれをあずかったローとしては肩身が狭い。
ローの手のカップに気が付いたマルチナは、それだけで状況を把握したらしい。ぱたぱたと手を振って否定する。
「いや、あんたを責めてるんじゃないんだよ。どうせ一杯勧められたんだろ? あの人、紅茶にだけは目がないからさ。ゴータからのお客さんだって?」
「は、はい」
「若いのに遠くから偉いねぇ。ゴータっていや港町だろ? あたしの息子も海の男になるってんでうちを飛び出しちまったがねぇ、年に一回便りをよこすくらいで帰ってきやしない。いったいどこほっつき歩いてんだが……」
マルチナの話を聞き流しながら、ローはミルクピッチャーに手を伸ばしかけて止めた。
代わりにウェルフが放置していった砂糖を手に取る。そしてつやのあるスプーンで、彼がそうしたように五杯、自分の紅茶の中に流し入れた。
まだ砂糖が底に残っているカップを傾け、ローはちょっと顔をしかめた。
甘い。
もともとの甘い香りに相まって、風味ががらりと変わってしまっていた。さきほどのあっさりとした口触りはどこかへ押しやられ、代わりに砂糖の甘みが舌の上に残る。
厨房係の話に耳を向けつつ、ローはちびちびと紅茶を口に運んだ。
自称・甘党の味は飲み慣れなかったが、不思議と嫌ではなかった。
次は15日23時に投稿します。