憧憬
ハイル・シュトハーンの人生は特別だった。
ミケーレ伯とその子孫は、かつて大陸が国という区分に分かれていた頃、王から伯爵の地位をいただいた一族であった。
だが国が瓦解し、ただの町と集落に分解されると爵位は意味をなくした。
それでもなお、一族の力は衰えることなく、人脈と財力を駆使して今なお絶大な力を誇る。
ハイルは幼い頃からミケーレの家に生まれた者は人の上に立ち、またそうでなければならないと教えられた。
自分は人より優れていて当然。
凡人たちに敬われて当然。
体に流れている高貴な血は決して絶やしてはならない、と。
努力ならばした。それこそ、並の人よりずっと。
流行の遊びよりも先に、礼儀作法を覚えた。
同年代の子どもが無邪気に外で走り回っている横で、ハイルは家庭教師から年上の子が学ぶような知識を頭に叩き込まれた。
人より優秀であるために。
学校に通う頃になってからは、テストこそが自分の認められる場になった。
順位をつけられて、初めて自分の居場所ができた。
一番をとると、両親はハイルを誇らしげにさすが自分たちの息子と周囲に自慢した。
乳母や使用人たちにハイルのしつけを任せきっていた彼らは、そういう時だけハイルを自分たちの子どもとして扱った。
家族や親類に認めてもらうためには、ハイルは一番であり続けなければならなかったのだ。
ハイルの父は優秀な人だった。
様々な事業に投資をしながら、領主や市長たちの後ろ盾となり、金も信頼も名声も勝ち取った。
父の周りにはいつだって、ただ手を挙げるだけで彼のために働いてくれる者たちがいた。
自分も優秀になれば、父のようになれると思った。
いや、違う。父のようにならなければならない。みんなハイルにそれを期待したから、ハイルも精一杯応えようとした。
しかし。
学年主席になった時、学校でハイルの周りにいてくれる者は誰もいなかった。
ハイルに従う者も、ハイルのために何かをしてくれる者も。
一体、自分は何をしていたのか。
「ハイルくん!」
呼ばれてはっと我に返った。
反射的に目の前の母親を――いや、母親の姿をしたまやかしを突き飛ばす。
唯一認めてくれていると思っていた家族は、社交界や要人との会合に忙しいからとほとんど家に帰って来ない。自分たちに息子がいたことなど忘れてしまっているかのようだ。
母が自分を抱いてくれたことなど、幼い頃でさえ一度もない。
「ハイル……?」
今のは何かの間違いだろうと信じるように、母がもう一度手を伸ばす。
ハイルがもう一歩後退した時、かさりと足元に何かが落ちた。
「ハイル。なあに、それ?」
「あ……」
見覚えのある答案用紙。
今朝、学校で受け取ったばかりのテストだった。
それを拾い上げた母の顔色が変わった。みるみる失望に染まる。
「なんなの、これは……二つも間違えているじゃない!」
ヒステリックに叫ぶ。
母はハイルの肩をわしづかみにし、激しく揺さぶった。
「一体何を考えているの! こんなの、完璧じゃない! どうして満点が取れないの! どうして母上の期待にこたえられないのよ!」
「……ぅ…っ」
「ハイル!」
うるさい。
ハイルは耳をふさいだ。それでもけたたましい金切り声は頭蓋によく響く。
悔しいのは、誰よりこのぼくだ。
完璧であり続けることは、どうしてこんなにも苦痛なのだろう。
ぐい、とふいに手を引かれた。
ずっとかたわらにいた浅黒い肌の少年が、耳を押さえていたハイルの手をとる。
「大丈夫です」
どこが大丈夫なものか、と思ったが、不思議と耳鳴りが消えた。
目の前にいた母親の姿が掻き消える。
続けて、周りの親族たちの姿も。
最後に豪勢な館も霧となり、二人を残して闇に包まれる。
今度は何だ、と思うと、背後から数人の男女が走り抜けていった。
学生姿の者もいれば、年配の者も幼い者もいる。タムバートやロトトアの人間だ。彼らはみな一様に一点へと駆けていく。
いつの間にやら現れていた人だかり、その中心にいる人物に向かって。
「ニコルくん……」
明るい笑い声が弾けた。
同じ金髪。同じ学生服。ハイルどころか、下手すると学校の女子よりも小柄なクラスメイトがそこにいた。
補習の常連で、自分よりはるかに頭の悪い劣等生を人の輪が取り囲む。
何か気の利いた冗談でも言ったのだろう。人だかりが沸き立った。
「ハイルくんは、ニコルくんがうらやましかったのですね」
ぽつり、と隣が呟いた。
負けたつもりなどなかった。
上位一番を勝ち取るのがハイルなら、ニコルはいつも最下位を競っているような生徒だ。
生まれは無名の家。育ちは下町。お金もないから、アルバイトで稼ぎながら奨学金を得て授業料をまかなっていると聞いたことがある。
それなのに、ニコル・ロスキーはいつだってハイルの持っていないものを持っている。
ああ、どうしてあいつはあんなに遠くに見えるのだろう。
ここはこんなにも暗いのに。
「まぶしいですよね、本当に」
「……うん」
自分でも驚くほど素直に頷いていた。
完璧であることだけが正しいと思っていた。だけど、ニコルは完璧とは程遠いのに本当に楽しそうだ。彼の周りにはいつだって人が集まる。
どうして自分はニコルではなかったのだろう。
ハイルは気が付いた。
自分は、ずっと逃げ出したかったのだ。完璧という呪いから。
周囲の期待がいつしか自分を縛りつけているような気がして、そこから抜け出せるのをずっと夢見ていた。
ここは、ハイルの望んだ世界そのままだ。
だけど、現実から抜け出してみてどうだろう。自分は結局一人で、誰かに褒められることを望み続けている。現実にいる時と、何も変わらない。
本当に自分を縛っていたのは、自分自身の心。
「大丈夫ですよ」
思っていることを見透かされた気がして、ハイルはぎょっと振り返った。
浅黒い肌の少年はそこにいた。慈愛に満ちた目で微笑みながら。
「自分の心を、見つけたんでしょう? だったら、もう大丈夫です」
自分は孤独を恐れていたのかもしれない。
だから無意識にそばにいてくれる誰かを求めた。
ハイルの終わらない夢にローを巻き込んでしまったのは、やはりハイルが望んだからなのだろう。
ローの言った大丈夫という一言が、ハイルの胸で熱く溶けた。
◇
これからどうしよう。
いつの間にか人影が残らず消え、闇だけが残っている。
しかし夢の中から抜け出したというわけでもなさそうだ。夢と分かった夢をさまよっている感覚。
この暗い空間はどこまで続いているのか。
「一体、どうやったらここから出られるんだ?」
弱音は吐かないが、ハイルの顔には不安が浮かぶ。
ローは何も答えなかった。出られないと言えば、本当にここからは出られないだろう。『魔法』は敏感に心を読むのだから。
だが、いつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。
「ここにウェルフさんがいれば……」
あの博識な青年なら、こんな状況からでもきっと打破する方法を捻り出すだろう。
「せめて外と連絡が取れたらいいんですが」
「どうやって? 何もないんだぞ!」
ぴぎーっ
相槌をうちかけたローが動きを止めた。
どこからともなくかさかさというあの音が。
そんなばかな。
「ステディ!」
ぴぎーっ
暗闇のほんの少し向こう側で、小さな影がぴょこぴょこと上下運動をしている。
われらが愛すべき人面花であった。
「えぇっ! どうして」
八方に広がった根を開いたり閉じたりしながらくるくると怪しげな踊りを踊るステディは、ローとハイルが近づいてくるとその大きな口をぱかりと開けた。
『おーい、そっち無事か!?』
「うわぁっ」
思いがけず口を利いた人面花に二人は飛びずさる。
「に、ニコルくん!?」
『お、ちゃんとつながったみたいだ』
ぱくぱくと動く人面花の口から聞こえるのは、幻などではないまぎれもなくニコルの声だった。
『驚いた。ステディとマリアンヌにこんな使い方があるなんて』
『こいつら、外見はあれだけど突き詰めりゃ『魔法』の塊だからな。ちょっと手を加えてやりゃ他の『魔法』にまぎれさせるくらいならできる……いって、そんな怒るなよおチビちゃん!』
「まさか……これ、ニコルくんの『魔法』なんですか?」
ステディからカイの感心する声、ニコルの悲鳴が順に聞こえてきて、ローは信じられない面持ちで尋ねる。
ハイルは妖精にでも化かされたような顔で声を裏返す。
「ロスキーだと? い、一体どうなってるんだ!」
『あー悪いけど、これ即席だからあんまり長くはもたないんだ。詳しい話はすっ飛ばして本題にいくぜ』
おいウェルフ! と小さく急かす声が聞こえて、ややあって落ち着きのあるバリトンに切り替わった。
『とりあえず、そちらの現状を把握したい。手短に説明をたのむ』
次回は2日の23時に投稿します。




