残像
診療所内をくまなく探してもベティは見つからなかった。
外へ出てしまったのかとローは診療所周辺の通りを歩き回った。
が、いくら人ごみの中で目をこらしても、少女の姿はどこにも見当たらない。
「どこ行っちゃったんだろ……」
彼女は対人恐怖症だ。人の多い大通りはなるべく避けるのではないか。
もしかしたらと思い、ローは目についた路地へ足を踏み入れた。道とも呼べない寂れた道をひたすら奥へ抜けていく。
路地は縦横無尽に張り巡らされているが、ベティの足ではそう遠くへは行かないだろうと診療所の近くを重点的に見て回る。
この辺りの地理に詳しくないので、何度も方向感覚が狂って元の大通りに戻りそうになった。
それでも、何度目かの角を曲がったところでようやく白いワンピースの後姿に出会うことができた。
「ベティちゃん! よかった……」
ローはほっと安堵の息をもらす。
近付いて行くと、ベティはローに気が付いてじりじりと後退した。
ベティの片手にはたくさんの色あせた草が詰められた瓶、そして、もう片方の手には……。
「それ……どうしたの?」
らせん状に白い花を付けたウズノハナ。根っこ近くで手折られたそれは、ついさっきまで地面にあったように生き生きとしていた。
一体どこから、と尋ねる前にローの背後で人の気配がした。
「この悪ガキがっ、やっと見つけたぞ!」
振り返ると、鬼の形相をした老人が立っていた。
それが花屋の店主だとはローには分からなかったが、その老人がベティを追いかけてきたのだということは分かった。
肩をいからせ、杖を持つ手がぶるぶる震えている。
「毎日のように店の商品にイタズラしおって! もう許さん!」
ベティの手からウズノハナがぱさりと落ちた。
怯えて小さな体が震える。
「ちょ……お、落ち着いてください!」
ローはベティを背中にかばった。
しかし老人の血走った目はベティしか見ていない。禿頭は怒りのあまり真っ赤だ。
杖を振り上げた時、ローは彼が何をするつもりなのかを知った。
殴られる。
右耳のそばでぶぉんと空気の切れる音がした。反射的に身をかがめなければ杖の先端はローの頭に直撃していただろう。
顔から血の気が引く。
気付けばローは、再び老人が杖を振り上げる前にベティの手を取り走り出していた。
「待ちぁがれっ!」
老人の声が追いかけてきた。
彼は完全に冷静さを失っている。ベティに手を上げるに躊躇などしないだろう。
ベティは先程までウズノハナを握りしめていた手でローの指にしがみついた。
(この感覚……)
小さなベティを連れて走りながら、ローはこんな時なのに昔のことを思い出した。
かつて、同じことがあった。
誰かの手を握り、一緒に歩いていた頃の記憶。
ぐらりと視界が揺れた。
「………っ!」
胃の中のものが逆流する感覚。
大通りへ向かっていたはずの足がもつれた。たまらずローはその場にうずくまる。
「……ぅ…っ」
生唾を何度も飲み込み、吐き気を無理やり押さえこむ。
早く逃げなければ。
分かっているのに、身体が思うように動かなかった。
冷や汗があごをつたって落ちる。
自分の頭をわしづかみ、ローはめまいをどうにか払おうとした。
その時、小さな手がローの背を押した。
「?」
ベティだ。
彼女はおろおろと後ろとローを交互に見ている。
そうだ。
この子だけは。
助けないと。
重い体を引きずり、ローはベティを抱えたまま建物と建物の間のわずかな隙間へ転がり込んだ。
◇
追い詰めた。
子どもたちの消えて行った物影に近付き、花屋の店主は勝ち誇った顔で叫んだ。
「ちょろちょろ逃げ回りおって! 観念し……」
物影を覗きこみ、続きが途切れた。思わず目を瞬かせる。
子どもたちが逃げ込んだはずの空間には誰もいなかった。奥へ逃げようにも、その先は狭すぎて野良猫くらいしか進めそうにない。
そんなばかな、と店主は思った。彼は確かに二人がここに入って行くのを見たのだ。
「彼女たちならさっき大通りへ逃げて行くのが見えたよ」
見覚えのある若い男に声をかけられた。
どこで見たのかと店主は一瞬考え、そしてすぐに思い至る。
「若旦那……」
「自分の患者はきちんと監督するようドクターには私から言っておこう。だめになった商品は買い取るから許してやってくれないか」
エンテル家の御曹司がなぜこんなところに。
店主の驚きが冷めやらぬ間に、ウェルフは静かに付け加えた。
「苛立つのも分かるが、所詮子どものイタズラだろう。杖を振りまわすなんて感心しないね」
振り上げたままの自分の腕に気が付き、店主は慌てて杖をおろした。
「いや、その、これは、そう、体操だ! この歳になると節々がかたまってしまうんでね……。忙しいと、すぐこれだ」
口の中でぶつぶつ呟きながら、足早に路地を出て行く。
店主の姿が見えなくなった後、ウェルフは足元に転がっていた瓶を拾い上げた。
ふっと笑みをこぼす。
「グロウディア君、そこにいるな?」
暗がりに声をかける。
と、奇妙なことが起きた。
店主が覗きこんでいた、建物の間の物影。そこにすうっと黒い影が浮かび上がり、二人の姿が現れたのだ。
一人はウェルフをにらみつけているベティ。
そしてもう一人、ベティを守るように抱いているのは、
「……気付いて、らしたんですか」
ローは小さく言った。
ベティがローの腕をふりほどいた。草を詰めた瓶を差し出すと、ベティはウェルフの手からそれを乱暴に奪い取る。
ついでに長い足を一発蹴っ飛ばしてベティは駆けて行ってしまった。
そう間をおかずカイの呼ぶ声がしたから、恐らくカイに捕まったのだろう。
ウェルフはしゃがみこんだままのローを見下ろす。
「立てるかい?」
「……はい」
手を貸そうとしたが、ローは自力で立ち上がった。
ローは返事をしたきり口を閉ざしたままだった。決してウェルフの方を見ようとはしない。
それでもウェルフは何かを期待するようにその横顔を見ていたが、やがて諦めて首を振りきびすを返した。
「……妹がいたんです」
青年の背を、震えるささやきが追いかける。
ウェルフの足が止まった。
ローはその場に立ちつくしたままだった。ぼんやりと虚空をあおぎ、うわごとのように唇を動かす。
「確かにいた、はずなんです。はずなのに……」
独白は大通りから聞こえる喧騒にまぎれる。
ローは自分の両手を見下ろした。ベティを守っていた手を、今はもう空っぽになってしまった手を、静かに見つめる。
いつから自分は間違えてしまったのだろう。
衣服のボタンをかけ違えるように、今までずるずると違和感を引きずってきた。時には気のせいだとごまかし、時には人のせいだと疑って。
他人を拒絶し、自分自身さえだまして目を背けてきただけ。
ローはようやく、ウェルフを見る。
「少し、話をしてもいいですか……?」
きっとうまくは話せないけれど、今ならちゃんと向かい合える気がする。
ウェルフは目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「もちろんだとも」
次回は24日の23時に投稿します。




