紅茶の香りのする朝食
「八来さん、この巨大な大判焼きの様なものは何でしょうか……?」
「ホットケーキに決まってるだろうが。ま、雛の胃袋に合わせたサイズと数だがな」
帰宅し、シャワーを浴び、短パンと白いTシャツというラフな格好に着替えた雛を待っていたのはクッションの様なまん丸で分厚く巨大なホットケーキの山。茶色の座布団もどきが湯気を揺蕩わせて壁に届かんばかりにそびえ立っていた。
そしてサラダボールにはリーフレタスに赤パプリカ、キュウリ、カリカリに焼いたベーコンがこれでもかと山盛りに入っている。サラダボールの横のココット皿には三種類のドレッシングが並べられていた。
「バターにメイプルシロップ、蜂蜜、好きなものかけて食え。サラダのドレッシングは人参・玉ねぎ醤油・オニオンの三種類あるからな」
ジーンズのズボンににTシャツ、青いエプロンをつけた八来が雛の前に真っ白いティーカップを置く。そこにはオレンジがかった鮮紅色の液体がカップの八分目まで注がれている。
「? この液体は……」
「紅茶だ」
「赤いお茶もあるのですね!」
八来の話によると、いつも飲んでいたお煎茶と元は同じ葉っぱでそれを発酵させるとこのような赤いお茶になるそうだ。
「お前が持ってきた薔薇も飾っておいた」
テーブルの真ん中には小さなガラスのコップが一つ。そこには教会でもらってきた赤い薔薇が一輪活けてあった。
「フランシス・デュブリュイか。あそこの神父も粋なもん育ててやがる」
「ふらんしす・でぅぶりゅい?」
聞きなれない横文字に雛が小首をかしげる。
「ああ、紅茶の匂いがする薔薇だ」
薔薇に視線を落とす八来。その瞳がどこか懐かしそうに細められる。
「昔の同僚……いや、ただの喧嘩相手が紅茶マニアでな。紅茶の知識やら関連品やら聞いてもいないのにベラベラと!お蔭でそれ系にはすっかり詳しくなっちまった」
その紅茶マニアで喧嘩相手だった同僚が一番好きだった花が、この紅茶の香りのするフランシス・デュブリュイだった。
そういえば、己が妙な組織に捕らえられる直前に負傷したのは覚えている。あいつが今どこでどうしているか、後で天照にでも聞いてみよう。
「薔薇に、ホットケーキにサラダ、そして上等な紅茶、文句はねぇな」
「そんな!こんなにも素敵な朝御飯は初めてです!!」
雛にとって初めての洋風朝御飯。これから訪れる未知の美味なる感動に胸躍らせ、へにゃりと崩れそうな笑顔で手を合わせた。
ほかほかのホットケーキをフォークで刺すとクッションの様な弾力に僅かにフォークの先が押し戻されそうになる。ナイフで切り分けるとふかふかのスポンジの断面がたっぷりのバターとメイプルシロップでキラキラと濡れる。
大きく切って齧り付きたいが、はしたないので一口大にカット。口に運び……数秒雛は目を閉じて固まった。その目にはじんわりと涙が滲んでいる。
(ふわふわでもっちもちで、バターの香りがとシロップと生地の甘さが口でもふんもふんと広がっていきますぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!)
そして二口、三口と食べ進めていき口の中が甘味で一杯になったところで紅茶を一口。
「ーーーっ!?」
またしても未知の衝撃に手が止まった。
紅茶の芳醇な香りと程よい渋みが口内をさっぱりさせ、リセットされた舌はまた一口二口とホットケーキを楽しめる。
サラダのドレッシングは迷った末にキャロットドレッシングにしてみた。葉物の緑とパプリカとベーコンの赤にドレッシングをかけると人参のオレンジ色がよく映える。
人参の自然な甘みとベーコンの塩気とオリーブオイルの香りで野菜を食べる手も止まらない。
ホットケーキの甘さにサラダの青みと塩気、紅茶の香りと心地よい苦み。この三つが組み合わさるとただでさえ止まらない手が更に加速する。
そしてあっという間に天井にも届くかというほど積み重なった巨大なホットケーキと、小さな密林の如き大盛りサラダ、ティーポット一杯分の紅茶は全て雛の胃袋に収まった。
「ご馳走様でした」
「あいよ」
ホットケーキの壁が消失し、やっと見ることが出来た雛の顔は満足げであった。
多く作りすぎたかと思っていたが、どうやら杞憂だったという安心感と同時にこれからの不安が脳裏をよぎる。
(こいつ…朝から大盛りのちゃんこ鍋作っても一人で完食しそうだな)
ああ、家計簿をつけるのが怖い。エンゲル係数見たくない。
一人遠い目をしながら啜る紅茶は何故かいつもよりも苦く感じた八来であった。