折り紙の鶴
産まれた時、私が目を開けて一番最初に見たのは、エヴェルの顔だったらしい。
「ほら、こうすればいいんだよ」
仕方がないな、と苦笑していた。それから私の手の中の中途半端でぐしゃぐしゃな紙を取り、その手で正方形に戻してから器用に鳥の姿に変えてくれた。
エヴェルはどこまでも大人で、優しくて。いつも小さいようで大きい三つの違いが、悔しくなる。エヴェルだってつい最近二桁を迎えたばかりだというのに。
この差はいったいなんだと言うのだろう。物心がつく頃から、厳しい大人ばかりと過ごしてきたからかとは思うけど。それなら私だって、甘やかされて育った覚えはないのに。だから尚更、決定的な差の原因が煩わしい。自分にはどうしようもできない、持って生まれた器用さ、思考能力、そして三つの差も。
どれもが私をエヴェルに近づけなくさせる。幼いながらに抱いたエヴェルの役に立ちたいという思いも、そもそも役に立てるほど私の能力が高くないという事実に砕かれそうになる。女ならできるべきとやらされた家事も最近は慣れたけれど、慣れただけだ。私なんかより上手い人は他にたくさんいる。だから料理で喜ばせることなんて不可能だろうし、掃除や洗濯はそもそも選択肢にない。
なら別の方法で役に立つのだと意気込み、エヴェルに普段やってることを手伝いたいと言っても、首を横に振られて。自分の父やエヴェルの父にこっそり言ってみても、危ないからと諭されて。
でも、それでも、諦められなかった。危ないことなら尚更、何か手伝いたいのだと思ってしまう。私はただ、エヴェルの元気で楽しそうな姿が見たいだけ。そう思って言っているだけなのに。張本人は力仕事ばかりで、下手したら怪我をするからと取り合ってもくれない。
どれだけ大丈夫だと言っても、首を縦には振らないだろうとわかった。だから私は、自分とエヴェルの父が揃っているのを見つけ、すぐに手伝いたいと言ったのだ。ちゃんとエヴェルがいないのを確認して。いたら反対されることがわかっていたから。
けれどエヴェルがいてもいなくても、結果は同じだった。二人から返された言葉は、私がまだ小さいからとか、危ないからとか、私にとって良い意味を含んだものが一つもなかった。そして挙句の果てには、そういえば、とポケットから折り紙を取り出し、くれたのだ。余った時間があるのなら、それで遊べばいいと。
悔しかったし、心の中では少し怒っていた。そりゃまだ子供だけど、危なくなったら逃げればいいんでしょ。それくらいできるのに、と、手にした折り紙を睨んで思っていた。エヴェルだってそう。ただ、手伝いだけなのに、許してくれない。ただ、少しでも、ただ。
「…ありがとう」
傍にいたいだけなのに。
結局誰もいなくなった部屋で、私は折り紙を始めた。何羽もの鶴を折っていた。そのどれもがなんだか違和感を覚える姿をしていたけれど、私は折れればなんでもよかったから、多少どころでなく間違っていて、それが鶴に見えない姿だとしても、どうでもよかった。
無心になりたかった。何も考えたくなかった。それでも最後の一枚だけは、綺麗に折ってあげたいと思ったから。何度も折ってはやり直し、また最初の状態に戻して、と、繰り返した。
そんな風にひたすらに集中していたから、私はその時聞こえた足音にも気づいたようで気づかなかった。もしも近くに来たその人に自分の名前を呼ばれなかったら、ずっと右から左に聞き流した足音のことなんか忘れて、気づかなかっただろう。
「どういたしまして」
いつもの優しい笑顔を浮かべたその人の折った鶴は、私とは全然違う折り方でできていた。私が何羽も折った、鶴だと思っていたものは、全く違う何かだった。よく私が鶴を折りたいと思っていたのがわかったねと、言ってやりたい気分だった。
でも、私は一羽の鶴と、それ以外のよくわからない何かを見て、もう。もう、笑うしか、ないと思ったから。綺麗な鶴。不恰好な何か。まるで、
「無理して背伸びする必要は、ないと、思うんだ」
優しくて、どこか真剣な声だった。私はエヴェルの言いたいことがよくわからなくて、真剣な顔をしたエヴェルのココア色の瞳を見ながら軽く首を傾げる。
「手伝いたい、って。言ってくれるその気持ちだけでいい。それで十分嬉しいんだ」
私は無意識に、真剣なその視線から逃げるように目を逸らした。
「……そっか」
落ち込んだ声にはなっていないだろうと思いながら、ふと、エヴェルは目を伏せた私を見ているのだろうか、とも思った。エヴェルは人の目を見て話すから、見てるんだろうな、と心の中で呟く。
「十分頑張れるから、だから、その……無理して頑張ろうとしなくていいんだよ」
ああ、きっとどちらかの父がエヴェルに伝えたのだろう。私のお願いを。そしてエヴェルは、私を諭しに来たのだ。そう察した私は、それがなんだかおかしくて、心の中で軽く笑った。
だって、エヴェルは勘違いしている。
私が無理をしている?ああ、確かにそうかもしれない。慣れ出したばかりの家事と手伝いを熟すなんて、私には無理だ。エヴェルの言う通り、背伸びしているのだろう。
ただ手伝いたいだけなのに、なんて思って疲れた体で手伝うことの、何が“手伝い”なのか。ただの足手纏いではないか。そんなことにも気がつかないなんて、やっぱり私は子供だった。
けれど同時に、それに思い至って尚、役に立ちたい、大丈夫、なんとかなるさ、と思う声も私の中にあるのだ。本当に、身の丈というものを知らない。
でも、だって、迷惑をかけるだけだとわかっただけじゃ、――この衝動は落ち着かないのだ。
…エヴェルが思っているみたいに、私はみんなの為に頑張るわけじゃないよ。
そっと口の中で囁いた。その勘違いは、私とエヴェルの間に、とても大きな認識の溝を生んでいるのだろう。
だって私は、ただ、エヴェルと一緒に過ごす時間が欲しいから、手伝いたいと思って、行動した。けれど、エヴェルは違うのだろう。なら、迷惑に思われる前に、私は。
ただイヤイヤをする分からず屋な自分にはなりたくない。子供でいたくない。エヴェルの隣に立っていたい。
――それくらいの背伸びは、してもいいでしょ?
私は心の中でうん、と頷き、「わかった、もう言わないよ」と言うためにエヴェルの顔を見上げたが、予想外の状況に思わず動揺して、何も言えなくなってしまった。
エヴェルは何故か顔を、いや、耳まで真っ赤にして、少し視線を下に向けていた。私の目を見ているようで、見ていない。私は言いたいことも忘れてエヴェルを凝視するが、エヴェルは私を見ないまま、微妙な空気が僅かに流れる。
けれどそんな私と、チラリと動いたココア色の瞳がはっきりかち合い、そこでやっと、なんとも言い難い空気が動いた。理解の追いつかないまま呆然とエヴェルを見ていた私に、彼は小さく言ったのだ。
「そ、れにその…帰ってきた時に、おかえりって言われると、その、帰ってきたって安心するっていうか…でも他の人にお疲れ様、とか言われても、そんなに気は抜けなくて、だから、その……」
真っ赤だった。それはもう真っ赤だった。
「――だから!俺のためにもここにいてくれた方が俺は嬉しいの!」
エヴェルは小さな声でぼそぼそと話していた時とは一転、ヤケクソのように早口でそう叫んだ。そして同時に、一箇所に散らばった私の折ったものを何故か一つ持ってどこかへと走っていった。
私はあまりの状況に思考が混乱して、混乱しすぎて、えっ!?とすら言えないまま、しばらくエヴェルの折った鶴を手に座り込んでいた。
だって、エヴェルの言葉はよく聞こえなかったし、最後は叫ばれてわけがわからないし、っていうか最後のあの行動なんなのどういうことなの本当にもう意味わかんない!なんて考えていた私は完全に落ち着きを失っていたけれど、それでもわかることはあった。
エヴェルは私にとって嬉しいことを言っていたのだと。エヴェルの言動を批判しながらも、この心は軽くなっていた。
だから私は決めたのだ。
エヴェルが望むのなら、私はいつだってエヴェルにおかえりと言って、その心から力を抜かせるためにお疲れ様と言おう。それで役に立てていると言うのなら。誰でもないエヴェルが、他の人ではできないことだと言ってくれるなら。
そうして私は、随分と軽くなった気持ちで家事をしに行ったのだった。
読了、感謝感謝でございます(-人-)