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ストレンジャーズ・ソウル

きっと最初から決まっていたんだ

作者: 吉語緒月


思えば昔から、死を身近に感じることが多かった気がする。


俺が子供の頃に住んでいた村は、アシュディードの帝国の隅の隅。聖王国との国境近くにあった。

かなりの辺境だったから、人間の魂を食べる悪魔も、人間の魂を持って行ってしまう天使も、村を襲うことはなかった。それなりに平和だった。村の人々の気質も温厚で、争い事、揉め事はほぼ起きない。ただ、閉鎖的であるため、噂が立てば村中にあっという間に広がるし、プライバシーもへったくれもないところがある。村の優しい神父は、村の外から来たため、村に来てからしばらくは村人たちに集られていた。

俺はそんな辺境の村の更に外れに、祖母と共に暮らしていた。

祖母は、花の魔法使い。花を媒介として魔法を使う。あまり使っているところは見たことがないが、花が光となって魔法になった時、とても綺麗だと思ったのは覚えている。しかし、残念ながら俺には魔法の素質はなかった。

祖母は聞けば何でも答えてくれた。

「時々、カインや村の人たちに光の粒みたいなのが見えるんだ」

「シアンは、なんだと思う?」

「......魔力、とか?」

「かもしれないねぇ。でも、違うかも」

祖母は、いつも何か作業をしながら俺の質問に答えた。それは植物をすり潰しながらだとか、布を織っている時だとかだった。すり潰された植物の、鼻につく匂い。祖母の匂いだった。

俺が、祖母がよく手にしていた赤い花の出てくる夢を見た日、祖母は死んだ。眠っているように見えたが、その身体は空っぽだった。

祖母が死ぬなんて、想像していなかった。胸の辺りにスウッと風の通れる穴が空いたみたいに感じた。同時に、理解した。彼女も人間だったのだ。

初めて見た死は祖母のもの。その次は、友人の死だった。

友人のカインは、今まで来なかったはずの、天使に殺されて、連れて行かれた。カインの空っぽの身体は今も村の土の中にある。

村の教会で起きた事だった。

神父はギリッと歯を食いしばり、爪が食い込むほど拳を握り込んでいた。普段穏やかな彼に似つかわしくない、悪魔のような形相だった。

今も夢に見るあの赤い花。それはいつも同じ女が手に持っていた。若い頃の祖母。何となくそう思った。

女の近くにはいつも人が立っていた。何かを話すでもなく、ただただ立っているだけ。そして、みんな何かしら身体の一部がなかった。戦争で死んだ死体みたいだ。

それが彼女の友人なのか、それとも全く関係のない人なのか、俺には分からなかった。俺は、彼女のことをほとんど何も知らない。これから何か知ることもないだろう。




アシュディードの帝国には、ギルド制度がある。帝国の中では、何をするにもギルドという存在が不可欠だ。

戦闘ギルド、商業ギルド、研究ギルド等々様々なものが存在する。

俺はその中で、戦闘ギルドに所属している。主な仕事は偉い人の護衛と害虫駆除。この場合、害虫というのは天使や、悪魔のことで、時々人間を相手にする事もある。大体人間の相手は帝国騎士団がするものではあるが。

今日の俺の仕事はお偉いさんの護衛だ。ガタガタと揺れていた馬車から降りると、すぐに天使が飛びかかってきた。

すぐに特殊な銃で撃ち殺す。天使の中でも下級のそいつは、耳障りな声をあげて塵になった。石畳の上にバラバラと散っていく。

俺の使う銃には、悪魔と天使を殺せる魔弾がセットされている。特殊な魔力を込めた弾でないと、こいつらは殺せない。

急に角から飛び出してきた天使に発砲する。また下級だ。下級の天使は気味が悪い。愛くるしい赤子に羽が生え、天使の輪を浮かべているのに、笑みが気持ち悪いのだ。魂の醜さというか、内面の醜さが滲み出ているような気がする。外面は清廉なだけに、強烈な違和感を感じる。

俺は鈍く光を反射するそいつを、銃を眺める。俺は何故天使を殺すんだ。仕事だから? それとも、天使に殺されたカインの復讐のため? 答えが出なくて空を見上げた。あまり綺麗ではなかった。

「シアンくん、今日も絶好調だね〜」

「別にふつうだと思うが」

「や〜いくら魔弾と言えども、当たらなきゃ意味がない。それ、シアンはバシバシ当てちゃってるけど、本当はめちゃくちゃ扱い難いんだぜ?」

ビアンカが自分の長い赤毛を弄りながら言う。彼女は赤毛の獣人。種族は狼のようだったが、彼女は違うと言っていた。

ビアンカはいつも、アゼルという男と行動を共にしていた。

いつもおしゃべりなビアンカとは違い、アゼルは物静かな男だった。ぼんやりとしていて、何を考えているのかよくわからない。

時々仕事が一緒になる彼らは、ギルドの中でも浮いた存在だった。そもそも、いつもギルドのある帝都にいるわけではない。二人して何処かに行き、度々帰ってきては依頼を受ける、といった自由きままな二人組なのだ。そういえば、この二人とは、帰って来るたびに同じ依頼を受けている気がする。

同じ奴らと組むことの少ない俺が、一番一緒に仕事をするのは、何だかんだ言ってこの二人だ。ビアンカには人間嫌いなの、と指さされて笑われた。

「そういやシアン、吸血鬼って知ってる?」

「血を飲む不死の怪物だろ?」

「そっちのスタンダードタイプじゃなくてさぁ」

どう言ったものか、とビアンカが呟き、頭をガシガシ掻く。ふつうの吸血鬼ではないとなると、ピンと来るものが俺にはあった。

「俺の故郷に伝わる吸血鬼の話か」

「そう、多分それ」

俺の育った閉鎖的な村、リオドラ村にはとある伝承がある。曰く、悪業を成した者は吸血鬼となる。

悪業を成した魂は、罪の所為で身体に縛りつけられ、天に還ることが出来なくなる。肉体は死んでいるのに、魂は肉体にある。矛盾を抱えた身体は、どうにか生きようと、生者の血を啜るようになる。生者と言っても、人間である必要はないので、犠牲になるのは大体家畜だったとか。血を啜るから、吸血鬼と呼ばれるようになった。けれどそれはどちらかというとゾンビに近いものだと思う。

他の村や地方でそんな話は聞かない。何故リオドラ村にはそのような伝承があるのか。多分、昔に実際あったことなのだろうが、リオドラ村にしか残っていないというのも妙な話だ。

「どうかしたのか」

「うん、噂で聞いて面白そうだな〜って思ってさ。シアンくん、出身地域だったような、って思って?」

ビアンカの目は、面白そうだという光がありありと光っている。

「俺もそんな詳しくない。実物は見たことないし」

「あ〜まあ、そんなホイホイ生き返られても困るわな」

見てみたいな〜とビアンカが呟きながら伸びをした。

「お前たち、まだ仕事は終わっていないぞ」

苛立った様子で騎士が言う。帝国騎士団から派遣された騎士だ。俺たちを雇っても天使や悪魔どもに殺されるかもしれないという恐怖は薄れないらしい。そもそもこの騎士自体、天使にビビっているのではないか。こいつの装備は一般装備だ。つまり、特殊な魔力が付与されていない装備だから、天使や悪魔とまともに戦うことが出来ないということ。

「ハ〜イどうもすいませ〜ん」

やきもきしているところにビアンカが適当に返事をするものだから、騎士の苛付きは増していく。獣人の分際で、くらいは思っているかもしれない。しかし口に出さないだけ懸命だ。もし口に出していたら、即、この女に挽肉にされていただろう。ビアンカには自分よりも弱い奴にバカにされるのが我慢ならない。実際、酒場で小物っぽい輩にちょっかいを出されて、拳を握って食ってかかるのを見た事がある。

「そうだ、今度その吸血鬼に会う機会があったら、どうだったか教えてね〜」

「故郷に帰る予定はないし、そんな機会もないと思うが」

「まま、そんな硬いこと言わずにさ〜」

ごほん、と咳払いをして、騎士がこちらを睨みつける。俺とビアンカ、そしてアゼルは最初からだったが、しれっとした顔で無視しておいた。




今日の報酬はなかなか良かった。久々に懐が暖かい。

「珍しく嬉しそうな顔だな、シアン」

「報酬が良かった」

腹立つお偉いさんの話を黙って聞いていた甲斐があったもんだ、と俺が言うと、話しかけた男は苦笑いした。その男はギルド内の酒場のマスターで、依頼の管理をしている。ちなみにギルドマスターではない。名前は忘れた。

「そういえば、依頼が来てるぜ、お前さん指名で」

「......なんで?」

「俺に言われてもな。愛想は良くないが能力が良いからじゃないか?」

わざわざ人間嫌いか、と弄られる俺を選ぶとは物好きもいたものだ。いや、素材回収の依頼かもしれない。そうなれば能力面で選んだ方が確実だからだ。

「依頼人はどこに?」

「さあ......色んな情報を集めている様だったから、どっかの酒場にいるんじゃないか?」

「......」

「依頼、受けるのか?」

「本人に話が聞けたらな」

俺が言うと、男は珍獣を見たような顔をしていた。そんなに俺は人間に興味がないと思われているのか。

俺はふんっと鼻を鳴らして出入り口に向かった。

後ろから、

「おいおい、アイツなんか悪いもんでも食ったのか?」

「機嫌が良いから、だろ」

と会話が聞こえた。そういえば、ギルドのほとんどの奴とはまともに会話をした事が無かった。


大きな通りの石畳の上を歩く。魔法灯の赤みがかった光が辺りを照らしている。少し目に痛い。

酒場と言われても酒場は帝都だけでも沢山ある。情報収集なら大きな酒場に行く可能性が高いか。俺は一番大きな大衆酒場の方へ足を向けた。

何だかいつもより騒がしい気がする。そう思ったのは大衆酒場の目と鼻の先、多くの屋台が並ぶ市場に差し掛かった時だった。

そそくさと市場を後にする者、野次馬精神で見に行く者。入り乱れていた。奥の方から怒鳴り声が聞こえた。

「だから何度も言わせんな! テメェらの探してる奴なんざ知らねぇよ!! とっとと国に帰りやがれ、この天使の犬どもが!!」

なるほど、聖王国の騎士がいるのか。

聖王国は、このアシュディード帝国より東にある大きな国で、大陸一の宗教大国だ。その信仰の対象は天使。聖王国の騎士、聖騎士は天使の翼の色を彷彿とさせる銀や白の装備で固めている。

聖王国と帝国は仲が悪い。過去何度も起きた戦争が原因である。聖王国は天使の力を借り、帝国の騎士や魔導師たちとぶつかった。その結果、多くの騎士と魔導師たちが天使によって魂を持っていかれた。しかし、天使たちが持っていったのは、帝国側の人間の魂ばかりでなく、聖王国の人間のものも含まれていると聞いている。協力するのだから魂をよこせとでも言われたのか、それとも自ら献上したのか。あの手の狂信者たちの集団は理解出来ない。帝国は、負けこそはしなかったものの、多大な損害を受けた。

天使を好きだと言う人間は、この帝国にはいない。だから民衆も天使を崇拝している不気味な奴らの事は良く思っていないのだ。

まだ何か言い合っているが、わざわざ首を突っ込むことも無いだろう。ルートを変えて脇道に入った。

脇道に入ってしまうと、喧騒は一気に遠くなり、かすかな月明かりだけが頼りになった。ここは、リオドラ村よりも月明かりが弱い。周りが明るすぎる。

「お、っと」

「っあ、すいません」

ひょいと、角を曲がろうとして、フードの女とぶつかりそうになった。薄い月明かりも相まって、顔はほとんど分からない。女は一度背後を確認してから、そそくさと去って行った。

何となくその後ろ姿を見る。何かに追われているような素振りだったが、聖騎士が探しているとかいう奴だろうか。

すぐに後ろ姿が見えなくなって、俺はまた歩き始めた。酒場に着いたら何を食べようか。メニューを思い浮かべながら歩いていると、前から銀の鎧の騎士が歩いてきた。聖騎士だ。かすかな月明かりでも反射して、銀の装備が輝いている。

特に何も起こることはなく、ただすれ違った。何も言われないのか、と少し拍子抜けしたが、聖騎士はこちらを見ていた。それはもう、観察するように。気味悪くも感じたが、あまり関わりたくないのでそのまま歩く。何だかメシが不味くなりそうだ。


メシを食べる事ばかり考えていたせいで依頼人を探すのを忘れていた。気がついたのは次の日になって、ギルドの建物に入った後だった。待っていればその内来るか、と結論付けて適当な所に座る。近くに座っていた男たちに、ぎょっとした顔をされた。普段あまりここに居ついていない所為だと思われる。

「おお、シアン。珍しいな」

「依頼人を待とうと思って」

そうか、と軽く返される。

ここに来て、やることがない。人が大勢いる中で銃のメンテナンスなんてやりたくないし、何か飲み物を頼む気にもならない。結局ただぼんやりと適当な所を見ていた。

人の、頭から心臓にかけて見えるキラキラとした光の粒。昔からちょくちょく見えてはいたが、最近はそれはもうはっきりと見えるようになった。たくさんの人がいると、もうごちゃごちゃとして気持ち悪くなってくる。

もう少し人の少ない方に行こうと立ち上がると、見知った赤髪が見えた。

「お、シアンじゃん。なんか珍しいね」

「ビアンカ、とアゼル」

「うん」

ビアンカの後ろには、影のようにアゼルがいる。

「お前らも珍しいな。まだどっか行ってなかったのか」

「まあね〜どうも、」

チラリとビアンカがアゼルを見る。

「今は帝都が一番近いらしくて」

「......へぇ」

何が、とは聞かない。そんな事を聞いた所で何もできやしない。それに、アゼルはその手の事は答えてくれないように思う。

ビアンカとアゼルの二人旅は、驚く事にアゼルが行き先を決めているらしい。だが、アゼルはどうにも不器用で方向音痴らしく、行き方はビアンカが決めている。引っ張って行くのもビアンカだ。勝手にどっか行くの止めてほしい、とビアンカは口を歪めていた。

「おーい! シアン!」

酒場のマスターに呼ばれた。そちらに目を向けると、酒場のマスターの近くにフードを被った人物がいるのが見えた。

歩いて近づいて行くと、どこかで見たようなフード。

「お嬢さん、こいつがシアンです。愛想は良くないが、能力は良いので」

「.....ドーモ」

「はい、えっと、わたしはシャロンと言います。貴方には、護衛の任務を、お願いしたくて」

酒場のマスターの隣に立つフードの女を見下ろす。明るいところで見ると、女というよりは、少女、といった感じだ。

俺が値踏みしているように見えたのか、彼女は慌てて付け足す。

「あ、安心してください。依頼料は出せますから」

「お嬢さん、こいつはそんな心配はしていませんよ」

俺が言う前に、酒場のマスターが笑いながら言った。確かに俺は、依頼は報酬で選んでいるわけではないが、他の奴に言われると少しカチンとくる。

酒場のマスターはまさか断らないよな、という目で俺を見ていた。見るからに世間知らずで、金を持っていそうな彼女に、金をたくさん落としてもらおうという魂胆だろう。

俺が何も言わないでいると、酒場のマスターはどんどん話を進めていく。断らせる気は最初からなかったようだ。

俺は一つため息をついて、話が終わるのを待った。


「すいません、お待たせしました。では、行きましょう」

「どこ行くの〜?」

「えっ」

やっとこさ外に出れるかと思えば、今度はビアンカがちょっかいを出してきた。ニマニマと笑みを浮かべている。

「あ、わたしはビアンカ。よくシアンと仕事一緒にやるんだ〜。こっちの根暗はアゼルね」

「わたしはシャロンといいます」

シャロンはぺこりと礼をした。それから顔を上げて、ビアンカをまじまじと見ていた。

ビアンカは赤い耳を少しぴぴっと動かした。

「何? 獣人珍しい?」

「そう、ですね。故郷では見た事が無くて。本当に生えてるんだなあって思って。すいません、不躾でしたね」

「ん〜? いいよ、別にさ」

わたしもガン見してるしぃ、とビアンカが縦長い瞳孔でシャロンを見る。

獣人を見た事がないというと、実家はかなりの金持ちなのかもしれない。あの手の連中は人間至上主義が多いように思うから。

しかし、故郷でも見た事がない、とくると、そもそも帝国の出身ではないのかもしれない。聖王国の人間だろうか。

「シアンくんは?」

「は?」

「シアンくんはなんか言う事ないの」

ビアンカが今度はその縦長い瞳孔を俺に向けてくる。

「仕事の話をしようとして、お前が来たんだが」

「あ〜そんな話は後でいいよ、コミュニケーションが必要だよ、シアンくん!」

「そんな話ってお前......」

コミュニケーションと言われても。何も言いたい事などない。しかし、強いて言うなら。彼女の心臓付近に浮かぶ光の粒は、キラキラと眩しいほどに輝いている。こんなに輝いているのは見た事がない。ただ者ではない。

「あの、先にその、仕事の話をしても良いでしょうか。コミュニケーション云々は、後でたくさんやりますので」

その言葉にビアンカはキュッと口を閉じた。そのまま俺の方を見る。気を使わせてんじゃねぇよ、とでも言いたげだ。

「ビアンカ、あっち行こう」

「あ? アゼル! ちょっと待てや! アンタすぐ迷子になるでしょうが!」

ようやく口を開いたかと思えば、アゼルは一言言ってそのまま歩いて行った。焦ったビアンカがすぐその後を追いかけて行く。

「シアン、気を付けろよ!」

俺にはよくわからない忠告を残して。

「えっと、じゃあ、行きましょう」

「その前に一つ」

「何でしょう」

「敬語はいらん。鬱陶しい」

そう言うと、シャロンはキョトンとした顔になった。

「え、ええと、わかった。そうする」

ドアを開け、外に出ると少し太陽の光が眩しかった。

「で、なんであんたは聖騎士なんぞに追われてるんだ」

「えっ、なんで聖騎士に追われてるって知って......」

「昨日、市場の路地でぶつかりそうになった」

言うと、シャロンは数秒考え、それからハッとした顔になった。

「あの時の人だったのか......その説は、どうも」

「いや」

「えっと、ここでは少し話しにくいのだけど」

「追われているのは、アンタ自身か。それともアンタの持っている何かか?」

「わたし自身、だよ」

そう言ったシャロンの目には、小さな陰りが見えた。

ここでは詳しい話はしにくいと言うので、ひとまず移動する事にした。

人間に追われているのなら、人に紛れて移動した方がいい。なるべく人の多い通りを選んで歩いて行く。

少しガタついた石畳の上をひょこひょこ歩く。足の裏から伝わってくる硬い感触。カツカツと靴が音を立てている。こんな硬い地面を歩くよりも、さくさくと音を立て、柔らかい地面の上を歩く方がよっぽど楽しい。

程なくして、いつものパン屋が見えた。俺が二階に部屋を借りているパン屋だ。

「ここは」

「俺の家」

「なんで」

トントンと、外に付けられた階段を上る。

「武器も揃ってるし、ここじゃ獣人でも連れてこないと聞き耳はたてられないだろ」

鍵をガチャガチャやってドアを開ける。少し立付けが悪い。

中に入れば、見慣れた武器倉庫のような部屋。

「お、おじゃまします」

シャロンは誰に向けたのかよく分からないお辞儀をして入ってきた。それから物珍しそうにきょろきょろと見ている。

棚には大量の本と武器。木目の床の上には大小様々な箱と瓶。間違っても客人など入れられる部屋ではなかったが、元から入れる気はなかったのだから今更どうこうしても仕方ない。

「適当に座っとけ。あと茶はない」

「あ、うん」

ちょこんとシャロンが椅子に座る。座ってからも彼女は、好奇心が収まらないようで、じっと棚を見ていた。

「この銃って、魔弾銃?」

「ああ、ここにあるのは全部そう」

「すごい量だね......」

その様子には、呆れの色は見えなかった。単純に感心しているらしい。

「それで、アンタはなんで追いかけられている」

「......わたし、ちょっと人とは違う事が出来て。そのせいで聖王国の人たちに天使に捧げられそうだったの」

自分の子供を天使に捧げるなんて冗談じゃないと、母親はシャロンを連れて聖王国から逃げ出した。それから田舎で隠れて暮らして、見つかったら逃げてを繰り返していたらしい。

今までは何とか逃げられていた。しかし今回は、母親は捕まり、シャロンだけが帝国に逃れた。

「で、アンタは俺を雇って何をしたい。どこに行くんだ」

「母さんは、あの人たちに捕まってしまった以上、もう死んでしまっていると思う」

シャロンは俯きながら言った。ギュッと、俺より小さな手が、強く拳を握る。

「助けることは出来ない。それに、母さんは自由に生きろと言ったから、その通りにしようと思うんだ」

顔を上げたシャロンの目には、強い光が宿っていた。

「自由に生きるためには、わたしには障害が多くて。ひとまず追っ手をどうにかしたいんだ」

「そうか。......ちなみに、本当に追っ手は聖騎士だけなのか?」

「わからない。でも、天使が来てたらすぐに捕まってたと思う。もしかしたら痺れを切らして出てくるかもしれないけれど」

天使が出てくるなら撃ち殺せばいい。聖騎士が、人間が出しゃばって来ているとなると、どうすれば正解なのか。その時が来たらなるようになるか。



「銃をそんな構え方したら絶対当たらない。無理してでかい口径持つな、反動で肩が外れる。カッコよさは求めるな、ちゃんと両手で持て」

「ああああ! わかったよ! わたしが悪かったよ! いっぺんに言わないで泣くよ!!」

木の枝にぶら下がっている的に、シャロンの撃った弾はまったくかすりもしない。

シャロンの仕事を受けて、しばらく経った。今のところ聖騎士が俺の家に来たり、近くを嗅ぎ回られた事はない。シャロンが俺の家に泊まっている事以外は、以前とほぼ変わらない生活をしている。

「くううう当たらん」

「本当の魔弾で撃ったらもっと当てにくくなるからなー」

「うううう!」

弾は幹にめり込んだ。

俺の家に居座る前、つまり俺に依頼を出す前だが、シャロンは帝都の外れにある廃墟に寝泊まりしていたらしい。それはそれで危険な気がするが、本人曰く、少なくとも寝る場所に屋根は欲しい、らしい。

シャロンはどう見ても育ちのいいお嬢さまだ。食べ物の食べ方も綺麗だし、礼儀を忘れていない。金の管理には若干疎い。しかし、彼女は思った以上にアグレッシブだった。タフとも言う。

まず、追われているというのに、猜疑心に囚われていない事。俺としては、自衛の為に多少は疑う事を覚えて欲しいのだが、シャロンは他人を疑わない。もしかしたら、聖騎士が一般人に成りすましているのかもと疑わない。しかしこれは俺もないと思う。無駄に誇り高いので、天使信仰を持たない下賎な輩には成りすまさない、はずだ。

それから俺に銃の使い方を教えて欲しいと言ってきた。少しでも扱えるようになれば、自分の身を守れるし、逃げる為の時間を稼げる。あわよくば仕返しをする。

「無理して的の中心は狙わなくていいぞ。とにかく当てろ。嫌いな奴の顔でもイメージすれば当たるんじゃないかー」

シャロンの撃った弾は木の葉を揺らした。

「むううう腹立つ」

「誰をイメージしたのやら」

ぷーっと頬を膨らませて、悔しそうな顔をしている。そうとう腹立つ相手をイメージに選んだらしい。俺かもしれないな。

シャロンに射撃の腕が身につくのも、仕返しができるのも、一体いつになることやら。

「めちゃくちゃ射撃上手い兵士捕まえてさあ」

「え、何」

「そいつの腕とアンタの腕を付け替えたら簡単に射撃できるようになりそうだよな」

「こわいこわいこわい。その理論はおかしい。ていうか、わたしそんなに才能ない!?」

「......」

「何で黙り込むのお!?」

シャロンの射撃の才能、か。才能云々以前の問題だと思う。筋肉とか体力とか。

「まあ、いい方なんじゃないか。教えたことないから知らないけど」

「不安だ......」

「才能気にするよりもやる事あるだろ。付け焼き刃じゃなくて本格的に覚えたいってんなら特別コースがあるが」

「い、いいえ〜またの機会に〜」

今度はちゃんと弾が的をかすめた。当たってはいない。


シャロンの射撃訓練を見る傍ら、俺は薬草や使えそうな草花を集めていた。

使えそうな草花、というのは魔法の触媒になるものの事である。これをすり潰して、砂状にした鉱石や炭と混ぜる。それからちょっとしたおまじないでもかけてやると魔弾になる。正確に言うと、魔弾の中身だが。

俺に魔法使いの使う魔法の素質はない。だが、炎を出したり、水を操ったりする事だけが魔法ではないということだ。

ザアアア、と風が吹いて、木々を揺らす。木陰の、陰がもっと濃いところ。そこに、赤い花を持った女が一人。

「シアン......」

「......?」

驚いた。今までまったく何も話さなかった彼女が、俺の名前を呼んでいる。

「シアン......」

なんだ、何で俺の名前を呼んでいる。それに、いつも近くにいるあの人たちはどこに。

いつもと違う彼女の出現に、胸がざわめく。落ち着かない。

「シアン!」

シャロンの声にハッとなった。

眩しい程に輝いていた太陽の光は陰っていたが、彼女が立っていた所に先程までの黒い陰はなかった。

「どうしたの? 寝てた?」

「......わからん」

「ええ、ボケてる?」

あれは夢だったのか。それとも幻を見ていたのか。

考えても胸のざわつきは収まらないし、気分も悪い。

「......もう帰ろう」

「やった! わたしお腹空いた!」

シャロンは本当に強かな奴だ。


じわじわと青い空がオレンジ色に染まっていく。思ったより射撃訓練に時間を使っていたらしい。

「シアン今すごいファンシーだね」

シャロンが俺の持つ籠を見て言う。籠の中は草花で溢れていた。

「仕方ないだろ。買ったら高くつくモンばっかなんだから」

魔弾は安くない。ついでに言うと魔弾の材料も安くはない。

「それさあ、勝手に採ってきたらやばいやつなんじゃないの。怒られない?」

「俺は俺の狩り場で採ってる。他の商会の邪魔はしてないぞ」

ニヤッと笑って言ってやる。それにシャロンはうわあ〜お、と言って俯いた。よく分からない反応に首を傾げた。

ふわっと、パンの焼けるいい匂いがしてきた。腹の虫が刺激される。

「パン食べよう! パンパン!」

「ほぼ毎日食べてるけどなー」

匂いを嗅いで元気になったシャロンが駆けていく。俺もその後を追いかけて、ドアベルを鳴らした。

ドアが閉まる前に、うなじにチリッとした感覚があった。誰かが見ている? シャロンが見つかったか。あんまり隠れていなかったし、本気で探そうと思えばすぐ見つかるとは思うが。そう思いつつ、そうっと外を伺う。聖騎士はいない。

「あ、シアンさん」

「ん、ああ、ジーナ」

声をかけられ、ひとまず意識を店内に戻す。警戒は忘れない。

「なんだか久しぶり、ですね」

「そうだったか。確かに最近顔を見なかったな」

何を緊張してるのか、ジーナはもじもじと手を動かしながら話している。その様子をシャロンがじっと見ていた。

ジーナはパン屋の娘で、帝都の魔法学校に通っている。あまり戦いに向いた性格ではないので研究でもしているのかもしれない。そう考えても意外だと思うが。

「シャロン、決まったのか」

「うん」

「あ、あの、シアンさん、この人は......?」

ガン見されていたたまれなくなったジーナが、助けを求める様な目で俺を見た。

「俺の雇い主兼居候」

「雇い主に居候って酷くない」

「生活費出してるのは俺だしなあ」

「でもその生活費の元はわたしが出したようなものじゃん」

「報酬貰ってないから。それは違うな」

「あの、仲、いいんですね......」

ジーナの言葉に少し驚いて、そちらを見る。

それからシャロンと二人で顔を見合わせた。キョトンという顔をしている。

「わたしたち、仲いい」

「そう見えるらしい」

そう言うと、シャロンがニヤッと笑った。

「そう言われると照れるな〜ははっ」

「どこが照れてんだ?」

何故シャロンが笑ってるのかよく分からない。どこが照れているかまったく分からない。それと対象的にジーナの表情が沈んでいる気がする。

「でもね、お嬢さん」

シャロンがポン、とジーナの肩に手を置く。アンタもジーナとそうたいして歳変わらないだろ、というつぶやきは無視された。

「この甲斐性なしはやめときなさい。苦労するよ」

「そこはかとなく馬鹿にされているよな。自覚はしている」

「本当にこいつタチ悪いのだから」

「え、え、ええ」

シャロンに詰め寄られてジーナが目を白黒させている。キャパオーバーしそうだ。

「あだっ」

「ふざけてないで、さっさと買って行くぞ」

シャロンにデコピンをかまして、ジーナを開放してやる。シャロンは、はーいと返事をして自分の食べたいパンを主張する。

外に出た時、店に入る時に感じたものはなかった。

そのままパン屋のすぐ横に付けられた階段を登る。特に視線は感じない。

ドアを開けた。鍵は掛かったままだった。壊れてもいない。

「シアン、このパンわたしもちょっと貰っていい?」

「好きにすれば」

部屋の中をじっと見る。本の位置、瓶の中身、窓から差し込む光の角度。部屋全体に奇妙な違和感を感じる。

「......シアン?」

俺は赤色と青色の鉱石の粉が入った瓶を掴み、床に叩きつけた。当然、瓶は割れ、粉が床に散らばる。

「え、な、何、どうしたのシアン!? やっぱりパン貰っちゃダメ!?」

「? いや、パンはちょっとならやるが」

「え、じゃあ何に怒ったの?」

「怒ってないけど」

シャロンは何が起きたか分からないという顔をしている。

今のは部屋に張られた結界の効果を消すおまじないだ。簡単な魔法ともいう。

なんの痕跡もないし、確証はない。だが、違和感がある。侵入しようと思えば誰にでも侵入できる。どのような方法を使ったかは分からないが、誰かが侵入し、部屋に結界を張っていったのだろう。守る為のものではない。盗聴し、監視する為のものだろう。

シャロンにその旨を説明すると、

「せめて一言言ってよ、びっくりした」

と、少し怒ったような、安心したような顔をして言った。

「誰なんだろ、それやったの」

「さあ......聖騎士ならこんな回りくどい事はしないよな」

「そうだね......変に誇り高いから、こんなマネはせず待ち伏せしてそうだし。うーん、わたしに心当たりはないよ」

箒で赤と青の粉を掃き集めて、部屋の隅っこにまとめておく。しばらくはこれで大丈夫なはずだ。

「......もしかして、シアン狙いかもね」

「は?」

「あるかもよ?」

「ないだろ」

狙われる理由はないはずだ。瓶の欠片を集めて袋に入れる。

シャロンはガサガサと紙袋に手を突っ込んで、お目当てのパンを探していた。


「やあやあやあ! 割と久しぶりだねシアンくん!」

最近の日課の、シャロンの射撃訓練を見ながら植物採集をしていると、ビアンカの大きな声が聞こえた。

「シャロンちゃんも元気にやってる?」

「テンション高いなお前」

「うん、元気元気」

シャロンとビアンカの会話を聞き流しながら、使えそうな草花を探す。ふと、赤い花が目に入った。いつも彼女が持っていたあの花に似ている。いや、あの赤い花だ。

手を伸ばそうとして、赤い花に影がかかった。顔を上げると、アゼルがそこにいた。

「......採らないの」

しばらく呆然とアゼルを見上げていると、アゼルは不思議そうな顔をした。

「ああ......」

軽く土を掘って、根っこごと花を採った。こっちに来てからこの花を採取するのは初めてだった。しばらく使えそうにない。

「シアーン! アンタ家に不審者入ったってホント? ストーカーでもいんの?」

「......なんの話だ」

あまりのビアンカの物言いに思わず顔をしかめる。

ビアンカの後ろからシャロンが、

「ほら、この間のアレだよ! 結界? 張られてたやつ」

と声を張り上げた。そのまま発砲したが、的をかすめただけだった。

「変な気配とか感じない? シアンの友人として追っ払ってやってもいいよ」

「ありがたーい申し出ではあるが丁重にお断りする」

「ええええ〜」

いつも通り、面白がっている風にビアンカは言っているが、目に面白そうだと思っている光はない。

「シアンから、胸糞悪い魔力の残滓を感じる」

アゼルが眉間にシワを寄せていた。普段何を考えているのかまったく分からない男がここまではっきり嫌悪感を示すのも珍しい。

「ほら、このアゼルがこう言ってるよ? ......まあ、充分に注意してよね。何かあったら頼ってもいいよ」

「今日は妙に上から目線だな」

「照れ隠し......」

ボソッとアゼルがつぶやき、ビアンカに頭をはたかれる。

「本当に困ったら頼ることにする」

「そうしときなさい」

シャロン、やってればそのうちいくつかは当たるようになるから、頑張ってね〜とビアンカは言い残し、アゼルと一緒に去って行った。

「そのうちって一体いつですかね、先生」

「知らん」

「あ、やべ」

シャロンが射撃で枝を折った。狙ってやるのはそこそこ骨は折れるが、本人は的を狙って撃っているので、的外れにも程がある。

息を一つ吐いて、落ちた的を拾い、別の枝にぶら下げる。そろそろ的に当ててほしい。

呆れた視線を向けると、シャロンは頭をかいて苦笑いしていた。それから銃を構える。辛抱強い奴だ。

少し、太陽の光が陰った。薄暗い。うなじの辺りがチリチリする。

視線を彷徨わせると、木の陰とは思えないほど暗く、黒い空間があった。そこに、黒い女が立っている。あれは、彼女じゃない。

「もし、シアンさん、ですね」

「誰だ、アンタ」

女は貼り付けたような気持ちの悪い笑みを浮かべ、一礼した。

「わたくしは、アカハと申します。 お願いがあって、参りました」

チラリと、アカハの存在に気付かず訓練しているシャロンを横目で見る。

「生憎と、仕事の真っ最中でね。採集系の依頼しか受け付けていない」

「おやおや......誰と一緒かと思えば、聖王国の聖女様ではありませんか」

「......」

クスクスとアカハは笑う。

「貴方にとっても、彼女にとっても悪い話ではないのですよ?」

「何......?」

「ええ、わたくしは天使を殺したいのです。彼女も、天使から逃げている。貴方だって、天使は殺したい程憎いでしょう?」

口元には気持ちの悪い笑み。目には、ギラギラとした紫色の光が見えた。

天使を殺したい程憎い。俺はそう思っているのか。

「好きではない。だが、憎んでいるかと言われれば憎んではいない。......積極的に出会いたくはないな」

仕事先で遭遇する天使を殺すたびに考えていた。俺は、復讐も何も考えていない。気持ちの悪い害虫を駆除していただけだ。

「......残念ですね」

アカハは気味の悪い笑みを引っ込め、冷ややかな目を俺に向けた。失望した、と言っているようだった。そのまま踵を返し、アカハは闇に消えた。

「おーい、シアン? どうした、またボケてる?」

「いや......」

先程までの薄暗さはもうない。胸に、冷たい鉛を乗せられたような、圧迫感があった。




帝都の秋は短い。まだ少しだけ夏を残していた眩しい程の日射しは、もうすっかり冬に向かって薄くなっている。

「もう、冬になるの? なんか寒いよね」

相変わらず上達しない射撃の訓練の帰り、シャロンが二の腕をさすりながら言った。

「そうだな、そろそろ冬支度でもするか」

「え、何するの」

「アンタの防寒具を揃えるだろ。冬の温度に耐えられない花があるから場所を移すだろ。あ、冬には関係ないがそろそろアンタ用に魔弾銃でも見繕うか」

指折りしてやる事を数える。多分後から後からやる事が出てくるだろうな。

「......え、ええ。ほぼわたし関連......」

「ん?」

顔を上げてシャロンを見る。シャロンは複雑そうな、照れたような顔をしていて、

「い、いいや! 何でもない!」

慌てて首を振った。

「心配するな、銃にナイフついたやつ買うから。どうしても当てられなかったら刺せ」

「ああ......うん」

今度は呆れたような目になった。何かおかしな事を言っただろうか。

「......」

家への階段を登ろうとして、立ち止まる。この先は市場の方へ続く路地だ。胸に落ちた鉛の冷たさが増した気がする。

「今度は何、どうしたの」

「......早く来い」

早足で階段を登って、ドアを開ける。今度は何も変わっていない。

緑色の粉が入った瓶と、青色の粉が入った瓶を探し出し、適当な小さな袋に同じ位の量で混ぜ込む。それから、藁の紐で結んだ。

「これお守り。それでギルドの方に回り道して、緑の看板の酒場に行け。運がよければビアンカたちがいるはず」

「え、やばいのが、いる?」

「かもしれない。俺が出て、しばらく待ってから行け」

「う、うん」

少しだけ不安の色を滲ませながらシャロンは頷いた。

外に出て、路地の奥を見る。まだ夕方だというのに、やけに暗く見える。行きたくない、行くべきではない、頭の中がガンガンする。鉛の冷たさも、手の震えも全部無視して歩き出した。

進むにつれて違和感がどんどん強くなる。もしかしたら、前に家に張られていたものと同じ結界が張られてたいるのかもしれない。

狭い道から、少し広いところに出た。夕暮れ時だというのに、人の気配は感じない。

空から、光の羽がひらひらと降ってきた。顔を上げると、そこには四つの翼を持つ天使がいた。

「おや、君は......」

天使は俺を見て驚いた顔をしていた。反応からして、上級の天使。戦って、生きて帰れる気はしない。だが、天使の方に戦う意思はないように思えた。

「ちゃんと生きていたんだね、君」

「どういうことだ」

「今はちょっと説明できないかな」

天使が、地面に降りてきた。緩くウェーブのかかった髪に、穏やかな表情。

「ちゃんと説明をしたいからさ、わたしに付いてきてくれないかな」

「......?」

天使が手をこちらに差しのべる。これが聖王国の人間だったなら、むせび泣いて喜んで手を取るだろう。

俺は、天使の顔を見た。こいつは何を考えている。

俺がどうするか考えていると、焦れたのか、天使が俺の手首を掴んだ。

「何をする!」

「すまない、長居は出来ないんだ。カインの事もある」

「カイン? カインだって......?」

久しい名前を聞いて、力が抜けていく。そうか、カインの魂は天使に持っていかれているから。天使になって、まだこの世界にいるのか。

「そう、だから......!?」

「う......?」

目の前の天使の顔が、呆然としたものになった。

なんだ、熱い。腹の辺りが猛烈に熱い。

急激に視界が暗くなっていく。ちらちらと紫色の光が見える。

「なんて事を......」

「ごきげんよう、天使様」

パチッと目の前で光が爆ぜて、視界は完全に真っ暗になった。




目の前に赤い花を持った彼女がいる。彼女は今日も一人だ。

口を動かして、何かを言っている。だけど、一体何を言っている。

気がついたら、手に赤い花を持っていた。彼女の手にはもう赤い花はなかった。

バラバラと、立っていた地面が崩れていく。暗い空間に、俺と彼女の二人だけになった。

俺は、死んだのか。なら、何故まだ意識が存在している。手首に、誰かに掴まれている感覚がある。彼女の方へ行くことはできない。

はくはくと、彼女がまた何かを言っている。少し、悲しそうな顔をしていた。


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