給糧戦艦「扶桑」のガダルカナルバーガー
やあ、こうして直接会うのは数十年ぶりだね。
あの太平洋戦争のガダルカナル島で初めて会った時は、私は日本海軍の主計中尉、あなたはアメリカ海兵隊のライフルマンの中尉だったな。
うん、ガダルカナルバーガーなら用意してある一緒に食べよう。
うん?「やはり、本場の日本のガダルカナルバーガーが一番うまい」って?
誉めてくれて嬉しいよ。
思い出すな。あの戦場で、ガダルカナルバーガーを初めて作った時のことを。
太平洋戦争で、日米両軍がガダルカナル島をめぐる攻防を繰り広げていた時、私は給糧戦艦「扶桑」乗り組みの主計中尉だった。
「キューリーョセンカン、フソウって何ですか?」だって?
そちらは、あなたのお孫さんか?
うん、良い機会だ。
お孫さんに私たちが出会った時のことを説明しよう。
「給糧艦」と言うのは、船の中に大きな食糧庫・冷蔵庫があって、食料品を製造するための設備があり、前線にいる兵隊さんたちに食料品を送り届けるための船だ。
「戦艦」と言うのは、知っていると思うが、強力な大砲を積んで、それを主な武器として戦う軍艦だ。
本来は、「給糧艦」と「戦艦」は、まったく別の船だ。
「扶桑」は元々は普通の戦艦だったんだが、「給糧戦艦」という世界に他に例が無い、日本海軍唯一の艦になったのは理由がある。
太平洋戦争が開戦して、しばらく後、日本本土近海で演習中だった戦艦「扶桑」で事故が発生した。
弾薬庫で火災が発生し、爆発事故が起こったのだ。
その火災の原因は水兵の失火とも一部では言われているが、現在でも不明だ。
火災の原因はともかくとして、爆発事故により「扶桑」は弾薬庫が損傷し、全ての主砲の砲塔も損傷、主砲を撃つことができなくなってしまい、戦艦としての価値はゼロになってしまったのだ。
不幸中の幸いに、「扶桑」は船体と機関部は無事だったので、自力で本土の港に帰投することはできた。
日本海軍の上層部は、損傷した「扶桑」を、どうするかに頭を悩ますことになった。
損傷その物は、費用と時間を掛ければ修理可能であった。
しかし、わざわざ多額の費用と長い時間を掛けて、「扶桑」を修理するの必要があるのか疑問視されたのだった。
開戦により、多数の艦船の整備・修理のため造修施設は常に一杯であった。
そこに、戦艦「扶桑」の修理を割り込ませると、他の艦船の整備・修理のスケジュールに支障が生じてしまうのだ。
それに開戦初頭の「真珠湾攻撃」と「マレー沖海戦」により、「航空機のみの攻撃で戦艦は撃沈可能」だと判明したので、戦艦の価値は下がっていたのだ。
それに「扶桑」は旧式化が著しく、最高速力は約21ノットの低速で、日本海軍の戦艦では最もスピードが遅く、他の戦艦と艦隊を組むと、スピードの速い他の戦艦が、一番遅い「扶桑」に動きを合わせなければならないので、「足手まとい」と言われることもあったのだ。
日本海軍上層部は決定を下した。
「扶桑」を「練習戦艦」にすることにしたのだ。
外見だけ元に戻した最低限の修理だけをして、乗組員のほとんどは他の艦船に転属させた。
「扶桑」は、練習戦艦として海軍の新兵の訓練所となったのだった。
「扶桑」は、実戦部隊からは戦力外となり、そのままであれば、一度も実戦を経験すること無く、終戦を迎える運命であったろう。
その運命が変わったのは、ガダルカナル島での攻防戦が始まったことからであった。
日本海軍が、ガダルカナル島に飛行場を建設したことから始まった攻防戦は一進一退の戦いであった。
しかし、米軍側がガダルカナル島に飛行場を建設することに成功すると、島の周囲の制空権は米軍寄りになってしまった。
日本海軍は、高速戦艦の「金剛」型を航空機の活動が低調になる夜間に、ガダルカナル島に突入させ、米軍の飛行場を砲撃で破壊したりもした。
しかし、米軍は優れた設営能力で、短期間で飛行場を復旧させてしまうのだった。
ガダルカナル島にいる日本軍の地上部隊に対する補給も必要であった。
しかし、低速の輸送船では米軍の餌食になってしまうのは明らかだった。
そこで、高速の駆逐艦に補給物資を積み込んで、夜間にガダルカナル島に突入して物資を陸揚げしたのだ。
しかし、駆逐艦に積める少量の物資では、ガダルカナル島の地上部隊には充分な量の補給を届けるのは不可能であった。
ガダルカナル島では、特に食糧の不足が深刻であり、飢餓の発生する可能性すらあった。
もし、そうなれば、ガダルカナル島は「餓島」という異名を持つことになっていただろう。
そうならないために、大量の補給物資を運ぶための手段が必要であった。
そこで、白羽の矢が立たれたのが、練習戦艦になっていた「扶桑」であった。
もともと、「扶桑」には、千人以上の乗組員のための食事を調理する烹炊所(一般で言うところの厨房)があり、約21ノットの速力は軍艦としては低速だが、輸送船と考えれば高速であった。
「扶桑」から訓練兵を降ろし、艦内に積めるだけの補給物資を積んで、ガダルカナル島に向けて出撃したのだった。
「扶桑」は正式には「練習戦艦」のままだったが、将兵の間から誰からともなく「給糧戦艦」と呼ばれるようになり、それが定着した。
私は、「扶桑」乗組員の主計士官の中尉だった。
ん?お孫さん?「主計士官とは何ですか?」だって?
主計士官は、民間企業で言えば、経理や総務を担当する士官だ。
食事の支度をするもの主計の仕事だ。
戦闘を直接指揮する兵科将校と比べると、馬鹿にされることもあるが、戦場の衣食住を維持するのは最も大切な役目だと思っている。
さて、話を戻すが、ガダルカナル島を目指していた「扶桑」は、米軍の攻撃を受けて損傷しながらも目的地に到着した。
しかし、損傷は酷く、沈没寸前であった。
「扶桑」の艦長は、沈没する前に島に乗り上げることを決断した。
陸地に乗り上げた「扶桑」は動けなくなったが、沈没は回避した。
ここから、給糧戦艦「扶桑」の本当の戦いが始まった。
機関や烹炊所、補給物資は無事だったので、ガダルカナル島の地上部隊への食糧の支援を始めたのだ。
ガダルカナル島の将兵たちからは、「扶桑」は「大衆食堂扶桑」と呼ばれるようになった。
前線に出ない戦艦「大和」「武蔵」は、「大和ホテル」「武蔵屋旅館」と揶揄して呼ばれもしたが、「大衆食堂扶桑」は純粋に親しみと感謝の気持ちを込めて呼ばれたのだった。
米軍側からは、陸地に乗り上げた「扶桑」は、「扶桑要塞」と呼ばれていた。
もう沈めることはできないし、副砲で米軍の地上部隊を砲撃するので、やっかいな相手であった。
最終的には、米海兵隊が「扶桑」の艦内に切り込み、陥落させることになった。
さて、お孫さん、ここからが、お待ちかねの「ガダルカナルバーガー」が誕生した時の話だ。
「扶桑」の乗組員で生き残り捕虜になった主計士官で最上位は、中尉であった私であった。
「扶桑」の烹炊所は無事で、食糧もたっぷり残っていた。
捕虜として移送されるまで、自分たちだけでなく、海兵隊の食事も調理していた。
烹炊所で、私たちを監視していたのが、お孫さん、海兵隊中尉だったお祖父さんなんだよ。
私は、日本では炊き出しの定番である中に梅干しが入ったお握りをつくったが、お祖父さんは試食で一口食べた途端に、「不味い!ハンバーガーを食わせろ!」と言ったんだ。
当時の日本ではハンバーガーは一般的な食べ物では無かったが、私は二枚のパンの間にハンバーグを挟んだ物だとは知っていた。
しかし、パンを焼いたり、ハンバーグをつくったりしている時間は無かった。
そこで私は一計を案じて、板状に焼きお握りをつくって、二つの焼きお握りの間に缶詰の肉を挟んだのだ。
お祖父さんは「うまい!」と言ってくれて、他の米軍将兵たちの評判も良く、米軍の厨房でも真似てつくるようになった。
ガダルカナル島で生まれた新しいハンバーガーなので、「ガダルカナルバーガー」と呼ばれるようになったんだ。「ライスバーガー」とも呼ばれるが一般的じゃないね。
ああ、お孫さん、悪いが、ここからは、私とお祖父さん二人だけにしてくれないか?
大事な仕事の話があるんでね。
うん、ありがとう。
さあ、ここからは、通訳も抜きで、私とあなた二人だけだ。
もちろん、盗聴に万全の対策はしてある。この部屋で話したことが外に漏れることは無い。
ん?「あの時のガダルカナルバーガーの材料の肉の缶詰は、牛肉でも豚肉でも鶏肉でも無かったようだな?」だって?
そうだ。あれは鯨肉の缶詰だ。
昔は鯨肉は安かったからな。
今は、色々あって高級品になってしまったが。
ああ、今、あなたが食べたガダルカナルバーガーも鯨肉だ。
缶詰では無く、調査捕鯨で捕ってきた新鮮な鯨肉を使っているから、あの時のよりうまいだろう?
ああ、安心してくれ、この事で、あなたの弱みを握ったなんて思わない。
アメリカ人が鯨を食べた何て他に知られると不味いのは分かっている。
ただ、さりげなく日本の調査捕鯨の継続については支援してくれ。
できれば、商業捕鯨の復活についてもな。
私は政治家として、純粋に日本の食文化を保護したいだけなんだ。
個人としては、若い頃のように誰にも遠慮なしに堂々と鯨を食べたい。
うん、機密の保持については、日本国内閣総理大臣である私が、アメリカ合衆国大統領であるあなたに約束するよ。
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