チチンプイプイ・スパイス
もしも、ふりかけるだけで料理がおいしくなるスパイスがあったら。
大森佐知江は、思っていた。
そしたらきっと敏明に、毎日のようにおいしい料理を作ってあげられるのに……。
佐知江は新婚一年目の、普通の主婦だ。
しかし毎日家事をしているわりには、料理には自信がなかった。
本当は、料理教室に通いたかった。
だが、お金の余裕はない。
だからときどき本屋で料理の本を選んで買ったり、テレビの料理番組を見たりしては、自力で勉強していた。
佐知江の夫の敏明は、佐知江の料理を毎日「おいしい」と言って食べている。そして佐知江は、そんな夫の言葉を信じていなかった。夫が自分の料理を、本当はどう思っているのか不安で仕方なかった。
敏明は、私を喜ばせようと思って、お世辞を言っているだけなのかも……。
佐知江は思っていた。
いや、ちがう。
佐知江は、現状に満足していなかったのだ。
普通に「おいしい」は、もう飽き飽きしていた。夫の敏明に、「すごくおいしいよ!」そう言って、誉めてもらいたかったのだ。
ある日佐知江は、本屋で一冊の本を買った。
その本のタイトルは、
『ごちそうBOOK・必ずおいしいと言ってもらえるディナーメニュー』。
ちょっと高かったが、奮発した。
佐知江は敏明の「すごくおいしい!」の言葉が欲しくて……明日、実行することに決めたのだ。必ずおいしいと言ってもらえる料理をつくることを。
昼までに掃除や洗濯を終わらせ、一息ついていた佐知江は、1人ラーメンをすすりながら料理の本を眺めていた。本のタイトルはもちろん、『必ずおいしいと言ってもらえるディナーメニュー』。
出来れば、見た目にも豪華なごちそうっぽいものがいい。
出来れば、特別の日に食べるような、そんな変わったメニューがいい。
そしてついでに、一見手間がかかっているように見える、手軽で簡単な料理がいいんだけどな。
佐知江の手は、とあるページで止まった。
ビーフストロガノフ。
佐知江はその名前の響きに、目を輝かせた。
そして説明の文章を読み、さらに目を輝かせる。
『材料も少なくて済み、調理も簡単。でも、手をかけたごちそうのように見える、ロシアのおもてなし料理』。
ああ、これだ!
そう、これこそが、私の求めていたメニューだ!
佐知江はさっそく、この『ビーフストロガノフ』に挑戦することにした。
牛もも肉、タマネギ、マッシュルーム。牛乳、サワークリーム、パセリ、赤ワイン……。
メモに必要なものを書き写し、スーパーに行くと、欲しい材料を探した。家に帰ると本のレシピを何度も見直し、予習もした。
そして、夕食の時間が近づいてきた。
さあて、はじめるぞ。
佐知江は料理の本、『必ずおいしいと言ってもらえるディナーメニュー』を持って立ち上がり、台所に向かった。そして本のビーフストロガノフのページを開いて、レシピスタンドに立てた。
おおかたの料理は、分量とやりかたさえ間違えなければ、だいたいうまくいくものだ。
それは経験上、分かっている。
佐知江は、一発勝負にかけることにした。
ところが、だ。
作っている最中に、電話が鳴った。
佐知江は、今かけているフライパンの火を……止め忘れてしまった。
電話は、実家の母親からだった。
「ごめんなさい。急な電話で。あのね、お歳暮でスープやらカレーやらの缶詰を貰ったの。私たちはこういうのは、あまり食べないし……。貰ってくれないかしら?」
「そんなこと言っても、お母さん」
佐知江は言う。
「缶詰なんて家に取りに行ったら、重いじゃない」
「でもね、これは普通の缶詰じゃないんだよ。帝国ホテルの……」
「えっ、ホテルのギフト?」
「そうそう。たまには、敏明さんにも、ごちそうを食べさせてあげるといいわ」
『ごちそう』という言葉を聞いて、佐知江はハッと思い出した。今しがた、自分が何をしていたのかを。
「お母さん、いま私はね、料理中なのよ。もっと時間を考えて……」
そう言って、台所の方を見た佐知江は、あっ、と声をあげた。
台所から、煙が出ている。
しまった! と思った時には、遅かった。
佐知江は電話の受話器を放り出し、台所へ走った。
火を止めたが、遅かった。
フライパンの中で、もはやビーフストロガノフとも言えない、何の料理とも言えない黒いものが、かたまりとなってうずくまっていた。
「ただいまー」
夫の敏明が、部屋に入ってくるなり言った。
「あれ? 何だか焦げ臭いな。どうしたんだ?」
「ええ、ちょっと」
「晩メシは?」
「それが……ないの」
佐知江の伏せた顔を見て、敏明はすぐに察した。
「うん。たまには失敗もあるさ。そうだ、今日は、久しぶりに外食でも行こうか」
佐知江と敏明は、寒い冬の町へと繰り出した。
「そうだ。駅前に、新しい洋食の店が出来たろ? あそこに行ってみよう」
敏明の言葉に、佐知江は驚く。
「え? でもあそこ、けっこう高いんじゃない?」
「いいよいいよ。たまの外食くらい、おいしいものを食べよう」
そして出かけた洋食屋は、外観のしゃれたつくりの、まだ新築の匂いを残した店だった。
入り口には、スタンドに乗せたメニューが置いてある。
佐知江がメニューをのぞき込む。
ビーフストロガノフ。
そんな文字が、目に入ってきた。
さきほどの、苦い記憶がよみがえる。
だが佐知江の隣に立ち、メニューをのぞいていた敏明が言った。
「『ビーフストロガノフ』? なんだ、そりゃ?」
そして興味を持ったらしく、言った。
「オレさ、これを食べてみるよ。なんか、おいしそうだなぁ」
佐知江はハッとした。
そうだ。ここで実際にビーフストロガノフを食べて、本物の味を覚えよう。そしてもう一度挑戦すればいいんだ。失敗して、みんなうまくなるんだわ。もう一度作って、今度こそは……。
店に入り、2人はビーフストロガノフを食べた。
佐知江は、それを食べて思った。
私の選択は、間違っていなかった。ああ、何ておいしいんだろう? 私も、こんな料理が作ってみたい。
ところが敏明は浮かない顔だ。
「どうしたの?」
「うん……ちょっとね」
店を出たあと、敏明は言った。
「あの店の、あの……ビーフストなんとかってやつ」
「ビーフストロガノフ」
「あんまり、おいしくなかったなぁ」
その言葉を聞いて、佐知江はギクッとした。
え? なんで?
とてもおいしいと思ったビーフストロガノフ。だが敏明は、それをおいしくないと言う。
佐知江は、困ってしまった。
敏明においしいものを食べさせたいと思い、さっき作ったビーフストロガノフは……もしかして失敗して良かったのだろうか?
とてもおいしい料理って、何だろう?
佐知江は考えた。
とても、おいしい料理?
分からない。
家に帰った佐知江は、さっそくこっそり寝室で『必ずおいしいと言われるディナーメニュー』をペラペラめくった。だが他のものはどれもむずかしそうで、ピンと来ない。
そのとき夫の敏明が、佐知江に声をかけた。
「どうした? そんなところで。一緒にテレビでも見ようよ」
「あっ、うん」
佐知江は料理の本を、急いでベッドの下に隠し、そして居間に向かった。
敏明は居間に行くとテレビをつけた。やがてそしてソファでくつろぎはじめた。
敏明がテレビに釘付けになっているのを見て、佐知江は思った。
ああ、どうしたら敏明は、私に「すごくおいしい!」の言葉をくれるのかな。どうすればもっといい料理が作れるんだろう?
佐知江は居間に行くのはやめて、台所へ向かった。
そして流しの前に立った。
流しの中には、さきほど失敗したビーフストロガノフの入ったフライパン。佐知江はそのフライパンを洗おうとして、こげた失敗作を手で落としはじめた。
翌日。
佐知江はまた、本屋に出かけた。
本格フレンチ、イタリアン、中華に和食、本格カレー。
様々な本を手にとっては棚に返し、そしてまた選んではページをめくる。棚を移動し、また最初の棚に戻る。
こっちの本は? ああ、これはさっき見た本だ。じゃあこっちはどうかな。……ダメだ、私には難しそう。ブツブツ独り言を繰り返しながら、佐知江は本を選ぶ。だが、なかなか気に入った本は見つからない。
そのときだ。
「あら、奥さん。お久しぶり」
突然声をかけられ、佐知江は振り向いた。
そこには一人のおばあさんが立っていた。
佐知江の近所に住む、一人暮らしのおばあさんだ。
佐知江はこのおばあさんが、グリム童話か何かに出てきそうな魔法使いのおばあさんそっくりなので、ひそかに『ウィッチーさん』とあだ名をつけていた。
ウィッチーさんは言った。
「ああそうだ。このあいだお宅から、なんか焦げ臭い匂いがしてたけど……大丈夫だった?」
イヤなこと言うな。佐知江は思った。
それで、
「ええ、まぁ」
と言って、そっとその場を去ろうとした。
そんな佐知江の心を知ってか知らずか、ウィッチーさんは、こう付け加えて言った。
「あんたは、とてもいい料理を旦那さんに作ろうとして、がんばっていたんだね」
佐知江は、驚いて立ち止まる。そしてウィッチーさんの顔をのぞき込んだ。
なんでこの人は、私の思っていることが分かるんだろう? もしかして、本当に魔法使い?
不思議そうに首をかしげる佐知江に向かい、ウィッチーさんはこんなことを言い出した。
「それじゃあ、私がとっておきの魔法のスパイスをあげよう」
「えっ、魔法のスパイス?」
「そうだよ。簡単だ。これをひとふりするだけで、料理はとてもおいしくなるんだ」
魔法のスパイス。
それはなにか、とても心地の良い魔法の呪文のような響きがした。ひとふりするだけで料理がおいしくなる、そんなスパイスがあるなら私も使ってみたい……佐知江は思う。
だがウィッチーさんは、もしかして私をからかっているんじゃないだろうか?
佐知江は思った。そしてウィッチーさんに聞いてみることにした。
「……そのスパイスって、どんなスパイスなんですか?」
「欲しいのかい? いらないのかい?」
「もちろん……」
答えは決まっている。
「欲しいです。そんな夢のようなスパイスがあったら、どんな主婦でも欲しくなると思うわ」
ウィッチーさんはニコニコ笑いながら、うなずいた。
「正直でよろしい。でもその前にね、1つやらなきゃならないことがあるんだよ」
「やらなきゃいけないこと?」
「あんたは自分の旦那さんが本当は何を食べたいのか、ちゃんと聞いたのかい?」
佐知江は黙ってしまった。
そう。
佐知江は、自分がおいしいと思うものばかりを作ろうと考えていた。夫の敏明が本当は何を食べたいのか、あまり考えたことがなかったのだ。
その夜、佐知江はさっそく夫の敏明に聞いた。
「ねえ、あなた。あなたは料理は何が好きなの?」
「うん?」
敏明は、ちょっとねぼけた声でこう答えた。
「ああ、僕はね。佐知江が作るいつもの料理が好きだよ。焼きジャケとか、肉ジャガとか、サバの味噌煮とか」
「そういうのじゃなくて、ホラ、もっと普段は食べないような特別料理ってあるでしょ? レストランでしか食べない料理のことよ」
敏明は笑った。
「ハハハ。いつも作ってくれるものが、一番好きだ。その中でも、強いていうならカレーとかさ」
佐知江は、また困ってしまった。
とてもおいしいものを、とても上手く作って出してあげたかった。
それなのに、夫の敏明は普通が一番という。
「おいしい料理って何だろう?」
佐知江は再び悩み始めた。
敏明に「すごくおいしい!」と言わせることは、もはやムリな話なんだろうか?
そう思い、佐知江は深いためいきをついた。
翌日はいつも通りの日常だった。佐知江は夕方になる前に、いつも通りスーパーに出かけた。
スーパーに行くのは、毎週2回。水曜日と土曜日。水曜日は野菜が安く、土曜日は卵の特売日だ。
佐知江はスーパーの入り口を通り抜け、いつも通り、夕食の献立について考えた。
今日の夕食は、何にしよう?
そして昨日の敏明の言葉を思い出し、ぼんやり考えていた。
ああ、今日はカレーにしようかな。カレーは簡単だし、材料も安くて済むし。
そして野菜売り場で、ニンジン、ジャガイモ、タマネギをカゴの中に放り込んだ。
そのとき佐知江は、特売品のダイコン売り場でウィッチーさんの姿を見つけた。
佐知江はウィッチーさんに近づき、軽く頭をさげた。
「こんにちは」
するとウィッチーさんも佐知江に気付き、片手を振った。
「あら、奥さん。今日はカレー?」
佐知江は驚き、そしてちょっと恥ずかしくなる。
「よく分かりましたね」
「カゴの中を見れば分かるさ」
佐知江はさっそく昨日の夫、敏明との会話をウィッチーさんに報告した。そして最後に、
「どうしたらいい料理が作れるのか、何だか分からなくなってきちゃいました。自信がないんです、私」と付け加えた。
するとウィッチーさんは言った。
「いいかい? おいしいものはね、人によって違う。あんたはとてもおいしいものを作りたかったかもしれないけどね、毎日毎日普通においしいものを作ることも大事なんだよ。……分かったかい?」
佐知江の頭は、稲穂のようにたれた。
それを見たウィッチーさんは、上着のポケットを探り始める。
「じゃあお前さんに、とっておきのスパイスをあげるよ」
「えっ? 魔法のスパイスは本当だったんですか?」
「本当だよ。見なさい」
ウィッチーさんの取り出したもの。それは、中が空っぽのスパイスビンだった。
佐知江は聞いた。
「もしかしてはだかの王様のように、バカには見えないスパイス?」
「ちがうよ」
ウィッチーさんは言った。
「これを料理にふりかけるようにして、言うんだ。チチンプイプイ、チチンプイプイ、料理よおいしくなぁれ。すると不思議。自分が料理をおいしくしようという気持ちが、料理の中にこもるんだ」
佐知江は、思わず笑ってしまった。
だがウィッチーさんは、真顔だった。
「いいかい? 旦那さんにおいしいものを作ろうとする気持ちを続けること。それがおまえさんの仕事なんだよ」
そのとき、スーパーの店内放送が入った。
『ええー。ただいまタイムサービスといたしましてェ、ピーマン5個100円、5個100円にて販売いたしまァす』
佐知江とウィッチーさんは、顔を見合わせた。
そして2人は、急いでピーマン売り場に向かった。
その夜の献立は、チンジャオロース。
佐知江は台所に立った時、ふと昼間のことを思い出し、ポケットの中を探った。
手の中には、空っぽのスパイスビン。
佐知江は肉やピーマンを炒めたのち、ウィッチーさんに言われたとおり、空っぽのスパイスビンをふりながら呪文を唱えることにした。
「チチンプイプイ、チチンプイプイ、料理よおいしくなぁれ」
すると不思議なことが起こった。
佐知江は突然1年前の、結婚したての頃のことを思い出したのだ。料理のイロハも分からず、苦戦しながらも台所に立っていたあの頃のことを。
あのときは今よりずっと、夫の敏明に「おいしいものを作ってあげたい」と思う気持ちが強かった。佐知江は『いつものごはん』を、おいしいと言って食べて欲しかったのだ。
それを思い出した時、佐知江は思った。
そうだね。
私の願いは、いつの間にか叶っていたんだ……。
フライパンの中のチンジャオロースを見ながら、佐知江は心の底から願った。
この、チンジャオロースがとてもおいしくなりますように。
そして出来上がったチンジャオロースを皿に盛ると、佐知江はそれを食卓に運んだ。
敏明が食卓につき、夕食を待っている。
すべての料理をテーブルに並べ終えると、佐知江も席についた。そして2人の夕食の時がはじまった。
2人は『いつものように』『いつものごはん』を食べ始めた。
敏明が、チンジャオロースを一口食べる。
そして箸の動きを止めた。
「どうしたの? お腹でも痛いの?」
「あ……いや」
敏明は言った。
「なんか、いつもと違うね、このチンジャオロース。なんていうか……そうだな」
敏明が佐知江の顔を見る。
「すごくうまいよ」
佐知江の顔は、笑顔になった。