~桃太郎風味~
>>genryuichirou
巌隆一郎がアイエーを肩に乗せたまま家から出ようとすると、母から声をかけれらた。
ぎりぎりのところでアイエーはデータ化して姿を消していたが、もし見つかっていたら幼女誘拐でも疑われていたかもしれない。なんやかんやとあり、母からの信用は薄いのだ。
出かける旨を伝えると、母から轟太郎の散歩を頼まれてしまい、アイエーを担いでさらに轟太郎のリードまで持つ羽目になってしまった。
まさか世界存亡の危機が迫っているなどと話すわけにもいかず、拒否できなかったのだ。そんなことを話そうものなら殴り飛ばされるだろう。
巌隆一郎は世界滅亡を前にして、幼女を抱え、犬を連れ、制服姿で家を出た。
脳裏に桃太郎の姿が浮かぶが、猿にも雉にも当てはない。
アイエーが指定する場所に向かう最中、最初はリードを持って轟太郎と並走していたのだが、しばらくすると轟太郎のほうで事情を察したようで、やがて巌隆一郎の後ろを走ってついてくる形になっていた。気が利く犬である。
「えらいばたばたしよるな」
「ギャース!! やっぱり犬がめっちゃしゃべってる!?」
「いやぁ、お前さんも似たようなもんじゃないかのぉ。それにわしはこんなナリではあるが、一応、犬じゃないぞ。まあべつに犬と呼ばれてもかまわんが」
「お前、前も驚いてたじゃねえか」
轟太郎は一見、ごく普通の大型犬なのだが、自称オオカミで妖怪のようなものらしい。
昔から久瀨家と関わりがあり、いまは巌隆一郎の父に付いてきており、巌隆一郎の家に住んでいる。
轟太郎の本当の姿は人の三倍はあろうかという大型のオオカミで、昔は陰陽師やら武士やらと派手に立ち回ったというのは本人の弁である。
いまは大型犬となんら変わらない体格だが、身体の使い方をよく知っており、機転も利くため、人間と比べてもかなり腕が立つ。腕とは言っても実際は脚だが。
「アイエーの常識だと犬はしゃべりません! アホですか!」
「俺の常識だとコンピューターウイルスも喋んねえし、実体化したりしねえぞ。てか、お前みたいなガキが常識をとくとはな。そっちのほうが世界滅亡の危機って感じがするわ」
「お前はだまって走ってください! ご主人様がアイエーを待ってるんですっ!」
「このガキ……」
「まあ、子細はようわからんが、世界が滅びそうなことぐらいよくあることじゃ。ましてや、そんな状況なら犬やういるすとやらがしゃべってもよかろう。しかし、嬢ちゃん、ふらふらしよると落ちるぞ」
ごく普通に人語を解し、人語を話す。
それが轟太郎だ。もちろん、これは久瀨家内だけでの秘密ということになっているのだが。
一駅ぶんほど走って移動し、やっとアイエーが近いと言いだしたときには、巌隆一郎はかなりの体力を消耗していた。
「お、お前なあ……。こんだけ距離があるなら先に言えよ……。嫌がらせか」
バスや電車を使用していれば時間短縮に繋がっただろう。肩で息をつきながら、巌隆一郎が文句を言うと、アイエーはふてぶてしい態度で鼻を鳴らした。
「ぎゃーすか文句いうなです。アイオーンの悪夢が送りこんできた歪みは移動してるんですよ」
「動くのか。台風じゃあるまいし、じっとしてりゃいいものを」
「まあ、でも、いちおう、ごくろーさまと言ってやります。万全な状態でたどりつけました」
アイエーが巌隆一郎から飛びおりる。その身体は重さを持たないかのように、ふわっと浮かび上がってゆっくり地面に着地した。
「やっぱり、すげーおおきいです。影響がめっちゃでてますよ。ほら」
「ほお、あれは……」
轟太郎が感嘆するように唸る。
アイエーが指し示す場所に視線を向けると、巌隆一郎も呻き声をあげずにはいられなかった。
数百メートル程度先にある空が、切り取られてミキサーにかけられたかのように歪んでいた。
雲の形がどうという状況ではなく、まるで複数のディスプレイを中空に浮かべているかのように、普通の空と画一化された作られた空がまざり、奇妙な造型となっていた。
二重三重のレンズを通したような空だ。自然に空へと紛れこんでいる、不自然の固まりだった。
「あんな状態で、誰も気づかないのか」
大きな騒ぎがないどころか、周囲を見回しても誰が気に留める様子もない。誰も気づいていないようだ。
「わかる人にはわかると思います。ご主人様みたいに、この世界の定義に疑問を抱いている人間とか。そうでないと、ちょっと違和感を抱くぐらいでしょうね。まあ、それも定義が完全に書きかえられたらなくなります。こっちの空はなくなっちゃいますから」
「んで、どうするんだ」
「中心地点に行きます。アイオーンの悪夢が歪みを送るのに使っている回路を、横からぶんどってやるです。それだけの回路があればご主人様を見つけるには問題ないはずです」
「あれに突っこむか、難儀しそうじゃのぉ」
「あん? 走るだけだろう」
「この歪みはアイオーンの悪夢からの浸食です。こちらの定義を獲得する為に来たものですよ。外にいればなにもしてきませんが、近づいたらセキュリティが動きだします」
「お前らはウイルスじゃなかったのかよ」
「セキュリティとはいっても防衛システムというか、まあさほどシステムは変わらないんですが……うぅん、めんどくさいですね。要は、こちらから見ればアイオーンの悪夢は異物ですけど、アイオーンの悪夢から見ればこの世界のものが異物だってことですよ」
「つまり踏みいれたが最後、ガードマンがごろごろ出てくるわけか」
「ごろごろというわけじゃないかもしれませんが、かなりめんどうなのが出てくるです」
「やれやれ。んじゃ、ちゃっちゃとすませるか。走り抜けりゃなんとかなるだろ」
巌隆一郎が歪んだ空の下を目指して踏みだすと、静止の声がかかった。
「ちょっと待つです」
アイエーが不機嫌そうな顔で腕を組んでいる。
「べつにお前の助けはいりません。ここで黙って待ってるといいですよ」
「はっは。なに嬢ちゃん、そう気張らんでも、わしや巌がおればガードマンの気を逸らすぐらいはできるだろうて」
「つうか、行くだけ行って位置がわかるんだとしても、そこからお前のご主人様を迎えに行かなきゃならんだろうが」
「……お前ら、なんでそんなに行く気まんまんなんですか。相手はこちらの世界の住人じゃないんですよ。言ってしまえば化け物みたいなもんです。そんなところにどうして行きたがるんですか」
「ぐだぐだうっせえな。俺は基本、動いてから考えるようにしてるんだよ。どんな状況でも、鍛えた身体はウソをつかん」
「わしは化け物なんぞ、数えきれんぐらいぶちのめしてきたしのう」
「こいつら頭の中まで筋肉ですね……」
だが、それとはべつに思うところもないでもなかった。
巌隆一郎のところにアイエーが来て、もう一月ほど経っている。
結局、その間にアイエーの主人である久遠という少女を見つけることはできなかった。そのことを悔やむ気持ちが、少しはあったのだ。
相手は立てこもり犯だ。人質まで取っている。
本来なら、被害者である巌隆一郎が情を掛けるような相手ではない。
だから、これはただ、迷子を保護者のもとに届けるだけだ。
男として、それぐらいは当然のことだ。慈悲の心というものである。
「おい、時間が惜しい。とっとと乗れ」
巌隆一郎が座り込んで自分の肩を叩いて促すと、アイエーはしばらくなにも動きを見せなかったが、やがておずおずと巌隆一郎の肩に手をかけてきた。
「……あんまり揺らすなですよ」
アイエーの指示を受けてそのまま進む。アイオーンの悪夢の歪みが展開していたのは、町中にあった大通りのようだった。
巌隆一郎達が躊躇無く踏みこもうとしていると、アイエーが注意を促してくる。
「ここから先は、末端とはいえアイオーンの悪夢です。こちらの常識では通じないことが起こります。せいぜい、覚悟しておくことです」
巌隆一郎は轟太郎と共に頷くと、その先に踏みこんだ。
一瞬、視界が暗転し、風景が一変する。
明るいながらも夜の来訪を予感させていた色合いだった雲は、真昼のようにまばゆい光を受けながら中空に漂っており、それまでビルや道路があったはずの場所は、見知らぬ建物やろくに均されていない道に変化していた。
建物はレンガのものもあれば、金属らしきもの、ぺらぺらな木の板から出来ているようなものまである。
漫然と多種多様の建築物を並べたような不安定な町並みは、収まりどころのない不快感を呼び起こした。
「こりゃ、なんだ。これが書き換えられた、ってやつなのか」
周囲を警戒しながら歩みを進める。
建物が続くだけで、そこには住民の姿はない。
「ちがいます。これはこちらの世界に作られた……、継ぎ足された空間です。こちらの世界とアイオーンの悪夢を繋いでいるものです。とりあえず、あれを目指すです」
アイエーは遠方にある、紫色のもやでおおわれた建物を指さす。
かなり大きな建物のようだが、もやのせいで全貌が掴めない。
「アバウトだな」
「完全な中心点に行かなくても、データ移動が活発な場所にまで行けば問題ないです。むしろ、中心よりもすこし離れたところぐらいのほうが安全にすませられます」
「ふむ。城を攻め落とさなけりゃならんというわけでもないなら、見つからんようにささっと突っこんで出てくりゃええの」
「見つからないってのは無理です。もうとっくに見つかってます」
なにか地鳴りのような音が聞こえてくることに気づいたのはそのときだった。
巌隆一郎は音の出所を探ろうと意識を集中する。しかし、音が反響しているような感覚があり、正確な位置が掴めない。
「これは、気配はよくわからんが、数百はおるの」
轟太郎がさほどの気負いもみせずに言ってのける。
直後、その正体が明確な形で判明した。
獣の群れが、巌隆一郎達に向かって疾走してきていた。
「おいおい……。野生の動物かよ」
しかし、どれも現実に存在するような生き物には見えない。
ただ、まったく理解に至らない、見たことのない造型というわけではなく、どこか見覚えがあるような、物語の中でモンスターとして出てくるような、そんな姿形をした生き物だった。
「それにしては統制が取れとる。――むっ、来るぞ、巌!」
轟太郎の注意を受け、巌隆一郎はとっさに身構えた。
視界がさっと影で覆われる。
「……あん? げえぇッ!?」
上方――翼を持った黒い巨体、知性を感じさせる鋭い目、不気味な光を放つ爪を持った生き物が羽ばたいていた。
「ドラゴンかよ!」
比較対象が浮かばないほど大きなドラゴンだった。それなりの体格をもつ巌隆一郎でも一呑みにできそうだ。
そんなドラゴンが首を引いて、大きく息を吸い込みはじめる。
「ちッ、炎でも吐く気か!」
「あっちの細い路地を使っていくです!」
「行き止まりにでもぶつかったらアウトだぞ!」
「問題ありませんっ。アイエーの言うとおりに進むです!」
言われるがままに建物が並ぶ路地へと飛び込む。
背後ですさまじい風の奔流が起きた。
肩越しにちらりと窺うと、青い炎が地面で跳ねて周囲を埋めつくそうと広がりだしている。
「熱ッつ! あちぃいい!? くそッ、うおおおおっ!」
即座に前に向き直り、熱風に押されながらも全力疾走する。
バーベキューの材料になるなど御免だ。