~世界滅亡の日~
巌隆一郎は眉を顰めてアイエーを見下ろした。しかし、彼のそんな様子にも気づかず、アイエーは素知らぬ顔で本を読んでいる。
「どういうことだよ。いきなり世界って、お前が世界の何を知ってるってんだ」
「どうもこうもないです。アイオーンの悪夢がこちらに歪みを送り込んでるんですよ。そのデータ移動に乗っかってアイエーもこうやって実体化してます。下っ端の悪夢なんて単調な作業に慣れてるんで、アイエーが乗っかってることにすら気づかないんですよ。お前みたいなアホとおんなじです」
「お前のことはどうでもいい、なんで滅ぶかって聞いてんだ」
アイエーは面倒くさそうにため息をつき、本を閉じて起きあがった。クッションを抱え込み、そのまま体勢を変えて床に座りこむ。
「うるさい奴ですね。なにがわからないんですかぁ」
「そのアイオーンの悪夢ってのはなんだ。滅ぶってのは具体的にどうやって滅ぶ」
「アイオーンの悪夢はアイエーみたいなものの故郷です。存在しないデータによって存在を作りあげた、仮想次元です」
「存在しないデータ?」
「記憶デバイスの天使の取り分って知っていますか。知りませんね、バカだから」
「それぐらい知ってるっての。あれはデータ表示の問題から生まれる差異じゃないのか」
記憶デバイスを購入したときによくある勘違いなのだが、パッケージの表示容量と、パソコンや携帯に接続したとき実際に表示される容量では違いがある。
リュリュのデータを集める為、大容量の記憶デバイスを購入したことがあった。
その際、パッケージよりも容量がかなり少なく表示されていることに気付き、調べた結果そういうことだとわかったのだ。
そのせいでさらに買い足す必要ができてしまった。リュリュのデータは分散され、様々な記憶デバイスの中で眠っている。
「そういえば人間はそういうバカなことをやってましたね。数字は数字、勝手に置き換えるからわけわからなくなるんですよ。アイエーが言ってるのは、本来の意味のものです」
「本来の意味?」
「どのようなデバイスに接続されているものでも、ごく微少なデータが完全に独立した形で存在しています。デバイスから認識できないデータ、この世界には存在していないデータです。そういったデータの集合体が、アイオーンの悪夢です。ちなみに命名はご主人様です。敬え平伏せです」
「それがどうやって世界を滅ぼすってんだ。お前みたいなクソガキがゴキブリのように山ほどわいてくんのか。そりゃ、確かに危機的というか、気持ち悪い状況ではあるが」
「誰がゴキブリかこの生ゴミ風情が。お前なんか虫けら以下のエラー的存在ですよ」
起動してあったパソコンでセキュリティソフトのスキャンを開始する。
「ギャース! やめろっつってんでしょボケぇ!!」
アイエーがのたうち回りながら叫んだ。微妙に身体が薄くなっている。どうやらセキュリティソフトを相手にすると実体化に支障が出るらしい。
「使うならもっとトロいやつ使えです! ……まあ、もうどうせお前ともこれまでの付き合いですけど」
「なに? ほう、とうとう出ていくのか」
「ふんっ、滅ぶって言ったです。アイオーンの悪夢がこちらの定義を書き換えたら、そのときはもうこの世界は存在できなくなります。お前のようなアホな人間もみんな一瞬で絶滅しますよ。地球だろうが宇宙だろうが、この世界はすべて成り立たなくなるのです」
アイエーは居丈高に言いきると、クッションを持ったまま立ち上がった。
ふいっと巌隆一郎から視線を逸らす。
「ま、どぉーーしても、と言うのであれば、お前のような1bitに満たないようなゴミ人間でもご主人様の話し相手ぐらいにはなれるでしょうし、久遠様のディストピアになる世界にまで連れていってやらないでもないですよ、奴隷として。ついでに、お前のデータも連れていってあげます」
「……」
「ん? どうしたんですか? アイエーに土下座してアイエー様と久遠様に忠誠を誓いますと言えば連れていってやるですよ。ほらほら、はーやーくー、はーやーくー」
「いや、人間が絶滅するなら、お前のご主人様とやらも死ぬんじゃないのか」
アイエーは巌隆一郎の言葉を鼻で笑い、肩をすくめた。
「なにをバカなことを。だからお前はダメなんですよ」
諭すように「いいですか」と彼女は巌隆一郎に指を突きつけてくる。
巌隆一郎の百八十に大してアイエーは百二十程度。身長差がかなりあるので、諭すとはいっても、アイエーはぐぐぐっと背伸びをしながら、必死に身体を大きく見せようとしていた。まるで様になっていない。
「アイエーの力があれば、ご主人様の定義を書き換えて他世界に移動することぐらいわけないのですよ。この世界に存在できなくても、他の世界に存在できれば問題はないのです」
「そのご主人様とやらは見つかっていないわけだが」
「それも解決しました。アイオーンの悪夢がこちらの定義を書き換えたら、アイエーはこちらのどこにでもアクセスできるです。ご主人様の検索なんて零秒で終わります」
「……よくわからんが、ようはアイオーンの悪夢とやらはこの世界をフォーマットするってことか。それでファイル形式を変えると。そうしたら、お前はこの世界のどこのデータにでも簡単にアクセスできるようになると」
「ちょっと違いますけど、おおむねそういうことですー。凡愚なりに理解はできたようですね、アイエー様に感謝するがいいですよ」
「いや……じゃあ、やっぱり消えるんじゃないのか、久遠とやらは」
「アホですねぇ。だから定義を書き換えれば……」
アイエーが得意げに指を振っていたが、急にその動きを止める。フリーズだろうか。
「……ギャース! ギャース! エラーですエラーです!! これじゃ終了条件をいつまで経っても達成できません! ぎゃー、ご主人様ァ!」
突然、アイエーは頭を抱えてぐるぐる回り始めた。壊れた掃除ロボットのようだ。
「だからそう言ってるじゃねえか、バカかお前」
「なにぼけーっとしてるですか! ご主人様を探しに行くです!」
アイエーがクッションを放り投げ、巌隆一郎の腕を引っ張ってくる。クッションは壁に当たると消滅した。どうやらあれもデータの産物だったようだ。
「はあ? いまからかよ」
「当たり前ですよ! 今日の夜にはこの世界は滅びます! それまでにご主人様をなんとしてでも探しだすです!」
巌隆一郎はアイエーの言葉に目を丸くした。
「いや、ちょっと待て。今日の夜だと? それは本当なのか。生き急ぎすぎだろこの世界。いつからそんなインスタントな世界崩壊が許されるようになったんだ」
「アイエーがアイオーンの悪夢の進行速度を間違えるはずありません。正確には23時59分41秒08です。その時点でこの世界はすべて消えます」
掛け時計を見ると、時刻は午後五時二五分だ。
これまで探して見つからなかったのに、たった六時間程度で見つけろとアイエーは言っているのだ。
「アホか、無理だ。それよりもアイオーンの悪夢とやらを止めることはできないのか。お前といっしょにまとめてセキュリティソフトで消しちまうとか」
「それこそ無理があります。セキュリティソフトでどうやって仮想次元にアクセスできるですか。それに定義がそもそも違うから人間にはどうにもできないうえ、今回のアイオーンの悪夢は規模がすげーでかいですから、アイエーでもどうにもなりません。あれを止めるにはアイエーが十人は必要ですよ」
巌隆一郎は十人のアイエーが周辺をうろちょろしている姿を想像し、気分を悪くした。
「だいじょうぶです、アイオーンの悪夢がこっちに送り込んでいる歪みを使えば、アイエーのこちらでの検索機能も大幅に強化されます。それならご主人様を見つけられるはずです。だからアイエーをとっととそこまで連れていくです!」
「っておい、お前なにやってんだ!」
いきなり、アイエーは巌隆一郎を登りだした。肩の上に足をかけようとしている。いわゆる肩車のような体勢だ。
「連れていくのはお前の役目です。アイエーは姿を維持するだけで手一杯です」
「データに戻りゃいいじゃねえか」
「意志の疎通に支障がでます。非効率です。お前、いちいちケータイみながら走るですか」
「確かに文章じゃ遅すぎるか」
位置のわからないどこかに向かうのであれば音声での案内があったほうが楽だ。
それでも、幼女然とした女の子を肩車しているこの姿は、人に見られたいものではないが。
「つうか、着替えたいんだが」
「いくらしょーもないバカとはいえ、そんなヒマはないことぐらいわかったほうがいいんじゃないですかねえ……」
「うるせえな」
そもそも、世界が滅ぶことが確定しているのであればいちいち抗うのもバカらしい。最後までリュリュと一緒に過ごしたいぐらいだった。
結局着替えずに腕時計だけ手に取った。時刻を確認する。電波ソーラー時計だけあって、ズレはないようだった。
――世界滅亡まで、残り06時間30分17秒。
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