~虚次元の楽園~
ただ、その少女には表情はなく、動きもまったくない。
服が出来上がると、少女はぼんやりとした目で無表情のまま口を動かさずにしゃべった。
「Kuon1 与えよ」
「あなたの望むものはあげられない。別のものを」
「与えよ」
「それはあなたの望みなの? 望みを真似ているだけではないの」
「望む 欲し 与えよ」
「私は、あなたの望みを知らない。だからどうか話を」
「望む 高 欲し 生」
「あなたに、より多くの言葉を。人は意志を伝える手段に文章を使います」
「わ、わた、しは、高、次の進化、によ、り、わた、しを、生、みだす」
久遠が怪訝な顔をした。
「高次の進化? もっと言葉を」
「――進化を、望んでいる。高次にあれば新たな、わたしを生みだすことができる」
言葉の意味を測ろうとしていた久遠が、ハッと驚きの表情を浮かべた。
「それはいけません。してはいけないことです。あなたの望みを否定します」
「なぜ――わたしは、あなたにもっとも、すぐれた、適切な形をとった。この姿、あなたの望み、叶えるはず」
「違うわ、同じ姿をしていてもアイエーはアイエーです。あなたは、あなたです。同じものではありません」
「同じ――同じとは――違う 一致 一致している」
「いいえ、違います。だから、あなたの望みは叶えられません。べつの望みを」
「望みは変更される、望みに多様性は必要ではない――」
「変更できるのであれば、そうしてください」
久遠が諭すように言うが、巌隆一郎はそこに不穏な空気を感じとっていた。
久遠と謎の少女とのやり取りは一見上手くいっているように見えるが、なにか認識が決定的に違う、ずれている。
アイエーを横目で見ると、アイエーは二人のやり取りを厳しい表情で眺めていた。
口を挟もうとして挟めないもどかしさを感じているように見えた。
「望みは――アイエーを識ること」
突如、少女の目が見開かれ、アイエーを捉えた。アイエーが驚いてのけぞる。
巌隆一郎は即座にアイエーの前に立った。
「ダメよ! やめてっ! あぅッ!?」
悲痛な声をあげた久遠が中空に弾き飛ばされる。
「久遠!」
「ご主人様!?」
久遠がそのまま地面に叩きつけられるかと思ったのだが、久遠は中空に止まっていた。
彼女の周囲に、白い壁のようなものが浮かびあがる。
「IAの権限を確保。データ確保。オルテリス確保」
少女が何事か呟くと、アイエーが息を呑んでいた。アイエーを後ろに庇ったまま、肩越しに「どうした」と訊ねる。
「そ、そんな……どうやって……。あッ! ご主人様の監視データ……!」
色を失い、アイエーは少女を力無く見つめていた。
巌隆一郎はどちらに意識を向ければいいのかわからず、中途半端な体勢で両者の様子を窺っていた。
「アイエー、起動します」
少女の声が、急に変化した。
「これでアイエーがアイエーになりました。ご主人様、アイエーと一緒に理想の世界に行きましょう」
壁の中にとらわれた久遠に、少女はにこりと笑いかけた。
巌隆一郎は耳を疑った。それは、まさにアイエーの声だった。だが、アイエーがいるのは後ろだ。この少女ではない。
しかし――。
「高次世界を作りあげて現実世界と仮想世界、あらゆるアイオーンの悪夢を支配する、ご主人様のディストピアを作るですよ。世界がご主人様のためだけにあるすばらしい世界ですよ。お前も着いてきたければついてきていいですよ、ポンコツでもご主人様のペットぐらいにはなれますからね。着いてきたらデータもちゃんと返してやるです」
少女がふんと鼻を鳴らしながら巌隆一郎にその言葉を向けた。
背筋が怖気だった。同じ顔、同じ服装だけではない。そのしゃべり方、その言い様はアイエーそのものだ。
動けないでいると、上から叫び声があがった。
「違う、そんなのは違うわ!」
久遠が壁を叩く。
「アイエーのデータを取りこんでも、アイエーと同じでも、あなたはアイエーにはなれない! 私にとってアイエーはずっとひとりだけなのよ!」
「でもご主人様」
少女は困ったように首を傾げた。
「あっちのアイエーはもうなにもできないですよ? ご主人様の望む理想の世界も作れません。作りかけのリュリュたちの世界も、もうアイエーが引き継ぎましたです。だからアイエーがいればあっちのアイエーはもうポイーですよ」
苛烈な言葉を吐く癖に、その言葉には一片の害意も見えなかった。
もはやアイエーのことなど微塵も相手にしていないのだと、それがわかった。
後ろで、か細い声が聞こえた。それは返答だったのだろうか。
「アイエーは、アイエーは、もうなにもできません。そいつの言うとおりです。ご主人様と一緒に理想の世界は行けそうにないです。ご主人様のためにアイエーができることは、もうないです。ごめんなさいです。アイエーは、ご主人様が幸せになれるのなら、なんでもいいんです。アイエーがどうなっても、いいです」
泣いているわけではない。哀願しているわけでもない。
ただ静かに受け入れているように話すアイエーの言葉は、そのままの形で久遠に届いてはいなかったはずだ。
巌隆一郎ですら、その言葉の中に感じたのだ。
アイエー自身が望む、アイエーがアイエーたり得る唯一の願いを。
「違うわ、違うよ、アイエー。あなたは私にはじめて夢を与えてくれたの。あなたを現実世界に生みだすために作ったコードは、世界のためでも、私のためのものでもないよ。ただ、私はあなたのためだけにあなたの定義を、あなたの宣言を作った。あれは他でもない、あなただけのものなのよ」
久遠は胸を押さえて、目を閉じた。
「あなたが望まないのなら……それでもいい。私なんて、何度も後悔して、何度も失敗してきたもの。でもね、アイエー、お願い。どこにも行かないで。私のそばにいて。なにもいらないから、世界も、理想も。あなたがいてくれたら、私はきっと、この世界でも生きていけるから。だから、一緒にいましょう?」
ポスンと本当に軽い力を、背中に感じた。押し殺すような声が服をわずかに震わせる。そこには、空白などない。アイエーはもう空白の中に存在するただの定義ではない。
巌隆一郎は大きく息をつき、少女を見据えた。
「そういうわけだ。どうやらテメエの入る余地はないようだぜ」
「おかしいですよ。そんなの、ぜんぜん効率的じゃありません。アイエーはもっと合理的に――」
「その気持ち悪いしゃべり方をやめろクソ野郎が。」
「お前はもっと利口な奴だと思ってました。そんなのなら、やっぱりご主人様だけがいればいいです」
「おい、久遠」
声をかけると、久遠はアイエーを心配そうに見ていたが、すぐに巌隆一郎へと視線を向けた。
「こいつをぶちのめしても構わんな」
久遠はしばらく躊躇っていたが、まもなくして頷いた。
それはそうだ。アイエーを踏みつけたぶん、痛い目を見せてやるというのが筋というものだ。
背中に張りついていたアイエーをそっと押して離し、少女目がけて飛びかかった。
「うおおおおおッ!」
当たると、そう思った瞬間。少女の姿がかき消えていた。
そして、懐に英数字が書かれた腕が伸びてきた。
「なッ!?」
すさまじい勢いで吹き飛ばされる。一撃、たった一撃で身体に痺れが走った。
膝を突いて立ち上がる。
少女の姿がアイエーではなくなっており、変形していた。初期状態のような、緑色と英数字が浮かぶ身体になっている。
体格は大きくなっており、巌隆一郎と同程度はありそうだった。
「愚かな愚かな、人間が、これに、神に、勝てると」
「はッ、さすがにあんな可愛らしい女の子を殴るのはアレだからな、一撃目は手加減してやったんだよ」
「ほろ、ほろび、ほろ」
「話すなら日本語にしとけ、俺は他の星の言語は話せんぞ」
側面に回り込み、足刀蹴りを放つ。
が、また次の瞬間、緑色の身体が肩口から襲いかかっていた。今度は蹴りだった。
「ちぃッ!?」
なんだ。動きがまったく見えない。巌隆一郎は格上の相手とも何度も戦ってきた。動きが見えないようなすさまじい相手とも立ち回ったことがある。
しかし、この緑色の物体から放たれる攻撃は、あまりに緩く、遅く、避けられないわけがない攻撃なのだ。
にも関わらず、攻撃の入り口が見えない。どこから放たれているのかさえわからなかった。
さらにダメージがやたらと大きい。勢いからは考えられないほどの衝撃だった。
「genryuichirou ここで 殺 」
「あん? 殺すっつったのか。やってみろよ、おい」
受けの構えを取る。攻撃を見極めるのが先決だ。
緑色の身体は数メートル先にある。
そこからどう動くのか、と意識していたが、またもやなにも見えなかった。
動きすら見えない。正面から来た攻撃を後ろに飛んで衝撃を逃がす。
「なんだ、こいつは」
あまりに不気味だった。手の打ち方を考えながら、ふたたび相対する。そのとき、後ろから声がかかった。
「そいつは時間を増やしてるです! 時間停止でも空間停止でもないです、時間を追加して好きなように攻撃してるですよ!」
「なんだと!?」
時間追加。攻撃が読めないわけだ。
「攻撃をあらかじめ置く、か?」
相手が動く場所を読み、そこに攻撃を加えておく。
即座に実行するが、やはり当たらなかった。カウンターも間に合わない、範囲の広い攻撃でも当たらない、全周囲を同時に攻撃しても避けられる。
勝ちの目がまるで見えなかった。
「ちッ……龍司や兄貴ならどうかするかもしれんが……」
基本の技を磨き上げるタイプである巌隆一郎にとって、非常にやりにくい相手だった。
もっとも、奇抜な技を持っていたとして、時間を追加するような敵相手にどれほど通用するかは疑問だが。
「ゆ た 死 」
「なんて言ってるかわかんねえと言って――ぐッ!」
顔面を捉えられ、地面に転がされた。
俯せに倒れる。腕をついて立ちあがりながら、ふたたび敵を確認する。
余裕綽々といった佇まいが気に食わなかった。
巌隆一郎が構えると、後ろからアイエーが叫んだ。
「もう、やめてください! にげるですよ!」
「そしたら、世界が滅びるんじゃなかったのか」
「しかた、しかたないです。アイエーは、もういいです。ご主人様が一緒にいてくれるです。それがどこであっても、アイエーは、ご主人様についていきます。アイエーは、お前もそこまでいっしょに……」
「俺はなぁ、死ぬ覚悟なんて出来てねえんだよ。お前とは違う。俺は人間だ。しかもまだ成人もしてねえようなガキだ」
「……そうです、アイエーは人間じゃありません。ヘンなこと言って――」
「そんなガキでもわかるぐらい、人間っつうのは、めちゃくちゃ不便なんだよ。なにかありゃすぐ死ぬし、くだらんルールに縛られるし、アホみたいに理性と感情で争いまくってるし。でもなあ、だからこそ諦められねえんだよ。どんな状況になっても、クソみたいな自分に嫌気が差しても、明日なんてもんが来なくちゃいいと思っても、どっかでなにかを信じてるんだ」
腕を引き、緑色の身体をした敵を見据える。
「だから、引けねえな。俺だって見ていたいんだよ、お前らが二人で笑ってるところ。人間と創作物、最高じゃねえか。たぶん、世界で一番相性の良い二人だぜ」
時間を追加する、それがどういうことなのか考える。空間の追加と同じ要領だ。自分の部屋を出たら、廊下に行く前に更衣室に出る。そして、更衣室を出た後に廊下にでる。
つまり、そこには必ず入り口と出口があるということだ。
先制攻撃では意味がない。カウンターや出てくる場所をあらかじめ狙うのも意味がない。身体を捕まえたところで、一方的にやられる時間が増えるだけ。
では、どうするか。
「 ぐ き 殺 早」
全力で、防御に入る。
その瞬間、攻撃が襲いかかってきた。唯一防御を薄くしていた、腹を狙って攻撃が飛んでくる。
巌隆一郎は、笑った。
「 ぎ ぎ ぁ や」
声とも呼べないような不気味な悲鳴を上げながら、緑色の身体がのたうち回る。こちらも無傷ではない。
だが、一矢報いた。
「はっはーッ。案外痛えだろ、ハサミはよう」
単純な仕掛けだ。防御をわざと緩くした部分にハサミを仕込んだだけ。
後は自滅するのを待つだけという寸法だ。しかし、よほど怒り狂ったのか、それからはまた一方的な戦いだった。
いよいよもう立てまいという状況まで来たが、結局、巌隆一郎は立たずにはいられなかった。
アイエーがいる。久遠もいる。
二人の視線を背負った状態で、そう易々と倒れてやるわけにはいかなかった。
「し し ぶ 」
「しぶといってか。テメエの知ったことじゃねえよ、おいどうしたとっとと来たらどうだ」
だが、そんな軽口もいつまで吐けるか。痛みに震える腹部、痛めた左足、上がらなくなった右肩。腫れ上がっているであろう顔面。もう殴られてやるところもない。
だが、それがどうしたというのか。勝負などというものは、いつでもそういうものだ。ボロボロになったから負けだというわけではない。
「……ホント、アイエーはダメですね」
ふと、アイエーが口を開いた。
「筋肉だるま! アイエーがそいつの動きを止めるです!」
「あん? なんだと」
唐突な宣言に、意識がばらける。だが、敵も意識がそれているようだった。ぐらぐらと身体がぶれている。
「アイオーンの悪夢はそいつだけじゃねえです! アイエーんとこのアイオーンの悪夢だっているです!」
「アイエー!?」
久遠が批難の声で叫んだ。
「ちょっと、おいとまをいただきます、ご主人様。アイエーはアイオーンの悪夢に行ってくるですよ」
「おい、どういうことだ」
「どういうもこういうもねえです。そいつをぶっ倒せるのは、お前しかいねえです。頼むです」
真摯な目だった。頷かずにはいられなかった。
「ああ、なんかしらんがぶっ飛ばすのなら任せろ」
「頼むですよ。ご主人様、……ご主人様、ありがとう、です」
久遠はなにも答えなかった。緑色の身体を意識しながら、アイエーの様子を窺う。なにを考えているのか、わからない。
「後は任せたですよ」
「ぶっ飛ばしゃいいんだろ、わかってる」
アイエーが首を振った。
「ご主人様のこと、よろしくお願いします、巌隆一郎」
「――ッ、おい!」
アイエーの姿は、もうそこにはなかった。
迫り来ようとしていた緑色の身体に相対する。意識よりも、身体が先に動いていた。
アイエーのことが脳裏に浮かんでいたが、身体はそれを許さない。
そのとき――。
緑色の身体を覆うように、白い光が走った。
声が聞こえた。アイエーの声だ。
なんと言っているのかわからなかった。ただ、身体は動いていた。
緑色の身体目がけて渾身の一撃を放つ。
さえぎられることも、届かないこともなかった。一撃は何事もなくその身体に呑み込まれ、そして、その身体は宙を舞い、霧散していった。
久遠が地面に落ちてくる。
足を押さえて、そのまま座り込んでいた。そして、泣いていた。
目元を隠すでもなく、嗚咽を押さえるでもなく、ただ流れるままに涙を流して、アイエーの名前を呟いていた。
ふっと、白い空間が晴れていった。霧が晴れるように、周囲が開ける。
巌隆一郎達は小高い丘にいた。
幻の国オルテリス――本物ではない。アイエーが作った、アイエーが久遠の為に作ろうとした、理想の世界。
美しい風景だった。人の営みの中で、静かに町が瞬いている。
誰もが優しく、誰からも優しく、悲しいことのない、幸せな世界。
その世界を前にして、久遠は泣いている。この世界で、久遠は幸せでなければならないのに。
なら――。この町は、この世界はまだ未完成なのだ。
巌隆一郎は未完成の町を眺めながら、完成の日を想像した。
ガラスが散乱した部屋に戻ると、すぐに時間を確認した。もう午前二時に近かった。
久遠は周りの風景が変わったことにすら気づかない様子で、ぼうっと地面を眺めている。痛々しい姿だった。
無茶なことを押しつけてくれたものだと、悪態をついた。これはお前の役目だろう、と。
巌隆一郎は起動していたパソコンを覗いてみた。もう一月ほどやっていなかった操作を行い、そのデータを開く。
リュリュの画像データだ。アクセスできなかったはずのデータは問題なく閲覧することができるようになっていた。ゲームも、アニメも同様だろう。
人質は解放された。
立てこもり事件は終わったのだ。
もうなにも憂うことなく、毎日を過ごすことができる。そう、なにも怯えることなく。
巌隆一郎は次から次にデータを開いた。まともに見てなどいない。
とにかく、次から次に、なにかを確認するように開き続けた。
フォルダをひとつ覗いては、次のフォルダを。動画をひとつ再生しては、次の動画を。ゲームのデータもすべて確認する。
リュリュの可愛らしい姿が一瞬だけ巌隆一郎の前を流れていく。
すべて、一瞬だけ。
そして、最後のフォルダを確認し終え、巌隆一郎は目を閉じた。
なにも、なかった。
無くなったデータはない。そして、増えたデータもない。最後に見たときのまま、なにも変わらずそこにデータがあった。
そこにはコンピュータウイルスなどなく、万全な状態で動くデータしかなかった。
一度だけ、最後に息をついた。久遠へと振りかえる。
久遠を包むように、光が揺らめいていた。
久遠が顔をあげる。巌隆一郎は、呆然とその光を眺めていた。
そこに、一人の少女の姿が浮かびあがる。
リュリュを人質にした立てこもり事件は終わったはずだ。
なら、その少女は、なんだろうか。
久遠と巌隆一郎に見守られながら現れた少女は、恥ずかしげに髪を触った。
「た、ただいま戻りました」
なにも言えずに、その姿を見る。なにも失っていない。なにも失われていない。
少女は少しだけ胸を張り、顔をあげた。
「ほ、ホントあきれます。リュリュのデータあんだけとっておきながら、バックアップにバックアップ、さらにはオンラインストレージにまでバックアップとってあるんですから。アイエーがすべりこむ余地が、あっちまったじゃないですか」
そう言って、巌隆一郎を見た。
「お前はバカですか。たかがデータの為に、こんな、こんな……」
少女は俯き声を震わせた。その頭に軽く手を乗せると、少女は頷いた。
「アイエーは、アイエーは……う、ううっ、ご主人様!」
久遠と抱き合いながら、アイエーは泣き始めた。二人の声が部屋中に響く。
時刻は午前二時である。
巌隆一郎は部屋を出て、扉を閉めた。
とりあえずは、母親への言い訳と土下座を用意するところからだろう。今日は長い夜になりそうだった。




