~VX02DN~
アイエーがぺちゃくちゃ喋るのを久遠が嬉しそうに聞き、相槌を打っている。
巌隆一郎はたまにふられた話題に適当な返事をしながら、二人をぼんやりと見つつ、のろのろと歩いていた。
電車はすでに無かった。まさかタクシーに乗るわけにもいかないので、否応なく歩いて帰ることになったのだ。
「ご主人様……。アイエーのためにそこまでしてくれてたなんて……!」
話は久遠がアイエーのためにアイオーンの悪夢の歪みに入ってきたことに移っていた。
アイエーがふと首を傾げる。
「でもヘンですねぇ。物理的欠損なんてファイルマネージャで検索したときに引っかからなかったんですけど」
「うーん、もしかすると自然に埋まったのかもしれないね。バグというか、ああいう事態が起きたときに、エラーが起きないように自動で処理する修正プログラムが走ってたのかもしれない」
「つうか、その物理? そんなに、普通に入る手段としてはおかしいのか」
「容量の小さい記憶デバイスに未圧縮の動画や画像やら入れたら数があんまり入れられないから、圧縮するのが普通ですよ。現実世界でも、音楽データは圧縮データばっかりじゃないですかー」
「あん? あー、なるほど」
いまいちよくわかっていなかったが、巌隆一郎は適当に頷く。これ以上突っこんだ話をしたら面倒なことになりそうだった。
「……あの、水だとわかりやすいかもしれません」
「水?」
久遠は控えめに言うと、小さく手振りを加えながら説明した。
「記憶デバイスをバケツとして、データを水とします。バケツに水を移すとき、コップを使わないといけません。このコップに入れることがいわゆる圧縮……回線としてもいいです。バケツが一リットル、コップが百ミリリットルを入れられるとしてデータを移動するのが、普通のデータ転送です。バケツに対して大きくなりすぎないよう、コップの容量が決まってるんです」
「ほう」
「でも、これが物理的な接続の場合、バケツが一リットルに対して、コップが一リットルを超す場合があります。バケツの大きさは、コップの大きさを決めるうえでなんの意味も持たないんです。コップが一リットルだとしても、すでにバケツに入ってる水が溢れますし、二リットルだったりしたら、バケツから水がすごく溢れます。この溢れた量が多いぶんだけ、バケツはどんどん傷んでいきます。そして、最後はバケツが割れて壊れます。だから、物理的な入り口は、おかしくはないですけど、危険なんです」
「……なるほど」
巌隆一郎もパソコンにまったくの無知だというわけではない。アイエーはすっ飛ばして説明するのでわかりにくいことが多いが、久遠の説明はなんとなく理解できるところが多かった。
「お前、結構すごいんだな。アイエーのパワーアッププログラムとやらなんやら作ったっていうし。年下とは思えんわ」
「歳、ですか」
久遠は小首を傾げた。
「私、十五歳ですけど……。あんまり歳変わらないと思います」
巌隆一郎は、耳を疑った。同い年だ。てっきり三つか四つは下だと思っていた。
「なん、だと……」
「やっぱり、おかしいですよね」
「いや……」
久遠が自嘲するように笑う。確かに、久遠は平均から比べるとかなり背が低いほうだ。百四十前半と言ったところだろう。
顔立ちもあいまって一見では小学生高学年か、中学一年ぐらいにしか見えない。
だが、巌隆一郎は巌隆一郎で、久遠とは逆に平均よりかなり大きい部類に入るので、平均から離れることの疎外感というものは十二分に理解していた。
体格、とくに身長というものはどうにもならない。
しかし、こういった場合、なにを言えばいいのかわからない。
身長を気にしている人に身長のことを言って悪かったと謝罪するのも、なにか違うような気がする。
かといって身長の高低に対して美辞麗句を使って褒めそやすのもおかしい。
巌隆一郎は額を押さえて唸り、しばらくして答えを見つけて、やっと口を開いた。
「久遠、お前、結構頭いいだろう」
彼の言葉に、久遠は戸惑いながら答えた。
「は、え? 成績は、いいほうだと思いますけど」
「アイエーはお前のことがめちゃくちゃ好きだ」
「はあ……」
「当たり前です! ご主人様のことはあらゆる世界の中で一番好きです!」
「で、お前はそのアイエーのことをよく理解してて、なんかアイオーンの悪夢とかに関わるプログラムなんかも作れる」
「はい、そうかもしれません」
「じゃ、いいじゃねえか。他になんか欲しいもんあるか」
「え?」
久遠はしばらく考え、口を開いた。
「勇気、が欲しいです」
どこかぼんやりとした口調だった。巌隆一郎は笑って久遠の肩を軽くぽんと叩いた。
「金とか言われたらどうしようかと思ったぜ。勇気でよけりゃ、俺がいくらでもわけてやる。こう見えて俺はビビりなんでな、しょっちゅうビビっては勇気を奮いだしてんだよ」
「そうなんですか」
「あん?」
「ビビり、って」
「ああ、めちゃくちゃビビりまくってんよ。いまも家に帰るのが怖いし、兄ちゃんを怒らせたときは毎回逃げまわってんし」
「ぷぷーっ、ビビりというかただのアホですぅ。悪いことするから怒られるんですよ」
「うるせえな。てか、お前にも散々ビビらせられまくってんだがな。いつデータを消されるか。あ、お前データ返せよ! はやく返せ、すぐ返せ。ご主人様には会わせただろうが」
「あ。……ああ、はいはい、データですね、データ。リュリュのデータ。……ちょ、ちょっと待つですよー」
アイエーが急に姿を消す。
ふとクスリと笑い声が聞こえてきた。見ると、久遠が口を押さえている。
「なんだ、どうした」
「いえ。巌、隆一郎さんにも、怖いことがあるんですね。すごく強そうなのに」
「おいおい、なんだその妙な区切り方は」
「あ、ごめんなさい。よくわからなくて。轟太郎さんは巌って呼んでいたから……」
「アイツのあれは昔からの呼び方だからな。子供のとき、あだ名っていうかなんかあるだろ? 子供に対する呼び方。うちは男は名前の上に一つ字を増やす慣習があってな。俺は巌、兄貴は剛、親父は鳴ってな。で、子供のときはだいたいその上の字で呼ばれる」
「へえ。じゃあ、巌隆一郎さんなんですね」
「ああ、呼びにくいし、書きにくいがな。自分でも困ってる」
「でも、かっこいいと思います」
「そ、そうか?」
名前を変だ、奇妙だと言われたことはあるが、かっこいいという言われ方をしたのは初めてだ。
そもそもろくに女子と話すことがない質なので、急に緊張を感じてしまった。
不気味だと形容されることが多いにやけ面が出ないように頬を手でほぐしながら、久遠と二人で夜の静かな道を歩く。
「そういえば、アイエーが言ってたデータってなんのことですか」
「ああ、それはあれだ、リュリュのデータだよ」
「え? リュリュちゃんですか。そのデータをどうしてアイエーが」
「俺がインターネットで集めたリュリュのデータをアイツがアクセスできなくしやがったんだ。データを返して欲しかったらご主人様の所にまで自分をつれてけ、って脅されてな」
「アイエーがそんなことを……え?」
久遠が足を止めて、視線をあげた。なにかを頭の中で組み立てるように、視線が空中をなぞっている。
「どうした」
「そのパソコン、スタンドアローンじゃないですよね。オフライン状態とか」
「違うな。ネットは普通に繋いでる」
「アイエーが来たときから、ずっとですか。普通にインターネットは繋げられていますか」
「そりゃ、そうだが。アイツもネットは見てたみたいだし」
「最近もですよね。一週間ぐらい前から今日まで」
「ああ。それがどうした」
「アイエー検索プログラムはミスがあった? でも、ならどうして今日になって……」
久遠がぶつぶつと何事か呟き始める。
「あの、アイエーですけど」
巌隆一郎に向き直り、久遠が言った。
「いつごろ、どうやって巌隆一郎さんのところに?」
「一月ぐらい前に、メールでだな。気づいたら家の中にいた。あんときは実体化してたからビビったぞ。いきなり日本人離れした容姿の小さい女の子が部屋の中にいるんだからな」
「そのメールアドレスわかりませんか。いますぐに」
「あ、ああ。メールクライアントを見れば、たぶん」
アプリケーションを起動するために携帯を取り出すと、久遠が口元を押さえた。
「VX02DN……そんな、まさかこれが……」
「おい、どうしたんだ」
「いえ……メールアドレス、見せてください」
一月前に送られてきた文字化けメールを見せる。
添付データもなにもない。未だになにを書いているのかわからないが、アイエーを消すための手掛かりになるのではと思って取っておいたのだ。
「ああ、やっぱり、そうだったんだ。なんてこと……」
「なんだ、なにがわかった」
「これ、この機種、不具合が多いのはご存じですよね」
「そうだな。めちゃくちゃ多い。画質が良いだけのが取り柄だ」
「メールのバグもそうですけど、これ、一部のアプリがシステムに紐づけされていて、ほとんど修復不可能な状態になっているんです。だから、アップデートでも改善は当然できなくて。それで、このメールアドレスですけど」
久遠はその文字になっていない文字を三度操作してみせた。すると、メールアドレスが読める言葉に変化した。
表示された、そのメールアドレスはひどく見慣れたものだった。
「俺の携帯から発信されてる……、のか」
「はい」
何度見直しても、それは巌隆一郎の携帯のメールアドレスだった。一語足りとも間違っていない。ドメインまで合っている。
「いや、ちょっと待て、順序がおかしい。アイエーがデータ化してこの携帯に入ることはあったが、それはあくまでアイツはホームネットワークだから移動できるって……アイエーが嘘をついていたのか。いや、アイツはわけのわからんやつだが、嘘はつかんはずだ……」
「アイエーはたぶん、なにも気づいてないです。そもそも……そのメールは、もっと根本的な問題に関わってます」
久遠が深刻な様子で告げる。なにを言っているのか、さっぱりわからなかった。
アイエーを運んできたメールが、なにを指し示しているというのだろうか。
「どういうことだ」
「これは、システム面に関わる問題なんです。アプリケーションだけじゃない。この携帯のシステムには、アイオーンの悪夢が関わっているということです」
「待て、待て、わけがわからんぞ……。なんだそりゃ、この携帯を開発した人がアイオーンの悪夢を入れたってことか」
「違います。というより、この携帯に関する不具合のほとんどが、アイオーンの悪夢との通信のせいだと思います。この携帯は、アイオーンの悪夢からの接続を実行することで、持ち主の人をみんな監視しているんです」
「か、監視だと!?」
「はい。目的は……わかりませんけど」
「やべえな……」
巌隆一郎とて、一介の男子高校生だ。誰かに見られて困るようなことなど山ほどある。
アイオーンの悪夢にどれほど良識があるかわからないが、あれやこれやとバラされることになったら樹海に一直線だ。
「やばい、ですね。すごく。こんな形で浸食してくるなんて思っていませんでした」
久遠はひどく深刻に述べた。
女子高生ならもっと困ることがあるのだろうかと暢気なことを考えていると、久遠は言葉を続ける。
「タイミングとしては、この携帯の出荷前にシステム面に潜りこんだんでしょう。そうでないと検査か最終調整で多大な不具合が見つかっていたら回収していたでしょうから。そうなると、使用者のデータの動きはこれを所持した時点からすべて監視されているということになります。体系化されたセキュリティや情報の送信技術はもう握られたでしょうから、このアイオーンの悪夢はいつでもこの世界のオンライン上の情報を支配できるようになっているはずです。これだけの情報が存在する現代ですから、アイオーンの悪夢の行動ひとつで世界が滅びることがありえます」
度肝を抜かれた。
このしょぼい産廃携帯の中で、いったいなにが起きているというのか。
「は、はぁッ!? そんなにやべえのかよ!」
「目的がわかりませんから、すぐにそういう行動に出るとは限りませんけど……。そもそも、アイオーンの悪夢が人類を滅ぼすなんて意味のないことをするとも思えませんし。ただ、すでにいつでも実行出来る状況にある、それは間違いないです」
二人でしばらく沈黙していると、久遠の携帯からアイエーが出てきた。
両手をわたわたさせながら、巌隆一郎に声をかけてくるが、視線が泳いでいる。
「あぅ……あれです、ちょっと待つです。明日までにはたぶん、用意できるです。いまはあれです、ご主人様の携帯の充電がないから負担をかけられません。明日までには! でももっと時間があるとなおいいです!」
「お前、脅迫してる側のくせに脅迫される側みたいな台詞になってんぞ」
「うるせーです! アイエーだって困ってるんですよ! ……んぅ、ご主人様、どうかしたですか?」
物思いに沈んでいた久遠を、アイエーが下からのぞき込むように見上げた。
「アイエー、アイオーンの悪夢本体の居場所がわかったよ」
「ホントですか!? さすがご主人様。どこにあるんですか」
「アイエー、私のところからいなくなって巌隆一郎さんのところに行くまで、どこに居たの」
「んぅ? ご主人様の世界を作るために、仮想世界の空き地をいじってました。力作になりそうですよ!」
「いま、アイオーンの悪夢はそこにいると思う」
「ギャース!? アイエーの努力の結晶がぽっと出のやつに!?」
アイエーが頭を抱えていやいやをするように首を振った。
「放っておくわけにはいかないんだろ。どうするんだ」
「……明日、調べようと思います。バッテリーもないですし……VX02DNが管理されていることを考えたら、べつのデバイスを用意したほうが――」
久遠が訥々と計画を語っていると、アイエーが不思議そうに首を傾げていた。
「なんですかぁ、これ」
「どうしたの」
「アイエーが作った世界にヘンなデータがあるみたいです。開いてみますか?」
「いえ、開かないでファイル情報だけ教えて」
「ファイル形式は不明、プログラムは『アイオーンの悪夢』に紐づけられてるです。更新日とファイルサイズはバラバラですけど、容量順にソートしてみるです……えっ!?」
「おい、ひとりで勝手に驚かれてもわからんぞ」
アイエーはコンソールのようなものをしきりに操作しながら、目を丸くしている。
「最上部にご主人様と筋肉だるまの名前があるですよ? 『Kuon1』『genryuichirou』っていうのがあるです。更新日はついさっきになってます」
「それが監視データかな」
「マジで監視されてんのかよ……」
久遠はデータが実在したことにとくに反応を示さなかった。アイエーに寄り添い、なにかと指示をしている。
「べつのプログラムでそのファイルを開くことはできる?」
「該当するプログラムがありません。アイオーンの悪夢プログラムは代替できないです」
「そう。近くに本体は?」
アイエーは難しい顔で中空に目を走らせた。
「……見つけられないです。痕跡らしきものはあるんですが、……ご主人様、ログにアイオーンの悪夢の再起動があるです。たぶん、活動を再開してるです」
「……監視されてたなら、そうなるよね」
「でも、歪みは動いてないみたいですよ? 本体だけでなにしてるんでしょうか」
話に入れず巌隆一郎が居心地悪く突っ立っていると、突然、くぅーと小さな音が鳴った。
どう聞いても空腹の合図だった。巌隆一郎ではない、アイエーでもないだろう。アイエーが食事を取っているところは見たことがない。
そうなると、この場で腹を鳴らしたのが誰なのか、自然とわかってしまう。
「……」
久遠は恥ずかしそうにお腹を押さえていた。




