~とらわれの想い人~前編
久瀨巌隆一郎は、恋をしていた。
学校の教室、休み時間に入ってにわかに騒がしくなった場所で、巌隆一郎はひとり、買ったばかりの携帯を眺めていた。
十回に一回は電話発信に見事成功し、二十時間に一回は充電が切れたわけでもないのに自動で再起動してくれて、ブラウザを起動すると二分の一の確率でまともに動作し、地図情報を取得すると目に優しい一面真っ白な画面を表示してこれ以上は見せぬと言わんばかりにかたくなに反応を止め、メールが一向に来ないことを不審に思って新着メールの問い合わせをすると親切にも三日前から今日までのメールを文字化けつきで寄越してくる。
さらには先日から配布されているシステムアップデートを行うと、あらゆる機能を停止してオシャレな文鎮となってくれる。電源すら入らないということで評判だ。
そして、なぜか非常に質の良いディスプレイ。
これらを踏まえ、一部では『超高機能デジタルフォトフレーム』などと呼称されている機種だ。一単語で表すなら産廃である。
うかつにもこんなものを購入してしまったのは、もともとが新しいデバイス好きな人か、何の警戒心もない初心者ぐらいなものだ。
彼はそのどちらでもなかった。それほどヤバい、手のつけようがない、縦横無尽に疾走するアクセル全開のポンコツだとわかっていながらも購入したのだ。
その理由は、彼が眺める画面にあった。
希望に満ちあふれる潤んだ金色の瞳、人の手を寄せつけない華奢な身体、艶やかな桃色の髪。その高貴な容姿からは考えられないほど親しみやすく、明朗快活で面倒見が良い。
しかしどこか臆病で、困っている人を助けたいと思いながらも手を差しのべる為にその都度勇気を奮い起こそうと自分を激励するような、心優しい少女。
幻の国オルテリスで生まれた新世代の妖精リュリュ、その人である。
リュリュは画面の中にある書斎で椅子に座り、ノートと向かいあっていた。小さな手が羽ペンを握り何事かを書きつらねている。
この時間帯は、彼女は書き物をしている。
巌隆一郎が画面をつつくと彼女は目線をあげた。髪がかすかに揺れうごく。白い吹き出しが彼女の発言であることを示すように浮かび上がり、そこに文字が表示された。
「姫さま、どうかしましたか」
音声はないが大した問題ではない。リュリュの声はすでに巌隆一郎の中でいつでも脳内再生することができていた。
もう一度画面に指を伸ばす。髪に触れると、彼女は驚いた顔になって身を引き、頬をふくらませた。
背景が書斎からカラフルな記号が飛びかうメルヘン空間に変わり、リュリュのバストアップ状態が映しだされる。
頬を染めながらぎゅっと目をつむり、こちらをポカポカと叩くように両手を振りあげる。
「もーっ、ヘンなところさわらないでください! お仕事中です!」
1、もう一度さわる 2、押し倒す 3、自分を解き放つ
そんな選択肢は出てこない。
そのまましばらく放置すると、彼女は何事もなかったかのようにふたたびノートと向かいあう。
時間帯に応じてリュリュが何かの行動をしており、画面にタッチするなどしてこちらに注意を引くと彼女が何らかの反応を示す。
単調なアプリではあるが、巌隆一郎を骨抜きにするには十分だった。
この世に生を受けて十五年。彼が初めて恋を知り、そして片思いすることになったその相手は、二次元にしか存在しない、非実在美少女だった。
巌隆一郎はリュリュにプレゼントを選ぶつもりで『超高機能デジタルフォトフレーム』を購入したのだ。
デバイスとしてはポンコツだが、リュリュの仮住まいとして相応しいものはこれを置いて他になかった。とにかく画質が良いのだ。リュリュの美しさを表すにはもっとも最適な選択だと言えた。
その甲斐あって、今日もリュリュはべらぼうに可愛い。彼は周囲の視線も気にせず、だらしくなくにやけ面をさらしている。
巌隆一郎の前を通りすがった男女五人組のグループがその顔に気付き、そのうちの誰かが吐き捨てるように「キモっ」と告げて去っていたが、その声に気づくこともなく彼はリュリュと二人だけの世界を満喫していた。
Dear My World――オルテリスの姫君――。
三年前に放映された、大手アニメ制作会社のオリジナルアニメである。
幻の国オルテリスの王女であり、同時に魔法使いでもあるアイリスが妖精リュリュをお供に伝説の光の国を探し求めて各国を放浪しながら様々なトラブルに首を突っこんでいく物語で、最終的に世界を手中に収めようとする強大な闇の魔法使いが率いる一味と戦うことになるという冒険活劇だ。二クール、二五話で放送された。
放映に合わせノベライズとコミカライズが行われ、主要キャラはいくつもフィギュア化されている。
リュリュのフィギュアは欠かさず購入している。再来月には、作中では未登場の衣装を着ているものが発売される予定で、これは予約開始日に予約済みだ。
アイリスやリュリュ以外のキャラ人気も強い為か、今でも他の作品とコラボすることがあり、去年にはゲーム化もされた。サウンドノベルと簡単なシミュレーションの戦闘を組み合わせたもので、ゲームとしてはそれほど面白くもなかったが、リュリュがとにかく可愛かった。
音声認識機能があるゲームでもないのに、事あるごとに彼女に愛をささやきながらプレイしたくなるほど可愛かった。リュリュが活躍するシーンはひとつも漏らさず、直前のセーブデータを取っている。どの場面でもすぐに鑑賞可能だ。
ふとリュリュが船ではしゃぐシーンをプレイしたい、という欲求が浮かんでくる。
「おっきいですよ! ゆっくりですよ! 姫さま!」
「わあ、きれいなお魚ぎゃー飛んできました!? うぎゃーもってかれた!? わたしのパンが海のもくずに!? あの魚類、いまわたしみて笑いましたよ!」
「ぐでぐでですぅ……セカイがわたしをまわしてる……」
「波のずっとずっとむこうのどこかに、光の国もあるんでしょうか。姫さま、ぜったい見つけましょうね」
映像を頭の中で作りあげながらぼんやりと中空を眺めている彼の顔はいっそうだらしなくなり、クラスメイトの視線が同クラスの男子を見る目から、路傍で踏みつぶされたトマトを見るような目に変わっているが、彼がその様子に気づくことはない。
しかし、どんなに映像を頭の中で練りあげても空想は空想で終わってしまう。
家に帰っても、リュリュの艶姿が巌隆一郎の前に姿を表すことはない、それがわかってしまっていた。非実在美少女に懸想してしまったものとしては逃れられないジレンマの中に、巌隆一郎はいた。
儚くも美しい、あざやかな空想の中でリュリュとたわむれる。そんなとき、ふいに携帯からノイズが発せられた。
着信音でもシステム音でもない。
空間を歪ませようとする不吉な音。
イヤな予感に促されるまま視線を落とすと、画面からリュリュの姿がかき消えていた。
「ぐぬぁっ!?」
自動再起動――そんな考えが一瞬浮かんだが、違った。電源は落ちていない。
ディスプレイに映像が映ったのは数瞬後、システムが起動するときと似たような調子でだんだんと白い背景が浮かび上がってくるが、再起動とは違い、そこに商標ロゴは表示されていない。
まもなくすると、白一色だった背景が日常の町並みを映しだしたかのようなものに変化し、ひとりの少女が映しだされた。
映しだされた少女の姿はリュリュではなかった。
巌隆一郎は、携帯にリュリュ以外の女キャラのデータなどひとつも入れていない。当然だ、リュリュの住まいなのだからそんなものは必要ない。不誠実だし、何よりリュリュ以外の少女の姿などわざわざ視界に入れる気にもなれない。
そこにいる少女は、リュリュとは似ても似つかない小賢しそうで挑戦的な目つきをしている。
目の前に現れてペラペラと知ったような口を利いてこようものなら、眉間目がけて輪ゴムをぶち当てたくなるような風情の少女だ。
落ち着いた銀髪に碧い目、やけに愛らしいひらひらな衣装、その小さな体躯の身長にまで及びそうな髪をワンサイドで括っている。
画面の中で、その髪が風に吹かれるように、ごく自然に揺れた。
少女が顔を寄せて来ると、画面いっぱいにその顔が映しだされる。誰がデザインをしたのかは知らないが、顔立ちは整っている。
そんな少女が、ビシッと指を突きつけてきた。画面の外にいる、巌隆一郎に向けて。
「きもちわるい顔して画面にかじりつくヒマなんてあるんですかー。あーた、自分の立場すこしはわかってるんですかぁ」
音声が流れてくるわけではない。画面上で文字が点滅しながら書かれ、組み合わせるとそれが文章になっている。リュリュのアプリの派生物に見えないこともない。
だが、これはそんな生やさしいものではない。
アプリケーション、彼女を分類する言葉としてそれは間違っていないが、逆に言えば共通点はそれだけだ。リュリュとはまったくの別物である。主に性格が。
「はーやーくー。はーやーくー。アイエーの前にご主人様を連れてきてください、この筋肉だるま。そのムダにふくれあがった筋肉のせいで頭の中まで栄養がまわってないんですか。これだから凡俗はキライなんですよー。こんなゴミみたいな住人しかいないセカイにご主人様はいさせられません」
少女を無視して画面を操作し、あらかじめダウンロードしていたアプリを起動する。少女はそんなことに気づかず、巌隆一郎が伸ばした指を避けるように動いていた。
「かーっ、なんなんでしょこのヘンタイ。かわいいアイエーをなでまわしたくなる気持ちはわかってやらんでもないですけど、お前みたいな、高水準言語にすらソッコー拒否られそうな人間にアイエーの身体をさわらせたりしませんよ? そのきたない手をこちらに伸ばさないでくだギャース! なにやってんだこのボケぇ!?」
アイエーと自称する少女は何かから逃げるように画面内を必死に走りだす。
セキュリティソフトが起動し、データ内にある異物を排除し始めたのだ。巌隆一郎はそれを見て、凶暴な笑みを浮かべた。
「テメエこそ立場わかってんのか。俺はお前に隷属してるわけじゃねえんだぞクソガキ」
「アイエーが甘い顔をしていればつけあがってくれるじゃないですか! このデバイスのデータも取りあげてやってもいいんですよ?」
「……ちッ」
「ふふん、最初から素直に言うことを聞けばギャース! フェイントかけんなボケぇ!」
「タッチパネルの誤動作だ。こいつにはよくあることなんだよ」
アイエーはふーっと威嚇するようにため息をつき、どこからともなく画面上に現れた椅子に座り込んだ。やはりどこからともなく現れた湯飲みを手に取って、ちびちび飲み始める。
「なんでアイエーがこんなドアホにもてあそばれなくちゃならないんですかねえ……。セキュリティソフトとか滅びればいいのに。久遠様のディストピアを作りあげたあかつきにはぜんぶバラバラにして花の養分にしてやりますよ」
「どうでもいいが、とっとと消えろ。これはリュリュの為のもんだ。あと家にあるデータもとっとと全部返して派手にのたうち回って爆発して死ね」
「……お前の事情なんかどうでもいいのです、いいからはやくご主人様を探してください。そうすればお望み通り返してやりますよ。アイエーはお前のようなしょーもないやつ相手にいちいち嘘をついたりしません。由緒正しいコンピューターウイルスですからね」
「大人しく駆除されればいいものを」
「ほー、そんなこと言っていいんですか。アイエーがこのままポイーされちゃったらお前のデータもちゃっちゃか消えちゃいますけど」
「何度も言わなくてもわかってんだよ」
「お前みたいなのの記憶はポンコツシステムだから忘れちゃったのかと思いましたよ。わかってんならさっさとやるのです。アイエーの監視の目はごまかせないのです。せいぜい命がけでがんばることですね」
最後に勝ち誇ったような笑みを浮かべ、アイエーの姿がかき消え、画面が暗くなった。しばらくし、やっとリュリュの姿がもどってくる。
巌隆一郎の口元が、ふたたびだらしなくゆるんだ。