終焉の幕を上げる者
一瞬で私の世界は白に包まれた。
一点の曇りも無い白の世界。
どちらが上で、どちらが下か、そもそも、この世界に本当に私が存在しているのかすら曖昧だ。けれど、なんとなく、私は負けたんだと思った。
不思議と、怒りは無い。
「あーあ、やっぱり姉ちゃんじゃダメだったよ、歩」
心を燃やしていたあの灼熱は既に、桐生の手によって終わらされてしまった。今の私にあるのは、ちょっとした残滓だけ。鬼に成りきれず、捨て切れなかった人間の部分。
「ねぇ、歩。歩はさ、姉ちゃんの事なんかうざったいゴミの一つぐらいにしか思っていなかったと思うけど、姉ちゃんはわりとアンタのこと、嫌いじゃ無かったよ」
少なくとも、自分よりは好きだった。
なにか一つに夢中になれず、どこかしらに予防線を張って、まだ余力が残っている地点で、『もう充分頑張った』って諦める私なんかよりは。生まれた瞬間から、この世界をわずらわしいと嫌っていた潔さが気に入っていた。
多分きっと、嫉妬もしていたと思う。
嫉妬していたからこそ、あんなに弟につっかかっていたのかも。弟が雑音でしかすぎなかった私の嫉妬に、どうして付き合っていてくれたのかは分からない。
「結局、ダメだね、私」
ヘタレた言葉を口に出すけれど、ああ、そもそも私には今、口があるのだろうか? ここにあるのはただ唯一の白と終わりだけ。
いずれ私も、この世界に白く解けて消えてしまうんだろう。
「だから、せめてそのときまでさ……歩、アンタのことを思い出していてもいいかな?」
当然、私の声に応える者なんて無い。
あるわけがない。
私はほら……色んな意味で手遅れだったからさ。
『…………言ったはずだぞ、水面楓。俺はお前の復讐を終わらせてやる、と。そんな中途半端で退場することを許した覚えはない』
何も無いはずの世界に、桐生の声が響いた。
何も無いから、響くはずが無いのに、なぜかその声は響き渡ったのである。
『さぁ、忘れていた真実を思い出せ。そこがお前の終焉だ』
その声は強制的に私の記憶を引き出す。
既に劣化しきっていて、黄ばんだ写真のようだったモノが、彼の【サトリ】の能力を受けて、色づく。記憶の世界が復元される。
「あ、ああ……」
私の意識は、数年前、あの大殺戮が起こった日まで巻き戻る。
「やぁ、姉さん、遅いよ」
歩がどこか残念そうに、私に告げた。
いつもの退屈な大学生活を終えて、今日もむかつく弟と口論しに家に帰ってきた。玄関を開けて、気だるい声で「ただいまー」なんて言って中間の扉を開けた。ここまではいつも通りだったはず。
間違っていたのは、
「……え? 父さん、母さん」
まるで床から生えたかのような『十字架』に磔にされ、弟の手によって心臓に杭を打たれていた両親の姿だった。
「姉さん、姉さん」
この現実を拒否し、『何かのどっきり?』なんて、定番の現実逃避をしていた私に、弟は滅多に見せることの無い、満面の笑みで言う。
「行ってきます」
まるで、そこまでコンビニに言ってくるかのような、気軽さだった。
そんな気軽さで、歩は殺戮へと向かっていった。
大殺戮と呼ばれた大量殺人が行われたのが、おおよそ三日間。私は、その三日間を、ほとんど自分の部屋で過ごした。
「……ああ、あああう」
自壊しそうな精神を必死に暗闇に隠して、涙と鼻水を垂れ流しながら呻いていた。頭の中には、ぐるぐると『どうして?』という疑問の言葉だけが回っていたと思う。
でも、おかしいよね。
私はさ、『どうして?』なんて疑問を浮かべていたけどさ、私は知っていたはずなんだよ。知っていたけど、無理して思い出さなかったのかもしれない。
弟が、ずっと他人を殺したがっていたって。
両親すらも、その対象だったって。
水面歩によっては当たり前すぎるこの世界の前提を、私は恐ろしすぎて、ただ、疑問の言葉で誤魔化すことしか――
『違うだろ。よく、思い出せよ』
回想にまで割り込む、桐生の言葉。
だが、忌まわしくも彼の言うとおり、私は思いだしていないことがあったらしい。
「…………どうして? どうして、歩は私を殺さなかったの?」
暗闇の中で、やっと吐き出せた言葉を私は思い出す。
ああ、そうだった。
私は一番、それが知りたかったんだ。
世界全部を雑音だと思っていたのに。
なによりも静寂を愛していたのに。
どうして、歩はうざったい私なんかを生かしておいたんだろう?
「やぁ、姉さん。ただいま」
そんな私の葛藤を嘲笑うかのごとく、三日目、あっさりと歩は我が家に戻ってきた。その肩から、明らかに不味いと分かる血液の量を流して。
「世の中雑音ばかりだと思っていたけど、やっぱり世界は広いね。中には耳を澄ませるに値るる音色もあるらしい」
それは、歩によっては最大の賛辞だった。
後から分かったのだが、歩はこの時、桐生という名の探偵と戦い、負傷していたようだったのである。完全なるエゴイストだった歩がそうまで評価したのだから、よほど、その探偵は素晴らしい人間だったのだろう。
少なくとも、自分以外を認めない存在に『悪くない』と思わせる程度には。
「じゃあ、姉さん。また、行ってきます。多分、もう二度と帰ってこないから、俺のエロゲーは姉さんにあげるよ」
本当に気軽に、最後まで気軽に、笑顔で立ち去った。
私なんて、歯牙にもかけず、静寂を求めて死地へ旅立ったのである。
『本当に?』
「本当だ」
『何か忘れてないか?』
「もう忘れてない」
『認めたくないだけだろ』
「何を?」
『知っているくせに』
やめてくれ、なんて言葉は当然無視された。
桐生の声によって、更に記憶を復元される。ああ、これだけは思い出したくなかったのに。思い出してしまったら、私は――
「そうそう、姉さん。今更だけどさ、姉さんって俺のことうざいとか、むかつくとか思っていたでしょ?」
死地へ旅立つ前、私の部屋のドア越しに、歩は私に対する最後の言葉を告げた。
「姉さん、だからさ、姉さんはきっと僕のことわずらわしく思っていたかもしれないけどさ。……僕はそれほど姉さんの音色は嫌いじゃ無かったよ」
今更過ぎる、愛の言葉を。
やめてよ、歩。
シスコンなんて、流行らないからさ。そんなデレなくていいからさ。少しだけ、足を止めていてよ。
死なないでよ。
たった二人の姉弟じゃん。
「これで終わりです。遺す言葉はありますか?」
「……無い、なぁ」
必死に走って、追いついた時に見えたのは、血まみれの弟とトレンチコートの死神。
死神の銃口は私の弟を正確に捉えている。
私はやめて、と声を張り上げることが出来ただろうか?
思い出せない。
ただ、思い出せたのは、
「そうですか。では、来世では貴方が一人でありますように」
祈るようにして呟かれた死神の言葉に対して、銃弾で心臓を貫かれた弟が返した呟き。
「一人か……姉さんが居ないのは、嫌だな」
「ああ、そっか……」
自分でもわけが分からなかった怒りも、執念も、身を滅ぼすような憎悪も無くなって、やっと理解できたことがある。
「私は、弟に好かれてたんだ」
もっと早くに気付いていたら、あんな結末にはならなかっただろうけど。
うん、今更か。
「…………はぁ、シスコンも、ブラコンも流行らないんだけどなぁ」
だから私は、たった一つの救いだけ胸に抱いて、
「次もアンタの姉貴になれたらいいな、歩」
この優しい終焉に解けて、消えた。
●●●
「くそが、幸せそうに消えやがって……」
俺も消えてしまうとき、あんなふうに笑えるのか? なんて、柄にも無いことを考えてしまったじゃねーか。
「人殺しが、幸せになれるわけが無いのに」
呟いた告解の言葉は、星すら見えない漆黒の夜空に消えた。
俺が足を引きずるように歩いているのは、森林から少し離れた国道沿いの歩道。さすがにこの時間帯になると、車すらろくに走っていない。
「ああ、寒いな。ちくしょう」
さすがに夏の終わりにもなれば、この時間は少しばかり寒さが堪える。
しっかりと寒さ対策で、トレンチコートを着込んでいるのに、どうも、この寒さはなかなか消えてくれない。
『当たり前だよ、君。体内からそんなに血液が流れているんだ』
ふと、後ろを振り返る。
ほとんど真っ暗で何も見えないが、偶然、大型トラックが一台通りかかったおかげで、そのライトにより、点々と流れた血液の後が。
『本当だったら、トラックの運転手が血相変えて救急車での呼びそうな光景だが、君の存在は『冬』によって、ほとんど終わっている。今の君を知覚できる存在なんていやしないさ』
「そうか……そりゃ、よかった」
『君は本心でそう言っているから、救えない』
【魔法使い】のうざったい戯言も、やっと消えた。
よかった。
これで、やっと眠れる。静かになれる。余計なことを考えなくて良い。楽になってもいいんだ。人殺しなりに、それなりに罰を受けただろう。殺した奴の恨み言にも、充分、俺は付き合ってやった。
だから、そう、だからさ、
「最後くらいは……馬鹿みたいな妄想を、してもいいよな?」
それは、とてもとても馬鹿らしい妄想。
俺の隣には、俺のことを知っている奴らがたくさんいて、馬鹿みたいに大口を開けて笑っている光景。
まだまだ兄離れできない冬花が、俺にひっついて、それを見た大森さんが、血相変えて俺と冬花を引き剥がしに来る。俺はそんな大森さんに呆れながら、そんな大森さんのことが嫌いに慣れなくて、やれやれ、と言わんばかりに肩を竦めて、そんな――
「見つけた」
妄想が誰かの声で途切れた。
既に力尽きて、倒れていた体が温かくて柔らかい何かに包まれる。
「ばーか。行き先も告げずに出かけたら、私が追いかけられないじゃん」
「……というか、どうして、追いかけられるんですか? 大森さん」
出来すぎた奇跡だ。
どういう理屈か分からないが、大森さんが俺の前に現れて、こうして俺を抱きしめてくれれている。ほとんど消え去ったはずの俺を、両の手で抱きとめてくれている。
「女の勘、だよ」
「なにそれ、怖い、ですねぇ……はは」
「そう、怖いんだ。知らなかったの? 女の勘からは逃げられないんだよ」
「大魔王、ですか、アンタは」
いつも通りにの軽口の叩き合い。
それがなんだか、とても尊くて、愛しい物みたいに感じられた。
「はな、してください。大森、さん。俺は、終焉の、存在になりました。このまま、抱きしめていたままじゃ、貴方も」
「嫌だね」
「わがまま、言わないで、ください」
「嫌なもんは嫌だ。私は、こんな結末を認めない。だから、愛とか勇気とか、そんな都合のいい力で全部解決してあげる」
「無理、ですってば」
本当に無理なのに、大森さんは俺を抱きしめることを止めない。むしろ、なぜか込める力を強めて、
「無理でも、しょーがないじゃん。私はなんでかわからないけど、冬治君のこと、絶対に放って置けないんだから」
そんな、馬鹿みたいな、本当に馬鹿みたいな……
「だからさ、これが最後だとしても、私が抱きしめてあげるから。貴方は一人じゃないよ、冬治君」
戯言を……いや、最後なら、せめて、この言葉ぐらいは、正直に、言うか。
「ありがとうございます。泣きたいほど嬉しいですよ、杏奈」
そして、俺の全ては白き終焉に包まれて――――
「コーリング、カナエ。命令、全能を示せ!」
全てをひっくり返す『ご都合主義』の力と、それの対価として放たれた、未曾有の災厄が上げる産声を聞いた。




