頼れる人
僕が逃げた後、結局、白鷺さんへの返事は保留、ということになった。
ヘタレと言わないで欲しい。
だってほら、僕、まだ中学二年生なわけですし、その、心の準備とかね、さすがに結婚の約束をするにはまだ早すぎるというか……もちろん、白鷺さんが嫌いってわけじゃないよ! むしろ大好きさ! 超好きさ! けどね、こういうことはこう、もっとお互いを知ってからのほうが良いと思うんだ。
そう、僕と白鷺さんは会ってまだ一ヶ月も経っていないし。なにより、まだ法律が結婚を許してくれないし。
だから、そういうことはまだ先送りで。
――――でも、僕もうっかり告白しちゃったわけだし、そこら辺のけじめはしっかりとつけないといけないと思うんだ。
だから、僕はその発言の責任だけはしっかりと取るつもりだよ。
「とかなんとか、一晩かけて決意したのに、白鷺さんは風邪でお休みでしたとさ」
朝のホームルームで告げられた事実は、俺の心を折るには充分すぎる威力を発揮した。
うう、なに、この肩透かし感。
「でもまぁ、仕方ないよね。今日帰るとき、アパートによって美味しいものでも作ってあげようか」
どうせまた、白鷺さんはカップラーメンとか、コンビニ弁当で済ませているだろうし。まったく、そんなんじゃ、体が持たないのに…………あー、だめだ! 白鷺さんのことが気になって、全然落ち着かない! もう、いっそのこと、このまま二時間目から学校さぼっちゃおうかなぁ?
なんて、冗談交じりに考えていたときだった。
「ん?」
鳴ったのはケータイ。
メールの着信音。
流れたメロディは、白鷺さん用に設定した特別な奴。
風邪のときに、わざわざメールしてこなくてもいいのに。なんて、呟きつつも、内心浮かれながらメールを確認する。
そのメールのタイトルは『無題』だった。
そして、本文には、
『たすけて』
と、短く四文字の言葉が記されていた。
それだけで、僕が何かを決意するには充分すぎた。
無言で席を立つ。
鞄を取っている暇すら惜しい。
ただ、無我夢中で僕は走り出した。
「おい、佐々木。どこへ行く? これから授業だ――――」
「すみません! サボります!」
「いっそ清々しいな、おい!」
途中、藤崎に会ったけれど、言い訳を考えている暇も無いので、そのまま即答して、廊下を走りぬける。
待ってて、白鷺さん。
こんな僕じゃ、何の役に立たないのかもしれない。
正直、足手まといもいいところなのかもしれない。
けどさ、君が『たすけて』って伝えてくれたんだ。助けて欲しいって、君が伝えてくれたんだ!
「ここで、走らなきゃ、男じゃないよねぇ!」
体力なんて無視しろ。
理屈なんて置き去りにしろ。
一秒でも早く、白鷺さんの元へ。
「……はぁ、あ、ん……さ、佐々木、君……」
ベッドに伏せる白鷺さんの呼吸は荒い。
頬は上気し、息も絶え絶えだ。
苦痛から逃れるように身じろぐ様が、なんとも痛々しい。
「白鷺さん……」
僕は、彼女の名前を呼ぶことしか出来なかった。
アレだけ走ってきたのに、もう、僕に出来ることは何も無い。
ただ、好きな女の子が苦しんでいる姿を、見ていることしか出来ない。
「……ちくしょう」
無力さに打ちひしがれ、僕はベッドにもたれかかり、頭を垂れる。
所詮、僕はただの中学生、モブに過ぎない。
白鷺さんの痛みを和らげることも出来ず、ただ見ているだけ――――
「なーんか、シリアスな振りしてるけど、要するにただの生理だぜぃ、旦那」
だって僕、男の子ですし。
僕の隣で体を伸ばしている白狼、ケリーの声に応えるように、僕は曖昧に笑った。
学校をサボり、全力疾走で白鷺さんのマンションへ辿り着いた僕だったけど、つまるところ、そういうことだったのである。
『たすけて』という短いメール。
あれはどちらかと言うと、助けを求めるものではなく、むしろ、生理の痛みから出てしまった白鷺さんの弱音だったらしい。ちなみに、学校には『風邪』で休むと申告しているとか。
ちなみに、ケリーが具現化していたのは、単に心細かっただけのようだ。
まぁ、確かに病気しているときって、妙に心細かったりするけどさ。白鷺さんって、こういうところが可愛らしいよね。
しかし、改めて横になっている白鷺さんを見ているわけだけど、なんというか、本当に辛そうである。試しに『どれっくらい痛いの?』と白鷺さんの人格の一つであるケリーに尋ねてみたところ、『そーだなー。内臓を鷲掴みされて、ぐいぐい締め付けられる感じかねぇ』なんて末恐ろしい答えが返ってきた。うん、僕、本当に男でよかったよ。
「あ、うー」
白鷺さんはもぞもぞと布団の中で身じろぎすると、弱々しく右手をこちらへ伸ばす。
「……んー」
とりあえず、布団から差し伸ばされた手を握ってみる。
「…………んあ、ん……」
すると、不規則だった呼吸が段々と落ち着いていき、静かな寝息が白鷺さんから聞こえ始めた。どうやら、やっと寝ることが出来たみたいだ。
僕が一息ついていると、なにやら、ケリーが感心したようにこちらを見つめていた。
「やっぱ、旦那はすげーぜぃ。あのマスターが、自分から手を伸ばすなんて」
「ん、やっぱり、白鷺さんって他人をあんまり頼らないタイプなの?」
「あんまり、どころか、まったく頼らない。基本的に、人生ソロプレイな人だかんなー、マスターは」
ケリーの言葉に、僕は思わず白鷺さんの手を握る手に、力を込めた。
「ってことは、結構僕って信頼されているって考えてもいいのかな?」
「おう! 旦那はほんと、かなり頼りにしているんだぜぃ」
頼りにされている。
その事実が、なんだが無性に嬉しかった。
「……ケリー」
「なんだい、旦那」
「僕はさ、ただの中学生で、モブキャラなわけだけど……それでも、白鷺さんのことは大切に思っているし。出来る限りのことをしてあげたいんだけど、迷惑かな?」
「迷惑だったら、初めから旦那を呼んでませんぜ。つか、普通生理のとき、男の人を呼ばねー、っつーの。あと、そういうことは、直接マスターに言ってあげてくれよな。マスター、きっと顔を真っ赤にして喜ぶぜぃ」
「はは、そりゃ嬉しいねぇ」
僕は白鷺さんが起きるまで、ケリーと他愛ない会話を交わしていく。
もちろん、握った小さな手を離さずに。
結局、白鷺さんは夕方まで熟睡していたので、僕は丸々学校をサボることになった。
もっとも、白鷺さんの寝顔を充分に堪能できたし、何より、
『……あ、佐々木君だ……』
などと、寝起きのまどろんだ瞳で、パジャマ姿の白鷺さんが抱きついているという嬉しいハプニングがあったのだから、悔いなんてあるわけがない。むしろ、男として正しいことをしたと、胸を張って言える自信がある。
例えその後、白鷺さんの余りの抱擁によって、肺から空気が搾り出され、背骨が軋むことになったとしても、だ。
「いやぁ、うっかり白鷺さんに絞め殺されるところだったよ」
というか、ケリーが居なかったら、確実にそうなっていたと思う。そして、その後、正気を取り戻した白鷺さんをなだめるのにも、かなりの時間がかかっていただろう。
「……でも、今日は良い日だったなぁ」
黄昏に染まる町並みを眺めながら、僕はポツリと呟いた。
多少、災難なことや、後々面倒になりそうなことはあったけれど、それも、好きな女の子が関わってくると、全然苦にならない。
なんだか、凄く不思議な気分だ。
いや、そもそも、僕みたいな奴と、白鷺さんみたいな美少女がラブコメ染みたことが出来ているこの状況が、不思議そのものだと思う。
もっとも、白鷺さんの外見だけに惚れたわけじゃないけどね。
「やっほー、少年。なーに、にやにやしているんだい?」
「うわぁっ!?」
背後からかけられる声と、肩を叩かれる感覚。
普段だったら、なんでもないことなんだけど、今回はちょっと油断しすぎていた。
「……おー、まさかそんなに驚くとは」
僕は振り返り、ため息交じりに声の主に応える。
「驚くとは、じゃないですよ、杏奈さん。まったく、いつも言ってるじゃないですか、背後からいきなり肩を叩くのはやめてくださいって」
「あははは、ごめん、ごめん」
まったく反省していない顔で笑っているのが、大森杏奈さん。
この近くの高校に通っている十六歳の美少女で、学校のアイドルでもあるらしい。確かに、スレンダーな体型とか、綺麗な茶髪とか、勝気な瞳はそう呼ばれるのに、相応しいだろう。
まぁ、僕は白鷺さんの方が好みだけどね!
「あれ? しょーねん、なーにか、お姉さんに失礼なこと考えてない?」
「いえいえ、まったく」
「……うーん。こういうとき、彼だったらあっさり看破するんだろうな」
さっきまで明るい笑顔だった杏奈さんだが、なぜか、その笑顔に影が差す。
いや、だって、本当に失礼なこととか、考えていませんよ、僕。
「ま、彼のことはどうでもいいや。それより、しょーねん」
うわ、ころころ表情、変わるなぁ、この人。今度は、下世話な顔をして、僕に近づいてくるんですけど。
「さっきの君、なんだか恋をしているような顔していたけど……好きな人でも出来た?」
「ええ、まぁ、それなりに」
「おおー! 朴念仁の幹二君にも、ついにそう言うお年頃が来たかー。いいねー、お姉さんは嬉しいですよ。小さい頃から幹二君を見守り続けた甲斐がありました」
「それはどうも。杏奈さんも最近、意中の姫君に出会えたとか」
「うふふー、まぁーねー」
モブキャラの僕が、どうしてヒロイン候補みたいな美少女と普通に会話しているのかというと、なんてことは無い。僕と杏奈さんの家が近くて、小さい頃によくお世話してもらったというだけ。関係的には幼馴染ということになるけど、アニメやラノベみたいな関係を想像してもらっては困る。
年上の幼馴染なんて、時々、地域の行事でたまに会うぐらいだし、今日会ったのも、本当に偶然だ。実際、僕はほとんどの幼馴染と音信不通だし、その中で唯一、たまたま、杏奈さんと長く縁があるというだけ。
「それでねー、その冬花ちゃんって子が、ほんとにもう、天使みたいというか、天使を超えた天使というかねー」
たまに、こういう変態ぶりを見せ付けられると、ものすごくその縁を切りたくなるけど。
ああ、勘違いしないで欲しいんだけど、僕は同姓で恋愛することを変態と呼んでいるわけじゃない。
「お姉ちゃんはねー、冬花ちゃんの顔を思い出すだけで、もう……家に帰って冬花ちゃんの服に顔から突っ込んでもふもふしたくなるんだよ!」
「すみません、そろそろ通報したくなりました」
杏奈さんが特別変態だから、僕は衝動的に警察を呼びたくなってしまうのだ。まったく、好きな人の衣服にまで手を出すなんて……そろそろ本気で重傷になってきたなぁ。てか、のろけ話がうざったいです。
「でねー、冬花ちゃんてば、困ったことに、いっつも、あいつのことばっかり……ほんと、あのバカのことばっかり……」
あれ?
いい加減、苛々してきたからダッシュで逃げようと考えていたんだけど、なんか、また杏奈さんの雰囲気が変わった。
さっきまでの変態染みたものじゃなくて。
痛々しくて、辛そうで、どうしようもない悲劇について考えているような、そんな顔だ。
「杏奈さん」
「あ、ごめんね! 勝手に長話しちゃて! そ、それじゃ、私はもう行くから!」
僕が声を掛けると、夢から覚めたように目を見開いて、笑顔を取り繕う。そして、背を剝け、なぜか足早にこの場から離れようと歩いていく。
まるで、崩れ去りそうな何かを必死で隠すみたいに。
「ちょっと待ってくださいよ、杏奈さん」
「う……ごめん、私ってば急いでいるから――――」
「僕からは逃げてもいいですけど、その人からは逃げない方がいいんじゃないですか?」
ぴたりと、杏奈さんの足が止める。
「……その人って、誰のことかな?」
振り返らずに、訊ねてくる杏奈さん。
その声色は、氷のように冷たい。けど、僕は最近、それ以上の極寒を味わったことがあるので、今、それに怯む理由が見つからないのだ。
「さぁ? それは杏奈さんにしか分からないんじゃないですか?」
「……ごめん、さっぱりわからないや」
杏奈さんはそのまま、振り返ることなく歩みを進めて、曲がり角を曲がっていった。
多分、僕から逃げたんじゃなくて、もっと別な何かから逃げたんだと思う。もっとも、あの人があんなになるぐらい、怖い人なんて見たことがな――いや、一人居たか。
「あの人は逆に、逃げなさすぎだよなぁ」
ほんと、高校生って大変らしい。
まぁ、中学生の僕がどうこう言える問題じゃないけど。
もう夕方から夜に変わる時刻。
僕は学校に忘れた鞄やその他もろもろを取りに、戻ってきたわけなんだけど。
「えーっと、これってどういうことなんだろうね?」
なんというか、割れていた。
校門から、校庭、そして校舎まで、真っ二つに割れていた。
まるで、巨大な剣で一刀両断されたみたいに。
おまけに、人の姿も見えない。
本来なら、学校にまだ辛うじて人が残っているはずなのに……いや、というか、途中から、誰も見かけなくなったような気が?
「待ってましたよ、先輩」
混乱する僕へ、聞き覚えの無い声を掛けられる。
「ずーっと、待ってたんですよ、先輩」
声の主は、校庭のど真ん中で、なにやら黒い刀身のショートソードを携えていて。
「あんたを見返してやる! この時をな!!」
黒い憎悪で染まった目で、僕を睨みつけていた。
そして、その傍らには、数人の男子生徒の死体が、四肢をバラバラに切り分けられた、それらが転がっている。
……色々考えることはあるけど、とりあえず一つだけ。
「君、誰だっけ?」




