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将軍閣下の困惑。(2)



「…………っ、」



 書類にポタリと墨が落ちた。

黒い染みがじわりと広がって行くのを見て、漸く私は自分が長い間手を止めていた事に気付いたのだった。



「…………」



 嘆息し、私は筆を置いた。

手元の書類を、脇に除ける。重要な文章に掛かる様に染みを作ってしまった為、もう一度制作して貰う必要があった。



 執務中に考え事をし手を止めていた挙げ句、惚けて書類を駄目にするとは……我ながら情けない。



 雑念を振り払う様に数度頭を振るが、中々上手く切り替える事は出来そうに無かった。

気を抜けばすぐに、ホウリ大師の言葉が頭を占める。



『おそらく彼女は、側室以上の地位など望んでいない』



 その言葉が何度も頭の中に木霊(こだま)する。



 愕然とした。

思いもよらない言葉……だが私は、反論一つ出来なかった。否定する材料を持たないと言う理由だけでは無く、妙に納得出来てしまうだけの力が、大師の言葉にはあったのだ。





――コンコン



 扉が二度打ち鳴らされた。

己の思考に再び捕らわれかけていた私は、顔を上げる。



「……誰だ」


「イオリ・ユウキです」


「入れ」



 失礼します、と言う言葉と共に入室して来たのは、美青年と見間違うばかりの凛々しい女性武官。腹違いの妹にして部下のイオリだった。



「お忙しいところ申し訳ありませんが、お時間宜しいでしょうか。お願い事に参りました」



 華やかな美貌にお手本の様な微笑を浮かべ、イオリはそう切り出した。

一見下手(したて)に出ている様にも見えるが、その完璧な笑みが無言の圧力を加える。断る事など許さないと。



 中身も外見も似ていない妹だが、やや強引にでも己の意志を通そうとする性格の悪さは、確かに血の繋がりを感じた。

私は短く息を吐き出し、彼女の言葉を促す。



「何だ」


「私を、サラサ様の護衛に戻して頂きたい」


「…………」



 単刀直入、という言葉が相応しい。これ以上無い直球を投げて寄越され、私は沈黙した。

是しか受け取らぬ、と言わんばかりのソレは最早、お願い事などと言う、殊勝なものでは無い。

決定事項の報告の間違いではないのか、と内心で呟く。



「…………」



 戯れ言を聞く暇など無い。仕事に戻れ。

常ならば、そう即座に却下しただろう。

だが今は、イオリの申し出を一蹴する事は出来なかった。



 後宮に賊が侵入した一件が収束し、側室一人一人に付けていた護衛は、解除された。

後宮内の見回りは、増員したまま継続させていたが、それ以上は必要無いと判断された。

エイリ家やそれに連なる家々の財産没収等、人手はいくらあっても足りない。安全が確認された場所に、これ以上人員を割く事は出来なかった為でもある。



 だが、サラサ様に限っては、それは当て嵌まらない。

あの御方には、これからも危険が付き纏うだろう。



 敵は内外問わず。

唯一の寵妃として敵国は勿論の事、権力を欲する貴族らや嫉妬に狂う側室……並べ立てればキリがない。



 サラサ様には護衛は必須。

そして適任は確かにイオリだろう。



「……それは私も考えている。だが、あの方だけに護衛をつけると言うのは問題だ」



 あからさまな特別待遇は、他の側室方の嫉妬を煽る事となる。



「ならば他の方々にも護衛をつけましょう」



 渋面を浮かべ、そう告げた私に、イオリは事も無げに言ってのけた。



「……何?」


「幸い、……おっと失礼。口が滑りました。残念ながら、エイリ様に続きお二人の側室が後宮を去る事となり、前回より割く人員は少なくて済みますし」



 エイリ家に連なる家々の没落の余波を食らった形で、力を削がれた貴族らも少なくない。その中に、側室の方々のお身内もいた。

後ろ楯を無くした側室が、後宮でどの様な思いをするのかは、想像に難くない。



 結果、お二人の側室が、後宮を去る事となった。



「それに護衛の目があれば、他の側室方も、滅多な事は出来ないでしょう」


「……そうだな」



 暫し考えた後、私は頷く。

牽制と監視は、確かに必要だ。



「陛下にお話しておく。許可を頂いた後は、人選はお前に任せよう」


「了解致しました」



 用件は済んだとばかりに早々に退室しようとしているイオリを見て、私は彼女を呼び止めた。



「イオリ」


「はい」



 手元の書類を片付け、処理済みの書類の束を手に取り、私は立ち上がる。

それを各部署へ届ける様頼もうとした筈だったが、気付けば私の口からは別の言葉がこぼれ落ちていた。



「……お前は、何の為に動く?」



 私の言葉に、イオリは僅かに目を瞠った。

次いで、真意を探る様に眇められる。無理もない。



 我ながら、何を言っているのかと呆れたくなった。



 だが、聞いてみたくなったのだ。

まるで障害物など何も存在しないかの様に、躊躇い無く進む妹の思いを。覚悟を。



 国の為。主人の為。大儀の為。

いくらでも思い浮かぶ大義名分のどれもが、全くしっくりこない。



 私は一体、何にこれ程拘る?



 イオリは暫く沈黙し、私をじっと見ていた。

だがそれ以上何も言わぬ私をどう思ったのか、ふ、と表情を緩める。彼女は、何の作為も感じない自然な笑顔を浮かべた。



「自分の為に」


「…………」



 意外な言葉に、今度は私が目を瞠る羽目になった。

イオリならば『サラサ様の為』、そう言うだろうと考えていたのだ。



 唖然とした私を見て、イオリは苦笑する。



「私欲で動いておいて、あの御方の為だなんて口が裂けても言えません。……喜ばないと分かっていながら、それでも押し付けているのですから」


「…………」



 そうだ。

喜ばないと、望んでいないと知ってしまった。

それでも諦めきれぬこの想いは、私欲と呼ばれるのか。



「ですが、私は私の考えつく最善の為に動く。……幼い言い方をするならば、大好きなあの方を、失わない為に」


「…………」


「後宮と言う特殊な場所にありながら、清らかに美しく咲く花を守る為ならば手段など選ばない」



 呆気にとられ間抜け面を晒す私に、イオリは艶然と微笑んだ。



「兄上も、難しく考えない方が良いですよ。開き直ってしまえば、案外単純なものです。我々武官の頭は、小難しい事を考えるには向いていないのだから」



 そう言い残し部屋を後にしたイオリの後ろ姿を見送った後、私は再び椅子に腰を下ろす。



 時間をかけて飲み下した言葉に、私は苦笑を浮かべるしかなかった。





「……成る程」



 これは確かに、紛れもなく私欲だ。



 主人の隣に、

己の傅くその席に、



 あの御方が欲しい、そう思った此れは。



 確かに、私の欲。



.

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