将軍閣下の困惑。
引き続き近衛軍大将 セツナ・イノリ視点です。
「サラサ嬢は、工部のトウマ侍郎のお嬢さんだそうだね」
そう切り出したホウリ大師は、ゆったりとした動作で、卓子の上の指を組む。
若い頃の美貌を思わせる、老いても尚優美な細面とは全く印象の違う、ごつごつと節くれ立った指だ。
何度見ても、文官の手とは思えない。あれは剣の扱いを知る者の手だ。
アカツキ様のお父上……先帝の治世の下、能吏として活躍なされたと聞き及んでいるが、語られぬ武勇伝も多いと思われる。
味方としてはこの上無く頼もしい御方……だが、今回の件に関しては、味方とはまだ言えぬ。
ホウリ様個人としては、アカツキ様に想い人が出来た事を喜び応援して下さるだろうが……。
皇帝陛下を助け導く大師としてのあの方は、私情になど流されぬだろう。
もしもサラサ様が、陛下の弱みにしかならない方だと判断されてしまった場合、立后は絶望的だ。
そうさせては、ならない。サラサ様は陛下に必要な方。
弁が立つとは言い難い私が、この方を説得出来る確率は限りなく低いが……それでも。
私は私に出来る事を。
そう決意も新たに、ホウリ様に視線を合わせる。
大師は意外そうに瞬いた後、緩く口角を上げ瞳を細めた。
「……?……、」
「……お父上の事は、良く知っているよ」
その笑みの理由が分からず、問いを口にしかけた私を制す様に、大師は話を続けた。
「穏やかなお人柄で、皆に慕われている。決して目立つ方では無いが、人と人を結び付ける尊き才をお持ちだ」
ホウリ大師の賛辞に、私は目を瞠る。穏やかな物腰や口調とは裏腹に、己にも他人にも厳しい御方が、こうして誉める人物はそう多くは無い。
私自身はトウマ侍郎と直接の面識は無いが、サラサ様を見れば、ご両親が素晴らしい方であろうと推察する事は出来る。
「……サラサ様にも、その尊き才は受け継がれている様です」
「ほぅ……それは誠かい?」
鋭い眼光を放つ瞳を見据えながら、私は頷いた。
「後宮入りして、まだ一年にも満たないにも関わらず、あの方の味方は多い。……それはサラサ様が、自ら考え動いてきた事の結果です」
後宮とは、女達の戦場。
煌びやかで麗しい外観とは裏腹に、様々な思惑や陰謀が渦巻く伏魔殿だ。
か弱い者は淘汰され、強かで狡猾な者だけが伸し上がる、弱肉強食の世界。
そんな場所で、心から信じられる友を得るという事は、どれ程希有な事か。
「サラサ様は他の側室方にお心を砕き、懸命に努力してこられました。皆様の為、そして陛下の御為に」
「成る程」
ホウリ大師は、顎髭を梳きながら頷いた。
「出過ぎた真似はせず、影から陛下を支える……サラサ嬢は、側室に相応しい女性の様だ」
「……っ、それは」
有無を言わせぬ様な微笑みを浮かべる大師。私は返す言葉に詰まった。
『側室に相応しい』と言う言葉は、穿った見方をすれば『側室止まり』ともとれる。どういった真意で大師が言ったかは、判断がつかないが。
「その様な方が寵妃で良かった。陛下の寵を独占しようと画策する事も、悋気を起こす事もなさそうで安心だね」
「…………」
相変わらずの底の読めない笑みを見つめながら、私は己の眉間にシワが寄るのを感じた。
込み上げて来る苛立ちを誤魔化す様に、卓子の影で拳を握り締める。
サラサ様を評する大師の言葉一つ一つが、苛立ちを煽った。都合が良く御し易い女だと、そう言っている様にさえ感じる。
「聡い所もまた好……」
「サラサ様は」
好ましい、そう続ける筈であったであろう大師の言葉を、私は遮った。
普段ならば決してしない不作法だ。だが私は躊躇せずに言い切った。
「素晴らしい御方です」
「…………」
大師は笑みを消した。榛色の瞳が値踏みするかの様な光を宿す。
「あの方の謙虚さやお優しさを、身の程を弁えているなどと評されたくはありません」
「……そこまでは言っていないよ」
大師は苦笑を浮かべて、困った様に頬を掻いた。
「そう聞こえましたが」
「一般論を述べたまで……と言いたい所だが、それだけでは無い。サラサ嬢自身も、そう考えているのではないかな?」
「……は?」
ホウリ大師は、思考を巡らす様に視線を下げる。
暫くしてから顔をあげた大師は、真っ直ぐに私を見た。
「君の他にも何人かに、サラサ嬢の人となりを聞いてみて、私が出した結果だ。おそらく彼女は、側室以上の地位など望んでいない」
「……それ、は」
「君は彼女に才を見出だしたのだろうが、望まない人間を無理矢理地位に据えた所で、良い結果は得られないよ。ましてや、聡く控え目な女性なら尚更だ」
荒れた地に根を張り懸命に咲いた花を、引き抜き窓辺に飾る様な愚行だ、それは。
そう淡々と告げた大師に、私は返す言葉も無かった。
何もかも見通す様な視線が、私を射ぬく。
「覚悟無くして進める道では無い。……どうしてもと、彼女を望むのならば、サラサ嬢自身を説得するのが何よりも必要な事だ」
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