将軍閣下の決意。
近衛軍大将 セツナ・イノリ視点となります。
――ヒラリ
風に運ばれて来た淡い色の花弁が、卓子の上に落ちた。
暫しの間それを眺めていると、もう一枚花弁が舞い込んで来る。ヒラヒラと踊るそれは、私が手にしている白磁の茶器の中へと滑り込みプカリと浮いた。
これは何の花だっただろう。
花鳥風月を愛でる、などと言う優雅さを持ち合わせていない私は、その花の名がすぐには思い浮かばなかった。
顔を上げ、東屋の外に視線を向けると鮮やかな蒼天を背に、健やかに枝を伸ばし美しく咲き誇る花。
次いで、向かいの席に座り、その花を見つめる人の姿が目に映った。
年輪の如く深く刻まれた皺を更に増やす様に目を細め、整えられた白い顎髭を指先で梳く。
愛しむ様な眼差しに、そう言えばこの方の好きな花だと思い出した。
曰く、控え目な色や芳しい香りが奥方様にそっくりだそうだ。清楚な美しさと、女性としての艶を兼ね備えた、最愛の方に。
結婚されてから、既に半世紀以上連れ添っていると言うのに、未だ新婚の様な溺愛ぶり。この方を見ていると、つい主人の顔を思い浮かべてしまう。
恐らく、陛下もこうなるに違いない。
年を重ね皺を刻み、老齢となっても尚、サラサ様を可愛いと言い続ける姿が容易く想像出来る。
今頃執務室でくしゃみをしていそうな主人を思い浮かべながら、私は茶器を卓子へ置いた。
「……お話とは、何でしょうか。ホウリ大師」
「…………」
呼び掛けると、花に固定されていた視線が、ゆっくりと此方へ向けられる。
暫く無言で茶を味わっていたホウリ大師は、茶器を置いた後、目を伏せ嘆息した。
「……相変わらずせっかちだね、君は。もう少し色んな事を楽しむ余裕を持ちなさい」
昔から言われている苦言を繰り返され、私は頭を下げる。
「申し訳ありません。……しかし、」
「仕事が残っているから、とでも言う気かい?」
「…………」
先に言われてしまった言葉に、私は恐縮する他無かった。
ホウリ大師は、先程よりも長く息を吐き出し、呆れを多分に含んだ眼差しで私を見やる。
「本当に君は、融通が利かないな。補佐は別の者に任せてきたのだろう?ならば今は仕事の事は忘れなさい」
「ですが、主君が働いていらっしゃる時に……」
「休んで体調を整える事も、臣下の義務だ」
そう諭す様に言われてしまえば、返す言葉も無い。
私が頷くと、ホウリ大師は表情を緩め瞳を細めた。
「たまには爺の話に付き合っておくれ。……あの坊に、漸く春が訪れたそうじゃないか」
ホウリ大師の言葉に、私は苦笑を浮かべた。
この方の言う『坊』とは、陛下の事。大陸中にその名を轟かせる鴻帝も、この方にとっては未だ手のかかる子供のままの様だ。
「大師のお耳にも入っておられましたか」
「勿論だとも。初めて聞いた時には、遂に耳がおかしくなったかと思ったものだ」
あの坊が、恋とは!
そう言って大師は、声を出して笑った。
「しかもかなり熱烈だと聞いたが、本当かい?」
「はい。他が目に入らぬ寵愛ぶりです」
「……人生、何が起こるか分からないものだね」
即座に頷いた私を見て、大師は目を瞠った後、しみじみとそう呟いた。
無理も無い。私も驚いたものだ。
「坊は、ある意味人見知りだ。沢山の人に慕われながらも、深くまで踏み込む事を許すのは、極僅かの者だけ。それも昔馴染みばかり」
陛下は決して、排他的な訳では無い。
古参に限らず、実力を持ち勤勉である者には、相応の地位を与え重用している。
皇帝としてのあの方に『人見知り』と言う言葉は、当て嵌まらない。
だが皇帝ではなく、アカツキ様としてならば、否定は出来ない。
あの方が皇帝の表情を崩すのは、私やイオリを含め昔からあの方を知る、極僅かな者の前だけだ。
何人側室を迎えようともそれは変わらず、落胆したものだったが……。
「こんな一瞬で、坊の心を溶かす女神が現れるとは……流石に私も予想がつかなかったよ」
そう、予想など出来ようも無い。
サラサ様の存在自体が奇跡のようなものなのだから。
陛下の心を溶かした女性が、贅を尽くし欲に溺れるでも無く、寵愛を盾に権力を振りかざすでも無く。
ただ純粋にあの方を愛し、支えようとして下さる方であった事が、本当に奇跡の様だ。
―――だからこそ、
「ねぇ、セツナ。……噂の女神は、一体どの様な方なんだい?」
万が一にも、潰させてはならない。
陛下を守って下さるあの方を、我らが守らなければ。
試す様な瞳を見返しながら、私は深く息を吸い込んだ。
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