将軍閣下の疲労。
近衛軍大将 セツナ・イノリ視点です。
「……いい加減になさって下さい」
ため息混じりに私が洩らした苦言に、執務机の上に積み上げられた書類に埋もれていた主人は顔を上げた。
訝しげに眉間にシワを寄せるその表情に、自覚が無いのかと更に疲労が押し寄せる。
「何がだ」
憮然と呟かれた言葉に、私が先程よりも長い嘆息で返すと、眉間のシワはより深くなった。今なら貨幣が挟めそうだ。
「言いたい事があるなら、口で言え!」
「その様な無礼は致しかねます」
「……何を考えていた」
無礼な事を考えていたと言ったも同然の私に、主人の整った顔が顰められた。
憮然となる陛下の顔を眺めながら、私は無表情で淡々と告げる。
「お許し頂けるのならば、お答えいたしますが」
「…………」
苦虫を噛み潰した様に顔を歪める主人に、私は多少溜飲が下がった気がした。
昨夜、寵妃たるサラサ様の元へ向かう陛下は、とても思い詰めた顔をなさっていた。
最近の陛下はまるで手負いの獣の様で、サラサ様と何かがあった事は明白。
その憂いを彼女が晴らしてくれれば、と祈る想いで送り出したのだが……。
翌朝の、やに下がった陛下の顔を見て、私は心の内で呟いた。
ここまでは求めていない、と。
何故か昨夜よりも目元の隈を濃くした主人は、かつて戦場で軍神と呼ばれた方と同一人物かと疑いたくなる様な、甘ったるい顔で幸せそうに笑っていた。
朝から胸焼けがしそうだった。甘味の類が苦手な私にとっては苦行にも等しい。
しかも、仕事を始めてからもその苦行は続いた。
普段通り、処理速度も早く執務自体に滞りはさして無い。
……時折、手を止めて思い出し笑いをする以外は。
先程も、まるで恋文を見ているかの様に甘く瞳を細め、口元を綻ばせていた。
おそらく……いや十中八九、サラサ様を思い浮べているのだろう。
手元の書類……西国との交易に関するものだが、その何処に愛しい寵妃を思い出す要素があったのかは甚だ疑問だが。
恋は人を愚かにする、と聞いた事があるが、この方が例外で無かった事が悔やまれる。
幸せなのは良い事だが、自分にまで被害が及ぶのならば話は別だ。
そのうち惚気話まで聞かされそうな気さえする。
とんだ拷問だ。
冷たい視線を無言で送っていると、陛下は耐えかねた様にバン!と机を叩くと此方を睨み付ける。
「先程からお前は!!その目は何だ!!……何が言いたい!?」
「……お許し頂けると解釈しても?」
「そんな目を向けられ続けるよりはマシだ。許す、言え」
苦々しい顔付きで、尊大に言い放つ陛下に、私は心の内を吐露した。
「その締まりの無い顔と、花畑な頭を何とかして下さい」
「…………殺すぞ」
正直過ぎる言葉に、陛下は一瞬絶句した。
次いで、瞳を眇め低く唸る。額に青筋が浮かんでいるのは見間違いではあるまい。
「おや。お許し頂けるとの事でしたが」
飄々とそう言ってのければ、陛下は疲れた様に額に手をあて項垂れた。
「少しは包み隠せ」
「今の陛下に遠回りな言い方をしても、通じそうにありませんでしたので。何せ交易の書類までも愛しい方を思い浮べる要素になり得る様ですからな」
「…………」
滅多に浮かべない微笑を浮かべつつ嫌味を言えば、陛下は私を睥睨しつつも何も言わなかった。
その辺りの自覚は一応あるらしい。
仲睦まじく、大変喜ばしいなどと言えば額面通り受け取られかねない。
寒々しい。
あの陛下が色惚けとは、ある意味貴重な珍事ではあるが。
本当に、恋とは厄介なものだ、と私は心中で呟いた。
.