03
暫くその場に立ち尽くしていた私は、ヒヤリとした感触に我に返った。
見ると肩の辺りが濡れている。風で吹き込んだ雨に濡れた様だ。
「…………」
……帰らなきゃ。
ノロノロと足を動かし、私は部屋を目指した。
「…………?」
部屋の前に着いたが、何時もと違い、中から複数の人の気配がする。
不思議に思い首を傾げながら、私は入り口の戸を開けた。
「……!サラサッ!!」
「っ?」
ソロリ、と中を覗き込むと、息を飲む様な音がした後、大きな声で呼ばれた。
身を竦める私に、視線が集まる。
「サラサ様っ!ご無事で……!!」
何時も優雅な微笑みを浮かべ、取り乱す事の無いカンナは、泣きそうな顔で、私へと駆け寄って来た。
「良かったぁ……」
ヘタリ、とその場に崩れ落ちるホノカ様。その隣で安堵した様に息を吐き出したアヤネ様は、何かに気付いたのか、表情を硬化させる。
「サラサ……貴方、血が、」
「…………」
言われて、視線を下げる。
私の服に、点々と飛んでいる赤い染み。腕に、ベットリとこびり付いた何かは、渇いて黒く変色していた。
「怪我を……!?」
「私のでは無いわ。……私の血じゃ、無い」
「……っ、」
誰かが息を飲む。
顔を上げれば、真っ青な顔色のシャロン様と目が合った。
彼女は、私には近寄らず、暫く固まっていたが、そのうち何かを振り切る様に目をギュッ、と瞑り、身を翻す。
虚ろな目で佇む事しか出来ない私に、皆困惑しているようだ。
一定距離で私を囲んだまま、沈黙が落ちる。
……こんなんじゃ、ダメ。ダメだと、分かっているのに。
頭が働かない。考える事を放棄している。
……少しでも開けてしまえば、沢山のものが、溢れだしてしまいそうで――。
「……サラサ、様」
「……?」
小さな声に、呼ばれた。
首を動かさず、視線だけ其方へ向けると、何処かへと去って行ったシャロン様がいる。
濡れた手には、絞った布と桶を持って。
「…………」
シャロン様は、私の傍へと歩み寄った。
生々しい血の跡に怯んだのか、息を詰める音がした。顔色は、変わらず蒼白い。
でもシャロン様は私の血塗れの腕にそっと触れると、濡れた布で血を拭い始めた。
「…………っ」
「!」
シャロン様の、白い手が、赤く染まってしまう。
私は、強迫観念に駆られ、彼女の手を払った。
驚いた様に目を瞠ったシャロン様は、キュ、と唇を引き結び、何事も無かったかの様に作業を再開させる。
「……!」
戸惑う私の髪に、今度は違う手が触れた。
ゆっくりと、柔らかく髪を撫でる手に驚き顔を上げれば、優しい笑顔を浮かべるアヤネ様。慈しむような目に、私は言葉を無くす。
「ダリア様、此方をお使い下さい」
「ありがとう」
シャロン様の使う布や湯を替えるカンナ。
彼女はもう1つ用意した桶で、違う方の腕の血を拭う。
「…………、」
ホノカ様は、どうしたらいいのか分からないのか、ウロウロとしていた。手を出したいのに、入るタイミングが分からないのだろう。長縄跳びに入れない子供みたいに、躊躇を繰り返している。
「……!」
やがて何かに気付いたのか、私に近付いて来た。
そしてあろう事か、綺麗な服の袖口で私の頬を拭う。
「ちょ、」
グイグイと、手加減出来ていない手つきは、シャロン様やカンナの繊細な動作と違って痛い。肌がヒリヒリする。
でもホノカ様は、満足そうに笑った。
「綺麗になったわ」
「……っ、」
何の作為も無い笑顔を、正面から見れなくて、俯きそうになる私を叱咤する様に、手を握られる。
「はい。綺麗になりました」
「……」
シャロン様の指先は、最初震えていた。
それなのに今、彼女は柔らかな微笑を浮かべている。手を赤く染めながら。
「シャロン様っ……手が」
「大丈夫です。こんな事、なんでもありません」
「!」
怖いだろうに、健気に笑むシャロン様を見て、私は言葉を詰まらせた。
指先を、キュ、とシャロン様が握る。
「大丈夫ですから……何処にも行かないで下さい」
「!」
蒼い、透明度の高い宝石みたいな瞳が、真っすぐに私を捉える。
体が、震えた。
消えてしまいと、思っていた。
元の世界に帰りたいと、心の底から願った。
お母さん、お父さん、貴一、明里、サチさん、啓太……皆……会いたい、帰りたい。そう繰り返していた。逃げだと詰られても、返す言葉も無いけれど。
此処にいたら、私はまた誰かを傷付けてしまうかもしれない、と考えるだけで怖かった。
今ならまだ、間に合う。
私じゃなくてもいい。
沙羅がいなくても、きっと困る人なんていない。そう、言い聞かせていたのに。
それなのに、シャロン様は、私の逃げ道を塞いだ。ずるくて弱い私の手を握り、引き止めてくれる。
「……っ、」
胸が、いっぱいになる。
今まで我慢していたものが、堰を切って溢れだす。両目から、涙となってこぼれ落ちた。
「……っく……」
ぼろぼろと、大粒の涙がとめどなく流れ落ちる。
優しく頭を撫でていた手に抱き寄せられ、ため息の様な密かな声で詰られた。
「馬鹿な子ね……。1人で我慢するなんて」
優しい手が、私の頭をそっと抱き締める。とても良い匂いがして……まるで、お母さんに抱き締められてるみたいで、私の涙は余計止められなくなった。
「怖かったわね。辛かったわね。……もう我慢しなくていいのよ、サラサ」
「っ、」
怖かった。凄く怖かった。
人が、目の前で死んだの。
血が沢山出て、今まで言葉を交わしていた人が、動かなくなった。目を、開ける事が無かった。
そして、その人の命を奪った責任は、私にもあるの。
私だけのせいだ、なんて言える程、自己犠牲の精神を持っていないけれど。
私がいなければ、ルリカ様がモエギさんに見切りを付けられるのは、今では無かった。
どんどんネガティブに、考え込んで、深みにはまっていく。
しょうがない、なんて、簡単には、割り切れない。
そうしてしまうには、人の命は、重過ぎる。
「……っ、うぇ……っ」
私は子供みたいに、しゃくりあげて泣いた。
心の中で、ごめんなさいとありがとうを、繰り返しながら。
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