02
イオリは、何か言いたげに私を見る。
けれど結局はそれを飲み込み、短く御意と返して、瞳を伏せた。
「……っ?」
グイ、と強く腕を引かれる。
イオリをぼんやりと見つめていた私は咄嗟に反応出来ず、勢い余って転びそうになったが、陛下の腕に容易く受け止められた。
「……あ、」
至近距離に、陛下の顔がある。冷たいと感じる漆黒の瞳が、私を捉えた。
「余所見はするな。……行くぞ」
低く呟き、陛下は歩き始めた。
何時も、さり気なく私を気遣って下さる陛下は、私を振り返る事無く、乱暴とも言える力で腕を引く。
体格が全く違う為、私は引き摺られる様に、後を付いていく事で精一杯だった。
ザー……
雨の音と、足音だけが響く。
屋根のある通路を歩きながら私は、広い背中を見つめていた。
「…………」
もう少しで、私の部屋に辿り着く。そこの角を曲がればすぐ、という所で陛下は、突然足を止めた。
顔から突っ込みそうになるのを、なんとか踏みとどまり、私は乱れた息を整える。
じっと、陛下の言葉を待っていた。
けれど陛下は、何も仰らない。振り返る事もしない。
ただ繋いだ手だけが、温もりを伝えてくれた。
「…………か」
「……え?」
低い、微かな呟きが聞こえた気がした。
雨音にかき消されて、殆ど聞き取る事が出来なかったが、陛下のお声だった様に思う。聞き返すと、ぎゅ、と繋いだ手に力が込められる。
「……陛、」
「嫌になったか」
「…………?」
呼び掛けを遮り、陛下はそう言った。声はしっかりと聞こえたが、その意味が分からない。
振り返っても下さらないから、お顔を見て、考えを読み取る事も出来ない。与えられるのは、拒絶する様な背中だけ。
「この国は、争いばかりだ。……人を欺き陥れる獣どもが、他国を食い潰すだけでは飽き足らず、身内同士で共食いを始める」
「…………」
「……私も、その獣の一匹だがな」
吐き捨てる様な低い声に、笑いが混ざる。
握った手に、痛い位の力が込められた。
「あのエイリ家の私兵は、例え自害せずとも、生き長らえる事は不可能だった。例え事情があったにせよ、見逃せは秩序が乱れる。……吏部尚書も然りだ」
「…………」
淡々と話している筈なのに、その声は苦しそうだった。痛いのなら、辛いのなら、言わなくてもいいのに、陛下はまるで懺悔する様に吐き出す。
「サラサ。―――私が、恐ろしいか」
「……!」
頭が真っ白になる。
胸が、締め付けられるようだ。
覚悟の無いわたしを、見透かされた気がした。
私は、貴方に恋をして、貴方の役に立ちたいと思った。
邪魔はしたくない……独り占め出来なくていいから。たまに傍にいれたら幸せ、だなんて
甘ったるい、夢を見た。
「……っ、」
貴方を、変わらず愛しています。
それに偽りなんて無い。……なのに、伝える言葉に詰まる。
私がこうして貴方の傍に居るという事が、誰かの痛みになり得る。私の幸せは、誰かの不幸の上に成り立っているんだと、今更ながらに気付いてしまった。
ルリカ様の幸せの為に、クレハさんが踏み躙られた様に、
クレハさんのお父様が倒れ、サラサの父が昇進した様に、
私の幸せは、沢山の人を踏み台にしているんだ。
モエギさんが、全ての罪を被って逝った様に、私が幸福を求める事が、誰かの命さえ奪ってしまうかもしれない。
怖い。全部、怖い。
後宮も、この国も、未来も、イオリも、陛下も、皆。
でも、こうしている間にも、誰かを傷付けているかもしれないのに、それでも貴方を恋う、あさましい自分が……一番恐ろしい。
「……はい」
返した言葉は、雨音に容易く消されてしまいそうな程、小さかった。
「……そうか」
でも、届いてしまっていたらしく、陛下は短くそう呟いた。
「……っ?」
一瞬の間を置き、腕を引かれる。
背中に少しの衝撃を受け、訳が分からないまま、目を瞑った。
次いで、唇に何かが触れる。
「…………!」
そろりと、目を開けた。
背中を壁に押し付けられ、両手は陛下に縫い付けられるように拘束されていた。標本の昆虫みたいな自分の姿に驚くよりも、間近にある綺麗な顔に、息を飲む。
視点が合わない位、至近距離にある陛下の顔。唇の感触が離れ、口付けされたのだと、漸く理解した。
「…………」
「……オレもだ」
擦れた低い声音が、耳朶を打つ。陛下は、拘束していた腕を離し、私の頬をそっと撫でる。
無表情だった雄々しい美貌が、泣き笑うように歪められた。
「……オレも、お前が恐ろしい」
「…………」
押し殺した様な呟きを残し、陛下は体を離した。
それ以上は何も言わず、去っていく背中を、私はただ呆然と見送る。
何故口付けしたか、とか
さっきの言葉の意味は何、とか、分からない事は沢山ある。
でも、これだけは分かった。
私は、あの方を傷付けたんだ。
臆病な私の心が、あの方までも傷付けた。
「…………っ、」
中途半端で、意気地ない私が、大切な貴方を、傷付けてしまったんだ。
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