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「『クレハ・カナイ』」
その名を、ご存知ですね。
モエギさんは、そう言った。
疑問では無く、断定の形だったソレは、取り乱し叫ぶようなものではなかったが、静か故に迫力があった。
「……?」
クレハ・カナイ。
私自身には、聞き覚えの無い名前だ。少なくとも、側室の中にはいない筈。
ルリカ様も戸惑った様子で、すぐにモエギさんの凶行と結び付ける事は出来ていないようだ。
「……知っては、いる…けれど、」
自信無さげに呟かれた声は、深く関わりのある人の話をしている様には聞こえない。
友達の友達や、俳優さんの話をするような……あくまで直接関係は無い、けれど名や顔は知っている。そんな戸惑いを含む声音に、私も首を傾げざるを得なかった。
その程度の関わりしかない人間に、酷い事など出来るのでしょうか。
出来て噂話をする位じゃあ…………ん?
あれ……何か今、引っ掛かりました。
カナイ、という名を、何処かで耳にした事がある気がする。
クレハというお名前には心当たりが無いものの、……いつだか、日本で漢字表記するなら『金井』もしくは『叶』となるのかな、なんて考えた記憶が……。
……ああ!
噂話です。アヤネ様と一緒に初めて参加したお茶会で、ルリカ様が話していた噂の人物が、そんな名前でした。
確か、少し前に結婚したカナイ家令嬢のお話でしたよね。……ただ生憎私は、漢字表記の方に思考を飛ばしていた為、その後の内容までは覚えていない。
「どのような方ですか?」
モエギさんは、凍り付きそうな冷たい目でルリカ様を射ぬく。
ルリカ様は気圧され、息を飲んだ。細い肩は震えているが、それでも彼女はモエギさんの問いに、小さな声で答えた。
「カナイ家、工部侍郎……いえ、元工部侍郎のご息女で……最近ご結婚なされて……お相手は確か、吏部官吏だった筈……。」
「…………。」
ルリカ様の話を聞きながら私は、気になった事かある。
……『元』工部侍郎?
私の……いえ、厳密にはサラサの父親が昇進し、工部侍郎になったのは、もしやその方が辞めたからなんですかね。
私が側室になった事で、出世の足掛かりが出来、いつかは昇進するだろうとは思っていましたが……思えば結構突然でした。前の方が辞められた事で、急遽その穴を埋める形の昇進だったとも考えられます。
……でも、何で突然辞められたんだろう。
緊迫した場面で、場違いにも考え事に耽りそうになった。我に返り、その疑問を頭から弾き出そうとしたのだが、すぐにそれは解決する事となる。
続けられた、ルリカ様の言葉で。
「……でも、結婚されてすぐに自害したと聞いたわ。お父上はそれが切っ掛けで病に伏され官吏を辞されたとか。」
「!」
自害。その重い言葉を聞いた瞬間、モエギさんの瞳が眇められた。
「……理由を、ご存知か。」
「……え?」
呟いたモエギさんの声は、低くこもっていて、とても聞き取り辛い。
ルリカ様が聞き返すと、向けられていた切っ先が揺れた。まるで何かの衝動を押し殺しているかの様に、柄を握るモエギさんの手が、微かに震えている。
「……クレハ・カナイが自害した理由を、ご存知かと聞いている。」
「え……?……知らないわ。」
困惑顔のルリカ様に、嘘は無いように見える。
だがその事こそが、モエギさんの逆鱗に触れてしまった。
ダンッ!!
「…っ、」
ルリカ様のすぐ横を掠め、壁に剣が突き立てられた。パラリ、と真紅の髪が一房、床に散る。
目を見開き、声も出せない程怯えているルリカを見つめたまま、剣を引き抜いたモエギさんは、渇いた笑い声をあげた。
歪んだ笑みの恐ろしさに、私はルリカ様を抱き締める。
「現皇帝陛下が即位と同時に後宮に召しあげると決めた側室は、五人。当初、その中に貴方は含まれていなかった筈です。……なのに貴方は、五人目の側室。その意味をお分かりか?」
「……っ、」
「……え?」
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