02
「…出どころは何処だ。」
そう呟かれた声は、恐ろしく低かった。
辺りを凍てつかせる様な冷気を放つ我が主人に、私は無言を貫く。…確証の無い事は言えないという以前に、言ったらお嬢様方がどうなる事やら。
「…イオリ。」
呼ばれた名はより一層低く、凄味が増している。
大抵の者は平伏して命乞いしそうな迫力だ。…生憎その括りに私は含まれていないが。
内心でため息をつきながらも、表面上は神妙な顔で俯く私と、怒気を放つ陛下の間に沈黙が落ちる。
常識人が此処にいたのなら、即座に臓腑か精神を病みそうな空気が流れた。
「…お止め下さい。陛下。」
その沈黙を、冷静な声が破る。
呆れを含んだソレは、場に似付かわしくなかった。この状況でそんな態度のこの男も、常識人の括りには入るまい。
銀の髪と瞳を持つ氷像の様なこの男の名は、セツナ・イノリ…近衛軍大将にして私の上司であり、
「我が妹を、あまり虐めないでいただけますか。」
私の、腹違いの兄である。
因みにあちらは正妻を母に持つ嫡男。私は所謂妾腹という奴だ。
だがドロドロとした確執がある訳では無く、奥様と母の関係も悪く無い。
家名が違うのは、子供のいない伯父夫妻の養子となったからという理由だ。
跡継ぎを産むつもりが無い私でいいのかは、甚だ疑問だが、彼らが良いというのなら良いのだろう。
…話は脱線したが、つまり、兄が陛下の幼なじみであるという事は、私も同じであるという事。
私は兄の後ろをついて回っていたに過ぎないが、それでも大抵の人よりはこの方の怒気には免疫がついていると思う。
…そんな私でも、この様に怒りを顕にする陛下は珍しいと感じてはいるが。
戦場での鬼神の如き猛々しさは別にして、普段のこの方は冷静沈着。懐が深く、声を荒げ怒鳴り散らす様な真似はまずしない。
大切なものを傷付けられた時の勘気は凄まじいものがあるが、それは命に関わる様な重大事のみ。
こんな、根も葉もない馬鹿げた噂に、此処まで苛立つとは…。
「頭を冷やして頂きたい。…こんな何の証拠も無い噂など取り合うだけ時間の無駄でしょう。」
目を伏せため息をつく兄を、皇帝はギロリと睨む。
「…そんな下らない噂に、サラサが傷付けられているのだぞ…!!簡単になど許せるか!!」
「……傷付けられて、ですか。」
呆れを多分に含んだ兄の言葉に読み取れる意志に、私も心の内で同意する。
…盲目、とでも言おうか。
サイリ様といい、冷静な人程、大切な人間の事には過剰反応するものなのだな。
「…サラサ様は、そのように脆弱な方でしょうか?」
「……何?」
「どうですか?イオリ。」
言ってやれ、とばかりに水を向けられ、私は内心でヤレヤレと嘆息した。
「サラサ様は、全く気になさっておりませんでした。」
「……真か。」
「はい、ご本人もそう仰っておられました。…お心の内は、私には計り知る事は出来ませぬが、おそらく本心ではないかと。」
陛下の眉間に、シワが刻まれる。
「…何故分かる。」
憮然とした表情に、笑いそうになって、私は顔を引き締める。
…分かりますとも。
寧ろ、貴方の方が良く知っている筈だ。
「…あの方は、お顔に出ますから。」
「!」
サラサ様は、感情が顔に出やすい。心許した者ならば、尚更。
それは勿論陛下にも心当たりがあった様で、陛下は言葉を詰まらせる。
大切な方に関する事は、冷静でいられないのは当り前だろう。
だが少し頭を冷やして、あの方を見てみれば分かる。
サラサ様は、強いお方だ。
「お嬢様方に面と向かって糾弾されたのなら、『逆に方法と経路を考えて貰いましょう。何かの足しになるかもしれません。』と笑っていらっしゃいました。」
「……………。」
人を疑い責めるのならば、それ相応の証拠と納得出来る理由を持って来い。――言外にそう仰っているのだ。
なんと逞しく、強かな。
あの方は、ただ可愛らしいだけの女性では無い。
「……………そうか。」
陛下は息を吐き出し、漸く表情を緩める。
苦笑を浮かべてはいるが、そんなサラサ様を好ましく思っているのは一目瞭然。
私は兄と目を合わせ、互いに苦笑したのだった。
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